約束の章

其の一 聖王、湯殿で思い悩み叫ぶ

 ウームルがギシュタークを連れ帰る頃には、日が暮れていた。

 腕の中のギシュタークは、一度も目を覚まさなかった。


「……なんて一日だ」


 こめかみをもみながら、ウームルは湯殿に通じる回廊を歩いていた。

 とりあえず、すべて有能な次男に押しつけてしまわなくては、頭がどうかなりそうだった。

 昨夜立てた計画も、とうにどうかなってしまった。


 まだまだ騒ぎは続いているが、飛翔館の裏手にある湯殿のあたりはまだ静かなほうだ。


 ウームルは自覚していないが、彼が眉間にしわを寄せるだけで、近寄りがたい気難しい君主となる。だから、途中で興味本位で彼に声をかけようとした翼人族たちは、皆近寄れないまま退散するよりほかなかった。


 誰もいない脱衣場で、思っていたよりも汗を吸い込んだチュニックを脱ぎ捨てる。


「かくなる上は、真相を打ち明けるべきか……」


 深々とため息をついて前髪をかきあげた彼は、足元の直ぐ側に青灰色のチュニックが脱ぎ捨てられていることに気がつかないまま浴室に足を向ける。


「あっ……」


 気まずい空気が、湯殿を支配する。

 先客がいたのだ。

 湯けむりの中でも、その純白の髪はよく映える。

 居心地悪そうに黄金色の目が泳いでいるのは、おそらく魔の森での彼の言動がおかしかったことを、今さらながらに自覚しているからだろう。


「先にお戻りになられていたのですか……」


「お、おう……」


 引き返そうかと考えたが、どのみち後で二人きりで話さなければならないことがあるのだからと、ウームルは真紅の髪をまとめてイシュナグの隣で白く濁った薬湯に浸かる。


「イシュナグさま、今日のことはいかがいたしましょう?」


「…………俺も、そのことに頭を悩ませていたところだ」


「ですよね」


 沈黙が流れる。

 このままではいけないと、ウームルは唇を湿らせる。なぜ、疲れを癒やしに来た湯殿でこんな重苦しい思いをしなければならないのかと、嘆きながら。


「正直に申し上げますと、幻滅いたしました」


「…………」


 やはり自覚はあるのだろう。

 このまま湯の中に沈んでしまうのではないかというほど、イシュナグはがっくりとうなだれた。


「これまで命を落としてきた者たちに、世界の裏側でどの面下げてわたくしは会えばいいというのですか」


「言いたいこと言ってくれる……」


 途中からは、鼻の下まで湯の中でブクブクとぼやかれても、ウームルには何を言っているのかわからない。だから、まだまだ遠慮なく言いたいことを続ける。


「民たちにとって、イシュナグさまは、偉大なる聖王さまなのですよ。休暇中だからとか、ふざけた言い分も通りませんよ」


「…………ウームルよ。それほど幻滅したなら、俺を聖王の座から引きずり降ろせばいい」


「なっ」


 なにをふざけたことをと、言いかけてウームル口を閉じた。


「俺は本気だぞ」


 一度頭の上まで潜ったイシュナグは、黄金色の瞳に真摯な光を宿して、ちらりとウームルを見やると、天井を仰ぐ。あるいは、その先の雲に覆われた夜空を。


「言っただろう。この世界に聖王などいない方がよいのだと」


「イシュナグさまが生と死を繰り返してなお、聖王であり続けるのは、創造主のご意思ではないのですか!」


「俺も、そう考えておったよ。聖なる一族の血脈を守りきれなかった贖いとして、これからも聖王で有り続けるのだと、な」


 イシュナグの深いため息は、すぐに湯けむりに混ざり消えた。


「結局のところ、俺は考えることをやめていただけだった」


「ですが、イシュナグさまがお帰りになると我々は信じていたから、この百年、我ら諸侯は世界を円滑に治めてくることができたのです」


 畳んであった真紅の翼を広げて、ウームルはイシュナグよりも真摯な光を宿した真紅の瞳で彼に訴える。


「わたくしめが、この百年の間にしたこと。わたくしが、女を愛するがゆえにしてきたこと。すべて、わたくしが……」


「責めを負うというのか」


「そうですっ!」


「必要ない。民にいらぬ混乱を招くだけだ」


「イシュナグさま、って、潜らないでください!」


 ブクブクとした泡が答えだった。

 やはり、ガラムに騙されたのではないかと、湯の中でイシュナグは真剣に考える。かつては、優しすぎる双子の兄だったが、その頃から自分をよくからかっていたような気がする。

 ウームルがリルアについて何か隠していることはわかっている。しかし、やはり同一人物というのは、荒唐無稽ではないか。

 そもそも、呪いとはなんだ。


「あーーーーー」


 一度、息を吸って再びイシュナグは潜る。


 つかの間の浮上の間に、ウームルの声が聞こえたが軽く聞き流す。

 いつか、ギシュタークに脅したように、イシュナグならば女を男に変えることができる。ガラムが生み出した呪いなら、可能かもしれない。


 しかし、解せないことが一つだけ。


 そう、ウームルは女を愛している。翼人族の郷を訪れる前から、ウームルの女好きの噂はよく耳にした。

 この百年、裏方だった女たちが活躍できるように尽力を尽くしてきたウームルが、女というのは、やはりイシュナグは理解に苦しむ。

 しかし、いくら彼でもいつまでも潜っているわけにもいかない。


「イシュナグさまっ!」


「ウームルよ。お前、言っていることがおかしくないか? 俺に幻滅しておきながら、まだ聖王であって欲しいと言う」


「矛盾などしておりません。今日、魔の森の上で見聞きしたことを、わたくしが黙っていれば、すむことです」


 ちらりと横目で、確かにウームルが男であることを確認してから、湯船のふちに腕をかけて、白く濁った湯に視線を落とす。ウームルが翼をばたつかせながら声を荒げるから、ずっと波打ったままだ。


「そうか。黙っておるのだな。しかし、幻滅した思いはなくせまい」


「……今さらです。イシュナグさまに、幻滅させられるのは、今に始まったことではありません」


「今に始まったことではない?」


 真摯な光を宿していたウームルの目が泳いだ。しかし、それもつかの間のこと。


「ところで、イシュナグさま。滞在期限、お忘れではないでしょうね?」


「ん? ああ、明日、だったな」


 まるで白亜宮殿に帰還する意志が感じられない口調に、ウームルは肩を落とす。


「イシュナグさま、わたくしがお探しのリルアだと申し上げたら、信じますか?」


「………………」


 たっぷり五回は鼓動の音を、イシュナグは聞いたような気がする。

 ウームルにしてみれば、完全に硬直してしまったイシュナグに不安になる。


「あ、あのぉ……」


「今、言わなくてもよいだろうが!」


 それは、まさにイシュナグの心の叫びだった。


「あ、バレてましたか」


 どこかホッとした表情を浮かべるウームルの横で、イシュナグは頭を抱える。


 聖王イシュナグといえども、心の準備というものが必要な時もある。ましてや、互いに一糸まとわぬ身。もう少しくらい、夢を見たかったのかもしれない。

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