出立の章

其の一 少年、聖王の従者となる

 諸侯らが白亜宮殿で悲鳴のような叫びをあげている頃、イシュナグは天馬を走らせていた。


「いやぁ、爽快爽快。……はっ」


 白い体躯に尻に大きな黒の斑点がある天馬の腹に、拍車を当てた。

 天馬は白い翼をはためかせる。

 自ら主を選ぶ気高き天馬は、聖王を乗せることができてとても嬉しそうだ。


「ひぎゃああああああああああああ!」


 速度を上げた天馬に、イシュナグの背後から悲鳴が上がる。

 悲鳴の主は、畏れ多くも聖王の背中に必死でしがみついているギシュタークだ。天馬の上で激しく揺られるのは、彼にとって恐怖でしかなかった。


 なぜこんな目にあっているのか、ギシュタークは悪い夢であって欲しいと一縷の望みをかけてこれまでの経緯を思い返す。




 ◇◇◇


 心ゆくまでウサギ肉を食べ続けたギシュタークが目を覚ますと、母のヒュンデもイシュナグもいなかった。

 もしかしたら、空腹のあまり幸せすぎる夢を見たのかもしれない。だが、この上ない満腹感が夢ではないと訴えてくる。


「母上、どこに行ったんだろう」


 ぽっこり膨らんだお腹をなでながら、クンクンと部屋の匂いを嗅ぐ。

 ヒュンデの匂いはすぐにわかる。というか、母のお気に入りの香水の匂いを忘れるわけがない。大人の蠱惑的な香りは、子どものギシュタークには慣れ親しんだ母の臭いでしかない。

 それからもう一つ。酒臭い馴染みのない人物の嗅いだことのない臭いが、ごちゃまぜになっている。


「夢、じゃなかったんだ」


 伝説的存在の聖王の帰還に立ち会ったというのは誇らしいが、まだまだ信じられない気持ちも大きい。

 皓々とした月明かりに照らされた回廊に出てみるが、母の元に行ってなんになるのだろうかと、彼の足が止まる。ここは大人しく、待っていたほうがいいのではないか。


「僕なんか、行ってもしょうがないもんね」


 白亜の回廊にペタンの座り込んだギシュタークは、月を見上げる。銀色の月は、聖山の頂にある白亜宮殿からでも、まだまだ遠くにある。

 彼が生まれた夜も、月が綺麗だったという。

 だからというわけではないだろうが、彼は月を見上げるのが好きだった。

 気がつけば、フサフサの尻尾が揺れている。


「ふぅふぅふふ〜んふぅん」


 気がつけば、陽気な鼻歌も。


 百年前に姿を消した聖王イシュナグの帰還に立ち会ったことは、疑いようのない事実だ。

 誇らしくないわけがない。


「ふぅんふふぅん……姉上たちも兄上たちも、これで僕をチビ呼ばわりできないのである」


 ギシュタークは、同じ年頃の獣人族に比べて体が小さい。よく言えば、小柄。悪く言えば、チビだ。

 二十人の姉たち、二十五人の兄たちに、何かとからかわれてきた末の息子は、聖王の帰還に立ち会った少年として、一目置かれる姿を想像してご満悦。

 女性社会の獣人族の中で、男が一目置かれることはめったにない。

 想像力豊かな彼は、獣人族のみならず、他の種族たちまでひれ伏している姿まで描いている。


「ふふぅん……ふふふふっ」


 パタパタと尻尾を振る少年は、背後に立つ人影にまったく気がつかない。完全に想像の世界に浸っている。


「苦しゅうないとか、ふふふふっ……ふぎゃっ」


 何を想像していたのかわからないが、腹を抱えて笑った彼の視界に純白の髪の男が映る。


「イシュナグさま、わわわっ」


「うむ。余である」


 伝説的な存在に、ギシュタークは慌ててひれ伏す。先ほどまで想像していたのとは、真逆の現実だ。


「面を上げ、楽にせよ。少年」


「ひゃ、ひゃい」


 恐る恐る頭を上げるギシュタークは、ブルブルと震え上がっている。

 もしかしたら、心の中で自惚れた想像をしていたことを平謝りしていたかもしれない。それほど、彼は今震え上がっていた。


「余は、お前を食ったりはせぬ。ところで、少年、名はなんと言ったかな?」


「ギ、ギシュタークと申します」


 鼠色の外套を羽織ったイシュナグは、顎を撫でてニヤリと笑う。

 外套の下は、丈の長いゆったりとした白のチュニックに、黒い帯。裾を引き結んだゆったりとした生成りのズボンと革のサンダルだった。

 偉大なる聖王にしては、あまりにも質素な出で立ちだ。


「少年、お前は余の臣下と心得てよいのだな?」


「も、も、もも、もちろんでございます」


 どうしてどうして、そうでないと言えるのだろうか。


「よかろう。ギシュタークよ。余の従者となれ」


 イシュナグの言葉に、ギシュタークは身に余る光栄に言葉もない。


「立て、従者ギシュターク。着いてこい」


「は、はい」


 さっさと行ってしまったイシュナグの後を、ギシュタークは慌てて追いかける。

 今さらだが、ギシュタークは大変なことになったと焦り始めた。


 獣人族、小人族、巨人族、翼人族の頂点に立つ聖王イシュナグの従者という大役が、はたして自分につとまるかどうか。確実に、つとまらない。

 ギシュタークは、所詮半人前ですらない獣人族の子どもだ。女王ヒュンデの息子とはいえ、女のほうが圧倒的な権力を握っている一妻多夫制社会の獣人族では、末っ子の彼はそこらの獣人族と大差ない。


 従者に任命されたが、イシュナグに考えなおしてもらおう。今なら、まだ間にあう。

 いつの間にか、彼がお腹いっぱいウサギ肉を食べた控えの部屋に戻ってきていた。


「イ、イ、イイ、イシュナグさまっ、あ、あああ、あのっ」


「ギシュタークよ、大きな声を出すでない。諸侯らの耳に入ったらどうする」


「も、申し訳ございません」


 シュンとうなだれるギシュタークに不安を覚えたのか、イシュナグは小さくため息をついて、少年に一枚の紙切れを突きつける。もちろん、この後、諸侯らが悲痛な叫びを上げる置き手紙だ。


「よいか。余は旅に出る。ギシュターク、お前も付き合え」


「…………イシュナグさま、もしかして母上たちは反対してるんじゃ」


「言うな。ギシュタークよ」


 嫌な予感がして尋ねれば、案の定イシュナグは顔をしかめる。


には、休暇が必要だ。休暇をどう過ごそうと、俺の勝手ではないか」


「でも、イシュナグさま……」


「聞け、ギシュタークよ」


 イシュナグは膝を折り、小さな体のギシュタークに目線を合わせる。


「お前、ウサギ肉をどれだけ食べた?」


「……」


「数え切れぬほど食べたであろう。その恩を返そうと思わないのか?」


 あんまりだ。あんまりすぎる。

 ギシュタークは、あまりのことに泣きたくなった。


「わかりました。イシュナグさま、どこにでもお供いたします」


「うむ。それでよいのだ」


 きっと、明日にでも諸侯らがイシュナグを探し出すだろう。

 聖王イシュナグは、どの種族にも属さない。額の聖紋と、今は手にしていないが、聖槍はとても目立つ。

 きっとすぐにでも見つけてくれるだろう。そして、誠心誠意真心こめて事情を話せば、怒られることはないはずだ。

 ギシュタークは、しばしの間のことだと諦めて、イシュナグとともに白亜宮殿からこっそりと抜け出した。




 ◇◇◇


 そして、今にいたる。


 雲海を抜け白亜宮殿のある聖山の麓で、イシュナグは天馬を止めた。

 日はすっかり昇りきっている。


「ここまででよいぞ。ご苦労であった」


 イシュナグが天馬の馬首を叩いて背後に目を向けると、ギシュタークは放心状態だった。


「しっかりしろ、ギシュターク」


「ひゃい」


 返事をするのがやっとだったようで、ギシュタークは意識を手放してしまった。


 どうやら、天馬に乗るのは初めてだったらしい。


「世話の焼けるやつだ」


 ギシュタークを抱えてイシュナグが天馬から降りると、白銀の馬具が消える。


「そなたには、ついてきてもらわねば困るのだよ」


 天馬にねぎらいの言葉をかけて、ギシュタークを地面に横たえたイシュナグは、軽くため息をつく。


 そう一人旅が寂しいからと、獣人族の少年を連れてきたわけではない。


 彼なりに、もっともらしい理由があってのことだが、そのことをギシュタークが知るには、もうしばらく時間がかかりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る