帰還の章

其の一 聖王、聖域にて帰還を果たす

 七人目の聖王イシュナグが、因縁の相手である七人目の魔王ガラムの一騎討ちのさなかに忽然と姿を消してから、ちょうど百年が経つ。

 とうに死んだのではないかという噂は、もう何十年も絶えなかった。


 獣人族、小人族、巨人族、翼人族の四つの種族を治める聖王は、どの種族にも属さない。

 創造主の末裔、聖なる一族。

 聖王イシュナグは、聖なる一族の最後の一人だった。それゆえだろうか、イシュナグが死ねば、彼の魂はこの聖域で肉体を得る。

 それが、この世界で三千年ほど続くことわりであった。




 ◇◇◇


 天高くそびえ立つ聖山の頂にある白亜宮殿。

 聖王不在の今、宮殿の輝きは失せて静まり返っている。


 その一角。

 聖王イシュナグが肉体を得る聖域だけは、その静けさが破られていた。


「あぁ、イシュナグさま。まだ生きておられるのですのよね? こうして妾が帰りを待ち続けられるのも、あとどれほど……あぁ、イシュナグさまぁ」


 獣人族の女王ヒュンデの艶やかな唇から、深い深い吐息がこぼれる。

 長い睫毛が縁取る潤んだすみれ色の瞳を伏せる仕草は、妖艶そのもの。ましてや、肌理きめの細かい白い肌に、その身をくねらせるだけで揺れる豊満な胸を、惜しみなく晒しているのだ。獣人族の男たちでなくとも、虜になるだろう。そう、臍から下が黒い鱗の蛇でなければの話だが。


「母上。そろそろ行きましょうよ」


 清らかな青い光に包まれた泉を見つめ続ける母の背中に、息子のギシュタークは何度帰りをうながしたか。


「はぁ……偉大なるイシュナグさま、もう一度だけでも」


「……母上ぇ」


 ギシュタークの茶色い毛が生えた三角の耳は、元気なくペタンと垂れている。若く瑞々しい肌の上半身に纏っているのは、萌黄色のフェルトのベストのみ。耳と同じ茶色のフサフサの体毛に覆われた下半身には、山吹色の膝上丈のズボン。ズボンのお尻にあたる位置からはダランと垂れた尻尾がある。

 菫色のつぶらな瞳は、悲痛な色を宿している。


「イシュナグさま……はぁ」


 悩ましげなため息をついて、ヒュンデは艶やかな黒髪を指に絡める。

 二十六番目の息子ギシュタークは、生死もわからぬ聖王よりも切実な問題に直面していた。


 グルルルルゥゥゥゥゥウ


 神聖なる聖域に、ひどく間の抜けた音が虚しく響き渡る。


「…………ギーク」


「ひゃい」


 ヒュンデの声音は、それはもう聞いた者を震え上がらせるほど凍てついていた。

 だが、息子は早く空腹をどうにかしたくて震え上がるどころではない。頭の中は、大好物の新鮮なウサギ肉でいっぱいだ。


 ギュルルルゥゥゥゥゥウ


 下半身のとぐろをほどきながら振り向けば、小さな息子がお腹を押さえて情けない顔をしている。獣人族の女王ヒュンデは、やれやれと肩を落とした。


「情けない。神聖なる聖域で、みっともない音を立てるでないわ」


「母上、だってぇ……」


 白けてしまったヒュンデは、ウネウネと下半身を動かしながら聖域を後にする。

 置いてけぼりはたまったものではないと、ギシュタークは今しばらくの辛抱とお腹の虫をなだめながら、母の後を追う。


 時の流れすら忘れさせられる聖域だが、ギシュタークのお腹は半日以上とどまっていた気がした。

 この日のために集まった、小人族の君王くんおうニグルスも、巨人族の大王ヴァルバルも、翼人族の君主ウールムも、すでに去っていたというのに。


 まだ十二歳になったばかりのギシュタークにとって、百年前に姿を消した聖王イシュナグは、実在したかも怪しい伝説的な存在だ。

 ただし、母のヒュンデがそうとう惚れこんだ男だということは、身をもって思い知らされた。


 グギュルルルゥゥゥゥゥウ


 生まれて初めて大事な会合に同行させてもらって、緊張しつつも誇らしい思いでピンと立てていた尻尾も、今ではダランと垂れている。


 聖域の境界となっているのは、頭上高くそびえ立つ石柱。青白い空間の聖域をぐるりと囲む四本の白亜の石柱の向こう側は、ただ闇が広がるばかり。

 下半身が蛇だというのに一足先にというのはおかしいかもしれないが、ヒュンデは先に石柱の向こうの闇に消えた。


「母上ぇ、待ってくださいよぉ」


 母の後を追うギシュタークの足取りは、空腹のあまりフラフラだ。


 ギュグギュルルルゥゥゥゥゥウ


 グルグルと目も回る。


「もぅ、だめぇ……ん?」


 最初に感じたのは、風だった。

 隔離された空間である聖域では、決して感じることのできない大気の流れ。そよと吹いた風は、泉の方から肌で感じた。


「んー?」


 空腹が限界を通り超えて頭がどうかなっていたと、ギシュタークは後に語ったそうだ。そうでなかったら、足を止めて振り返ったりはしなかったと。

 よろめきながら泉を振り返ると、風は確かに吹いていた。

 習性でクンクンと鼻を引くつかせるが、ヒュンデの残り香の他には、会合に集った者たちの臭いがかすかに残っているだけだ。


 風が、やんだ。


「気のせい?」


 彼が首を傾げたその時だ。


 カ―――――――ッ


 泉の上で光が爆ぜる。

 まばゆい光は、旋風を巻き起こして小さなギシュタークを吹き飛ばす。


「キャウン」


 ギシュタークは、境界の石柱に背中を打ち意識を失った。


 光の奔流がおさまると、聖域にもとの静けさが戻る。


 聖域の静寂を破ったのは、忽然と現れた人影。


「ふむ。聖域のようだな。……誰かおるのか?」


 うつ伏せに横たわる獣人族の少年に、人影が落ちる。


「少年、少年、生きておるか?」


 人影――声からして、青年だろう――は、槍の柄の先の石突で、少年の頭に生えているフサフサの耳の横を小突く。


「クゥン」


「よし。生きておるな」


 うむと首を縦に振った青年の額には、黄金色こがねいろの四花弁の華の聖紋。

 聖王イシュナグ、その人だ。


「さて、どうしたものか。そもそも、なぜ、聖域に獣人族の少年が寝ておるのだ」


 異世界ニホンにいた時は、短かった純白の髪が一気に腰まで伸びたせいで、イシュナグは鬱陶しそうにうなじをかいている。


 グゥゥゥゥゥウ


「クゥン」


「目を覚ましたか? 少年」


「まって、にく、にげないで……ん?」


 意識を失っていた束の間の間に、ギシュタークはどんな夢を見ていたのか。

 まぶたを押し上げた彼が最初に見たものは、見慣れぬ靴だった。厚手の茶色い布地の紐靴。靴底の奇妙な黒い革からは、嗅いだこともないような妙な臭いがする。


「少年、しっかりしろ」


「…………っ」


 かがんで覗きこんできたイシュナグの額に、四花弁の聖紋を見つけるとギシュタークは目を丸くして跳ね起きた。


「せ、せ、聖王さまぁ?!」


「お、おう」


 信じられないモノを見るような少年の驚きように、ワイドパンツに猫耳のカチューシャ姿のイシュナグは戸惑う。


 なにがともあれ、聖王の帰還は果たされた。


 ギュグギュルルルゥゥゥゥゥウ


 ふさわしくない間の抜けた音が響き渡る聖域にて、確かに果たされた。

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