其の八 異世界人、日常に戻る

 サヤは、光の眩しさに閉じた目を開ければ、そこはもう生まれ育った世界だとばかり思っていた。


 青の世界。

 水面と雲一つない真っ青な空の境界すらわからない青の世界の、水面の上にサヤは立っていた。彼女の目の前には、イシュナグがいる。

 イシュナグは聖槍の穂先を水面に突き刺してグルグルと、足元に渦を作っている。彼の頭には、あいかわらず例のカチューシャがある。


「わたし、すっかりすぐに日本に帰れるとばかり思ってた」


「それができたら、一年も異世界ニホンにいなかったがな」


 サヤと言葉をかわしながらも、イシュナグはグルグルと足元をかき混ぜ続けている。


 何処かで見覚えのある光景だと、サヤは既視感を覚える。


「でも、さっき簡単にできるような言い方をしたじゃない」


「それは、見栄を張っただけだ」


 なんの悪びれもなくあっさり認めるところが、彼らしいとサヤは思った。


「それで、ここは一体どこなの?」


「アワイ」


「アワイ?」


 異世界ニホンでも異世界いせかいでも、不思議と互いに言葉に困ることは一度たりともなかった。それなのに、急にイシュナグが何を言っているのかわからなくて、サヤは首を傾げた。


「我が聖なる一族の祖でもある創造主が生じた世界の外側。それが、アワイ。世界がまだ幼い頃は、侵略しようとする異形のモノたちが大勢いたらしいが、俺が生まれた頃にはこうだった」


「へぇ……」


「アワイに自由に行き来できるのは、聖なる一族のみ。つまり、今ではもう俺だけだ」


「ガラムは?」


 サヤはなんのためらいもなく、イシュナグがもっとも嫌う名前を口にする。

 翼人族の君主とは、別の意味でズケズケと物を言う。イシュナグは、手を止めることなく、苦い笑いを浮かべる。


「あいつはもう、聖なる一族ではない。だから、サヤを異世界ニホンに帰してやれなかったのだろうが」


「……そっか、そうだよね」


 異世界ニホンで、サヤとショウタは何度か聖王と魔王が和解するようにと、虚しい努力を続けてきた。好きでそんなおせっかいを焼きたかったわけじゃない。異世界ニホンの存亡に関わる問題だったからだ。

 異世界ニホンの危機は、去ったはず。

 だから、これはもう本当におせっかいでしかないのだが、サヤは仲直りできるのではと考えてしまう。もちろん、世界が異なる部外者だからということもあるだろうが。


 グルグルと聖槍で足元をかき混ぜ続けていたイシュナグが、ポツリと呟いた。


「俺はな、サヤ。人間族を持て余しておったのだ。……最後の公主イザネとともに、こうしてふさわしい世界を引き寄せていた時、何を考えていたのだろうな。もう思い出せんが、どれほど言い繕ったところで、体のいい厄介払いだったろうよ」


「あっ!」


「どうした? 今さら、帰りたくないとは言ってくれるなよ」


「ううん。そうじゃなくて……イシュナグ、あなた神さまだったんだなって」


「どうも、俺にはその『カミサマ』というものが理解できそうにない」


 やっと聖槍で足元をかき混ぜているイシュナグの既視感の正体に気がついた。日本神話の国産みの場面だ。イザナギノミコトとイザナミノミコトが矛で大地をかき混ぜている絵を、教科書か何かで見たことがあった。

 今はイシュナグ一人だが、かつては公主――女性も一緒にかき混ぜていたのだから、まさにそういう絵面ではないか。


「五花弁の聖紋が四花弁になって気が楽になったが、気がかりだったのだろうな。体のいい厄介払いだったが、異世界ニホンで人間族にあえてよかったと思う。今なら、創造主が人間族を最も愛した理由わけが理解できるような気がする」


 イシュナグはどうしてもガラムのことを話したくないようだ。

 そこまで頑なになる理由がわからない。ガラムには、もうイシュナグを憎んでいる様子はないのに。

 いらぬおせっかいだとわかているのに、サヤは頭を悩ませてしまう。


「サヤ、見つけたぞ。異世界ニホンだ」


 黄金色こがねいろの瞳にうながされて、サヤはイシュナグの足元を覗きこんだ。


 足元の渦は、銀河だった。


『――――』


 イシュナグが耳元で囁く声を聞いた。


 目眩がしたと思ったら、ハロウィンイベントで盛り上がっている駅前広場に立っていた。


「沙耶ぁ、沙耶ぁ、帰ろうか」


 翔太の声の懐かしさに、サヤの目頭が熱くなる。


「沙耶、どこにいるんだよ。たっく、なんかおごってやろうってのに……」


 五メートルも離れていないというのに、翔太はなかなか沙耶に気がつかない。

 無理もないと、沙耶は苦笑いを浮かべる。

 今、彼女はガラムが用意してくれた異世界いせかいの服を着ているのだから。

 ちょっとした悪戯心が働いてしまい、必死で探してくれている幼馴染みをもうしばらく何食わぬ顔で観察することにした。


「どこ行っちまったんだよ、たくっ」


 スマホを取り出した翔太に、沙耶はあっと声を上げてしまった。思っていたよりも、声が小さかったのか、彼はまだ気がついていない。


「なんだよ、電源くらいいれとけっての。沙耶ぁ、おーい」


「……」


 なんてことだろう。三年間使うからと親に先月機種変してもらったばかりのスマホを、異世界いせかいに忘れてきてしまった。

 他にも、財布や定期券、学生証など、大事なものをたくさん忘れてきてしまった。


「マジかぁ」


 沙耶は、天を仰がずにはいられなかった。


「あのぉ、人違いだったら……」


「んー? 翔太なに?」


 やっと、翔太が沙耶に気がついたようだ。


「やっぱり沙耶かよ!」


 上の空で返事をした沙耶に、翔太は声を荒げる。ついでに鼻息も荒い。


「俺、ずっと探していたんだけどっ! てか、何その服?!」


「あー、ちょっとガラムたちの世界に行ってた」


「マジか! マジ? つか、なんで沙耶だけ? すげー悔しいんだけど!」


 本気で悔しがる幼馴染みに、大事な忘れ物のことを考えるのは、後回しにしようと決めた。今は、とにかく――


「詳しく知りたい?」


「知りたい知りたい! 教えてください、沙耶さま!」


「じゃあ、モックのダイナマイトバーガーセット、ポテトLLサイズ、今からおごってよ」


「マジか……」


 明日になれば、月初めのお小遣いが手に入るからいいものの、翔太にとって痛い出費になりそうだ。

 がっくりと肩を落とした翔太だったが、先に歩き出した沙耶と並んで駅舎の反対側にあるファストフード店を目指す。


「そういえば、翔太。マジカル☆ニャンニャンの決め台詞『ニャニャンがプイで』の続きってなんだっけ?」


「マジカル☆ニャンニャン? 沙耶はそういうの興味ないんじゃなかったけ?」


「興味ないよ。ただ、イシュナグがね……」


 これでようやく、沙耶と翔太は日常リアル非日常ファンタジーの切り離しを完了した。


 ハロウィン10月31日の夜は始まったばかり。けれども、沙耶が見聞きしたものをすべて話すには、一晩ではとても足りないだろう。

 根掘り葉掘り翔太に促されるまま、見聞きしたことを隠さずに話した沙耶だったが、一つだけ最後にイシュナグが耳元で囁いた台詞だけは教えなかった。教えられるわけがなかった。


『ショウタは、お前のことを好きらしいぞ』


 そんなわかりきったことを言ったのは、沙耶におせっかいを焼いてもらわずともガラムと和解すると伝えたかったのだろうか。都合の良い解釈だろうが、沙耶はそうであって欲しいと思わずにはいられない。




 ◇◇◇


 サヤを異世界ニホンに送り届けたイシュナグは、アワイから魔の森の上空に戻ってくるなり、見たくもない顔を見て顔をしかめた。


「貴様、まだいたのか」


「いるとも。ここは俺の領地だ」


 舌打ちをして、忌々しいとイシュナグは背を向けて去ろうとした。一騎打ちもできななら、頼りになる軍勢もいない。ならば、早々に立ち去るに限る。


「待て、イシュナグ」


 立ち去ろうとしたイシュナグの前に、宙を滑るように立ちはだかったガラムは伊達眼鏡を押し上げながら、口角を吊り上げた。


「借りを、今すぐにでも返してやりたくてな」


「貴様……っ」


 聖槍の穂先が輝いた。

 ふざけるなと声を荒げたかっただろう。そう簡単に返せるような、小さな借りではなかったはず。


 聖槍でガラムの心臓を貫こうと構えても、ガラムは意地の悪い笑みを浮かべたままだ。


「ウームル、とか言ったかな? あの翼人の呪いを解いてやろうと、言っておるのだがな」


「……呪い、だと?」


 魔王ガラムがサヤを異世界ニホンに帰せなかったように、聖王イシュナグにもできないことがある。

 イシュナグは、聖槍を構えたままぎりりと奥歯を噛み締める。


「実に興味深い呪いだ。その上、ややこしい。……あの翼人は、女だ」


「は?」


 ガラムが何を言っているのか、まったく理解できなかった。

 そもそも、一昨日の夜、一緒に風呂に入っている。間違いなく男だ。男にしては、細い体つきをしているが割りと立派なモノを持っている男だ。


 構えた聖槍の輝きが失われたことすら、イシュナグは気がついていないだろう。


「もともと女だったのを、呪いで男になったということだ。その上、女としての過去も失うようにと、関わった者たちの記憶もいじられているだろうな。実に興味深い呪いだよ」


「…………まさか」


 女としての過去を失った。関わった者の記憶もいじられている。

 聖槍の穂先が力なく下げられた。


「その上、翼の色も変わっている。おそらく、昔は茜色だっただろうな」


「…………」


 思い当たるのは、ただ一人。

 イシュナグが探し求めて、ウームルが存在を否定し続けている娘。


 ウームルが、リルアその人だというのか。


 イシュナグは、しばしの間考えることを放棄した。




 これは聖王イシュナグの休暇の物語。あるいは、彼が百年という空白を埋める物語。

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