其の七 異世界人、異世界に別れを告げる
今から三千年前、聖魔分かたれたおり、人間族は選択を迫られた。
魔王ガラムの血肉を分け与えられて、力をつけた魔族となるか、否かを。
かつて、創造主がもっとも愛した種族だと伝わる人間族。
もっとも短命で魔力を持たない人間族を、なぜ創造主は愛したのか。今でも、学者たちの議論が絶えない謎だ。
そして、創造主が世界の裏側へと去った後、人間族は次第に虐げられるようになった。
無理からぬことだっただろう。何しろ、短命で魔力を持たないのだから。それでいて、もっとも創造主によく似た姿をしている。
小人族のように小さくなければ、巨人族のように大きくもない。
獣人族のように体の一部が常に獣でなければ、翼人族のように翼もない。
始まりはおそらく、嫉妬だったのだろう。
聖なる一族で、初めての双子ガラムとイシュナグが産声を上げた時には、人間族と他の種族の間には大きな隔たりがあった。
なるほど、人間族は確かに脆そうだと、ウームルはサヤに対して、あまりいい印象を持てなかった。
主君を呼び捨てにし馴れ馴れしい人間に、彼は嫉妬してしまっていたのかもしれない。
今は魔の森と呼ばれる翼人族の郷の南にあった人間族の領地。
彼の地に、父王殺しの魔王ガラムが聖王イシュナグに敗れ墜ちた後、どのような経緯を経て魔族が誕生したのか、結局のところ、誰もわからない。
ただ、魔族になることを拒んだ人間族もいたことは確か。そんな人間族のために、よく似た世界を用意し移住させたのが、二番目の聖王イシュナグその人だ。
「そうか、サヤは帰りたいのか」
こんな貧相な何もできそうにない娘が、帰りたいと望んでいるのだから、帰してやればいい。今すぐにでも、イシュナグならばできるはずだ。
「ごめん。この世界の食べ物が、わたしの口に合わなくてさ」
申し訳なさそうにうつむく人間族の娘は、
魔王の帰還に巻き込まれて、こちらの世界に来てしまったらしい。
「イシュナグさま。この娘が帰りたいと言っているなら、そうすればよろしいではないですか」
「ウームル、そう言ってくれるな。俺は名残惜しいのだ」
「は?」
確かに、これで最後だと思えば、人間族の恩人とも別れを惜しみたくなるかもしれない。
「ところで、そのカチューシャ、まだつけるなんて……」
「おぅ。ニャンニャンとお揃いだからな」
「あー……」
ウームルは、ほとんど会話についていけなかった。けれども、ニャンニャンという単語を耳にして、こめかみがひくついた。
「そうだ、サヤ。ニャンニャンの決め台詞だが、『ニャニャンがプイッで』の続きがどうにも……」
「イシュナグ!」
「イシュナグさま!」
ウームルとサヤの声が重なった。
気まずそうに二人は視線を交わして、サヤが先に言いたいことを言わせてもらうことになった。
「わたしは、翔太と違ってオタクじゃないの。ニャンニャンの決め台詞とか知ってるわけないでしょう!」
「あー、そうか、そうだったな。残念だ。ショウタであれば、よろこんでおしえてくれただろうに」
わざとらしいため息をつくイシュナグを、サヤは冷めためで見ていた。
幼馴染みのショウタがオタクと呼ばれる部類の人間だと、中学に入学した頃にサヤは気がついてしまった。以来ショウタのようになるまいと、サヤはアニメや漫画といったものに疎い。閉鎖的な高校生活の会話に困らない程度しか、知ろうと思っていない。
けれども、そんな人間族の娘の事情など、ウームルが知る由もない。
「イシュナグさま、もしやその娘のせいで、休暇などとふざけたことを……」
「そう怖い顔をするな、ウームル。俺は、世話になったショウタとサヤだけではなく、
イシュナグが制さなければ、ウームルはサヤを斬り殺していたかもしれない。いや、まだスキあらばと機会をうかがっているかもしれない。
「……ガラムのやつ、いつになったら戻ってくるのよ」
そう、サヤを投げ飛ばす直前、ガラムは彼女の耳元で「すぐに戻る」と囁いたのだった。
居心地が悪くてしかたない。
翼人族の君主だと紹介された翼の生えたイケメンに、ずっとにらまれているうちに、サヤはますます帰りたくなった。
「おい……」
がっくりと肩を落としたサヤに、ガラムが再び姿を現した。その腕にぐったりとしたギシュタークを抱えて。
「ギーク! さっさと返せ」
「言われなくとも」
ひったくるようにギシュタークを抱えると、イシュナグの顔に安堵の色が浮かんだ。
「これで用がすんだだろう。サヤ殿を
「ずいぶんな話だな。俺の従者をさらったことに、謝罪すらせずに、ひと仕事しろとはな」
「俺がしたことではない。それに、貴様にとっても悪い話ではないはずだ。俺に貸しを一つ作れるのだから」
両腕でギシュタークを抱えていなければ、一度おさめた聖槍で襲いかかりそうな形相でイシュナグはガラムを睨みつける。
一触即発かという空気に、ウームルとサヤの体がこわばる。
「…………いいだろう。今さら、貴様の謝罪など不愉快なだけだしな。ウームル」
「はっ」
「ギークとともに、先に郷に帰れ。俺もすぐに戻る」
「そう言って、次は百年後とかないですよね?」
ギシュタークを受け取りながら、ウームルは眉間にしわを寄せる。
「日が暮れる頃には、飛翔館に戻る。ウームルよ、早く戻ってこいつを休ませてやれ」
「……かしこまりました。では、日が暮れる頃に」
大きく翼を広げたウームルは、最後まで人間族の娘を睨んだまま、翼人族の郷を目指して飛び去った。
ウームルを見送り、サヤとガラムに向き直ったイシュナグの左手には、聖槍があった。
「さて……貸しは一つだと言ったが、二つだ。俺の従者をさらった不届き者を見逃してやっていることも、忘れるな」
「ああ。二つでもかまわんよ」
すでに、イシュナグはガラムを視界の外に追いやっていた。だから、ガラムの口元に意地の悪い笑みが浮かんでいたことに、気がつかなかった。
その意地の悪い笑みの意味を、しばらく後に思い知ることとなるのだが、イシュナグはサヤを
「本当に、帰ってしまうのだな。少しくらいは……」
「ううん。帰りたい。やっぱり、住み慣れた世界が一番だし」
「そうか。では……」
聖槍全体が輝きだして、サヤは慌ててガラムを振り返る。帰りたいけど、心の準備がまだ万全ではなかった。
「ガラム、ヤーシャちゃんに、ありがとうって……それか……」
サヤが最後になんと言ったのか、ガラムは聞くことができなかった。
大きくなった清らかな光とともに、サヤもイシュナグも姿を消してしまったのだ。
あまりにも唐突すぎる別れに、ガラムは苦い笑いを浮かべる。
頭上には再び鈍色の雲が広がいる。
「ヤーシャ、出てきなさい」
返事はなかった。
少なくとも、ガラムの声の届く範囲には誰もいないというのに、ガラムは語気を強めて再度養い子の名を口にした。
「ヤーシャ」
やはり、返事はなかった。
そのかわり、ガラムのすぐ隣に木馬にまたがったヤーシャが姿を現す。
「…………」
「どうして大人しく待っていられないんだ」
「だって……」
泣き腫らした目で、養父を見上げたヤーシャは、すぐにウームルに抱きかかえられたギシュタークが去った方を見る。
もう姿をその目でとらえることもできないというのに。
「結果的に、サヤ殿は
「わかってるもん」
年季の入った木馬の上で、ヤーシャは唇を尖らせる。
ガラムがいなかったらと考えると、ゾッとする。
「ねぇ、おとーさま。アタシ、大人になりたい」
「ほぅ、それはそれは……」
元々、顔立ちすらも似ていない双子だったが、こうして意地の悪い笑みを浮かべると、イシュナグの面影に通じるものがある。
今から百二十年ほど前に、あの『ガケノシタ』たちが悲しい声を上げている魔の森の外れで、救うことのできた幼い命。ガラムが血を分け与え、魔族として育てた翼人族の養い子は、ずっと子どものままでいたいと成長を拒んできた。
それが、ようやく大人になりたいと言ってくれた。
養父として、ガラムが嬉しく思わないわけがない。
「厄日だとばかり思っていたが、そうでもなかったな。ヤーシャ、大人になるというなら、しっかり勉強に励んでもらわなくては」
「うん。わかってるもん」
ヤーシャの泣きはらした目は、まだウームルたちが去った方を見つめている。
「ところで、おとーさん。あのウームルとかいう……」
「ああ、お前も気がついたか」
伊達眼鏡を外したガラムの赤い瞳は、楽しげに輝いていた。
「実に興味深い呪いをかけられているようだ」
「ふぅん。やっぱり……」
ヤーシャは、養父に考えが正しいと肯定されてしまえば、ウームルへの関心はなくなった。
所詮、ウームルは彼女を捨てた同族だ。呪いを作り出したガラムでさえ興味深い呪いだと知ってしまえば、もうどうでもいい相手だ。
「ねぇ、おとーさま……」
「なんだ?」
「ううん。なんでもない」
またあの獣人族の子に会いたい。喉元まででかかった言葉を飲みこんだ。まだ、その時じゃない。その時がきたら、ガラムにお願いしよう。
今は大人になるために、大嫌いな勉強をしよう。
ヤーシャは、まだギシュタークが去った方を見つめていた。
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