其の二 聖王、月のない夜空を見上げる

 ウームルは、かつてリルアという名の娘だった。

 姉のローウァが唯一の家族で、両親のことは名前すら覚えていない。確か、旅芸人の一座の一員で云々という話を、姉から聞かされたような記憶はあるが、リルアにとって、ローウァがすべてだった。

 同じ茜色の翼をもっているというのに、姉はリルアよりもずっと美しかった。


「それは、美化し過ぎだろう」


「いいえ。お姉ちゃんは、世界一美しかったです」


 イシュナグは、酔えもしないのに酔客の酒杯を傾けた。

 さすがに、湯殿ではなく飛翔館のウームルの私室に場所を移している。


 もうかれこれ、どのくらいウームルの姉自慢を聞かされていることだろう。


「美しいだけではなくて、器量良しで、チターの名人で、その音色といったら……」


 非常に認めたくなかったが。絶対に認めたくなかったが、イシュナグは幻滅している。

 リルアしか知るはずのない白亜宮殿の私室の様子を事細かに聞かされた後では、ウームルがリルアだと認めている。一度認めた上で、その経緯を聞いているはずが、なぜ姉自慢を聞かされる羽目になったのだろうか。酔えもしない酒杯を煽るのは、これで何度目だろうか。


「おい、これ、まだ続くのか?」


「ええ、ローウァのことになると、いつもこうですの」


 酒の肴をイシュナグの前に並べる第一夫人のウェリンは、薄紅色の翼を揺らしながらフフッと笑って返す。

 彼女の父であり、先代の君主であるヨミの十八番だったはずの深い眉間の皺を、イシュナグもまた刻んでいた。


「お姉ちゃんを男に取られたくないと思うのは、当然の成り行きです」


 拳を握りしめて力説するウームルを、イシュナグは冷めた目で眺める。

 ウェリンは、気を利かせてかなんなのか、部屋の隅で竪琴を奏で始める。


「おい、あの時の初恋云々は、さすがにデタラメだっ……」


「そうなのですっ! お姉ちゃんはわたくしの初恋の人でもありました」


 穏やかな心地よい楽の音を奏でているウェリンが、軽く吹き出すのを確かにイシュナグは耳にした。


 さすがのイシュナグもドン引きだった。

 実の姉というだけでもアレだというのに、その上同性という二重苦。他人の恋愛観には、昔から寛容だったイシュナグだったが、一度は妻に迎えたいと決めた女となれば、さすがに引く。


「ですが、わたくしのせいでお姉ちゃんは、魔族に襲われ……」


 なぜだろう。魔の森の上空では心動かされた話も、今では――。


 拳を握りしめ、真紅の翼を威嚇するように膨らませながら、ウームルは魔族への恨みを語る。

 さすがに見かねたのか、ウェリンが竪琴を爪弾く手を止めた。


「あなたさま、いい加減話を進めたほうがよろしいのではなくて? イシュナグさまも辟易しておられごる様子」


「しかしだな、ウェリン。お姉ちゃんは……」


 まだ姉自慢を続けようとするウームルに、そろそろイシュナグも限界を迎えようとしている。実際、先ほどからこめかみがひくついている。


「しかたがありませんわ。わたくしが、かわりに……」


「おい、ウェリンっ」


 ウームルが小声で止めるのもかかわらず、ウェリンは竪琴を置いて彼の隣に腰を下ろした。


「ローウァ亡き後、ローウァの婚約者であったわたくしの父ヨミが、リルアを引き取りました」


「そういえば、後妻を迎えるとかなんとか言っておったような……」


「ええ。あの父が後妻にとこうほど、ローウァは美しい人でした」


 また姉自慢を始めかねない夫の唇に人差し指をそっと当てて、ウェリンが鈴を転がしたような美しい声で語り続ける。


「わたくしは、心を閉ざして夜な夜なうなされるリルアを慰めようとしたのですけど……」


 頬を赤く染めたウェリンは、無垢な乙女のようだった。

 言いよどんだ妻に代わって、ウームルはわざとらしく咳払いをする。


「慰めてくれたウェリンのことが好きになってしまって、深い仲になってしまったのです」


 今この時ほど、イシュナグが酔えない体を恨めしく思ったことはなかっただろう。先ほどから、気のせいだろうか頭が痛む。


「とはいえ、当時は女同士。ウェリンは、ヨミさまの一粒種ということもあって、隠れての逢瀬だったのですが……ある時、バレてしまいまして、それはもうお怒りになられて……」


「だ、ろうな!」


 イシュナグは、思わず口を挟まずにはいられなかった。

 几帳面を絵に描いたようなヨミが、よりによって女と深い仲になっていた知って、激怒しないわけがないだろう。

 当時のことを思い出してか、ウームルは膨らませていた翼を畳んで悩ましげに目を伏せた。


「それで、わたくしが白亜宮殿にお勤めに上がることになったのです」


「…………」


「女しか愛せないわたくしなら、イシュナグさまのお側でも間違いを犯すようなことはないだろうと」


「…………」


 イシュナグは、勢い良く酒杯をあおった。

 まさかそのような事情でリルアが白亜宮殿にやってきたなど、イシュナグは想像すらできなくとも無理からぬ話だろう。


「わたくしは、ヨミさまから聞いているものとばかり……」


「…………」


 それはしかたないだろうと、イシュナグはヨミの気持ちを察する。

 愛娘のウェリンが、女と深い仲になっていたなど、口外できるわけがない。

 こめかみをもみながら酒杯を煽るイシュナグの胸の内などよそに、ウームルとウェリンの話は続く。


「そして、百年前の戦の折りに、わたくしは郷に戻ってきました。愛しのウェリンと……」


「すぐに、変わらぬ愛を確かめあいましたわ」


「たのむから、のろけ話はやめてくれ!」


 仲睦まじく見つめ合う二人に、イシュナグは。聖王が諸侯に懇願するなど、あるまじき行為だ。

 本当は、今すぐにでもこの場を去りたかった。それをしなかったのは、女だったリルアが男のウームルになった理由と方法を知りたかったのだ。


「失礼いたしました。話がついそれてしまいました」


「ウームルよ、初めからずっとそれっぱなしだ。いい加減にしてくれ、俺が知りたいのはどうして、どうやってお前が男になったかということだ」


 片膝を立ててくつろいでいたイシュナグの黄金色こがねいろの瞳に、剣呑な光が宿る。

 かすかに震えた妻の肩を抱き寄せて、ウームルは唇を湿らせながら目を伏せた。


「わたくしが望んだことでした」


 ウームルの目には、病床のヨミが見えていたのかもしれない。

 目の前で、憎き魔王ガラムとの一騎討ちのさなかに姿を消した白銀の鎧に身を包んだイシュナグを思い憂うあまり身を崩した先代の君主ヨミ。彼は、天敵である魔族の呪いの研究に半生を費やした男。


『この際だ。お前が男になればいい。後は好きにしろ』


 さすがに几帳面を絵に描いたような男でも、病の床に臥せっているうちに、自暴自棄になってしまったのかと、誰もが考えた。

 子宝に恵まれず、まだ跡取りを見出すにはまだ若かった。


「正直、わたくしも初めは冗談をおっしゃっているのかと……」


 そうではなかったと、ウームルは続ける。


「ヨミさまが研究されていた呪いは、他者を思う気持ちを指向性をもたせ魔力を使うことなく、魔力と同等、あるいは同等以上の力を発揮するものでした」


「その代償は?」


 魔力は、無尽蔵ではない。生命力によく似ている。

 生まれた時はなみなみと満たされた魔力は、使えば当然いつか無くなる。体力と同じよう充分な休息を得れば、また満たされる。

 聖なる一族ですら――いや、創造主ですら、生まれ持った魔力の器以上の力をふるうには、代償として命を削ることになる。

 代償もなしに、性別を変えるなどガラムが作り出した呪いであっても不可能だろう。そう、イシュナグは考えた。


 実際、そうだったと、ウームルウェリンは目を伏せて肯定した。

 ヨミは、その命を代償にリルアを男に変えたのだ。


「馬鹿なことを……」


「ええ、本当にそう思います」


 目頭を押さえて嘆息するウェリンは、ウームルの胸に顔をうずめる。妻の頭を撫でながら、彼は真摯な顔つきで主君に訴える。


「イシュナグさま、すべての責めはわたくしが……」


「いいえ。妻のわたくしも……」


 ピキッという異世界ニホンで知った怒りの擬態語をイシュナグは、耳にしたような気がした。だが、そんなものはどうでもいい。


「湯殿で言っただろう。必要ない、民にいらぬ混乱を招くだけだ」


 唸るような地を這う声。これでもイシュナグは、充分怒りをおさえている。ウームルがリルアだったことを隠していたからではない。

 目の前で、仲睦まじさを見せつけられたせいだ。手を取り合って喜びあう二人に、もう我慢できなくなった彼は、荒々しく立ち上がった。


「俺は、もう休む。……ああ、そうだ。地下書庫でのことは、なかったことにしてくれ」


 イシュナグが去った後、戻ってこないと確信してから、ウームルは力いっぱい妻と熱い抱擁を交した。妻に口づけしながら、心のなかでウームルはこれでよかったのだと、言い聞かせる。

 明日には、手はず通りに世界中に聖王の帰還を知らせなくてはならない。


 あの日の非力な娘は、もうどこにもいない。

 今ここにいるのは、最愛の人を抱きしめるしたたかな男だった。




 ◇◇◇


 さて、ウームルの私室を後にしたイシュナグは、お気に入りのカチューシャをつけるのも忘れて、ひと気のない庭で月の見えない夜空を見上げる。

 近くの回廊を行き来するものは、まだ多いが夜陰に紛れた彼に誰も気がつかない。


「また、フラレたのか。俺は……」


 声が震える。

 三千年の間に、彼が妻に迎えた女は五人。一人目の同族のミスリアとは、事情が事情だったせいで、心から愛することができなかった。

 その後、彼が見初めた女たちだが、三人に浮気され、一人は無理強いしたつもりはなかったが、かつて慕っていた男を思って自殺。ちなみに、その自殺の原因となった男が彼女を愛していなかったという、非常にやりきれない思いをしている。


「俺は、女を見る目がないのか……」


 深いため息をつきながら、頬を伝う涙を拭う。

 これでよかったのだ。魔王に呪いを解くように頭を下げずにすんだのだから。何度も言い聞かせてはいるが、失恋の痛みは何度味わってもすぐに癒えることはない。


「これでよかったのだ。呪いの仕組みも少しだがわかったのだからな。よしとせねば……はぁ」


 彼が離れに戻るには、もう少し時間が必要だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る