其の二 聖王、女王の話に困惑する
獣人族の女王ヒュンデが息子がついてきていないことに気がついたのは、ちょうど聖域でイシュナグが息子を槍で小突いている頃だった。
「世話のやける子だねぇ」
うねる黒髪を背中にはらって、彼女は聖域に戻ることにした。
白亜宮殿は、聖王がいてこそ美しく輝く。
とうに日も暮れ、皓々とした月明かりに照らされる石造りの回廊も、聖王がいなくては小奇麗な廃墟にすぎない。
聖王イシュナグを心から慕うヒュンデは、この百年、何度も何度もそう感じていた。
艶やかな黒髪を一房指に絡めて目を伏せたまま、ヒュンデは下半身をウネウネと動かしながら聖域へと引き返していた。
「はぁ、イシュナグさま。一日も早いお帰りをお待ちしておりますのに、もうかれこれ……ああ、イシュナグさまぁ」
「おう、ヒュンデではないか」
「…………」
空耳かと思った。
いくら時がたとうとも忘れるはずのない声であっても、ヒュンデは空耳かと思った。
早鐘を打つ心臓を豊かな胸の上から押さえながら、伏せていたまぶたを押し上げこれでもかというほど目を見開く。
「ああっ、イシュナグさまぁあああああん」
両腕を広げて突進してくる下半身蛇の女王を、イシュナグは大きく一歩横にのいて避ける。やれやれと笑う余裕すらある。
「避けないでくださいまし、イシュナグさまぁん」
「あの勢いでは、余が弾き飛ばされるとこだったぞ」
「妾がイシュナグさまを弾き飛ばすなど、ありえませんわ。ええ、こうしてしっかり抱きしめますもの」
やや速度を落として這い寄ってきたヒュンデに、イシュナグは身を任せる。
ズルリと蛇の下半身をイシュナグに巻きつけて、ふるいつきたくなるような一糸まとわぬ上半身で抱きしめた。肌理の細かい白い指先で聖王の頬を、そうっと撫でた。熱のこもった眼差しで聖王を見つめる彼女は、空腹を訴えていた息子のことなどすっかり忘れている。
見慣れぬ衣装をまとった聖王の頭の上にある、猫耳のカチューシャを目に止めたヒュンデの鼻息は荒くなった。
「イシュナグさま、その頭の飾りは……、ああっ、我が王、獣人の妾のために……、いいのです。何もおっしゃらないで……」
グルゥウウウウウウ
確実にヒュンデの熱を下げるものは、もしかしたら息子のギシュタークの腹の虫の役目かもしれない。だとしたら、彼を無理にでもと同行させた兄たちの判断は正しかったのだろう。
「…………ギーク」
「ひゃい」
イシュナグの背後でお腹を抱えていたギシュタークは、ペタンとフサフサの三角の耳を伏せて、すがるような目で母を見つめる。
「ヒュンデ、息子に何か食べさせてやったほうがよいのではないのか?」
「……そう、ですわね」
熱烈な抱擁を解くヒュンデの、名残惜しそうな眼差しにイシュナグは動じる素振りを見せない。慣れているのか、それとも彼女の身を焦がさんばかりの熱い思いに気がついていないのか。どちらかわからないが、イシュナグが彼女の想いに応えることはまずなさそうだ。
白亜宮殿は、聖王がいてこそ美しく輝く。
聖王が不在となれば、臣民である四種族たちが立ち入ることのできる場所は限られている。
白亜宮殿を陰ながら支える使用人たちの居住区と、
息子を引きずるように手を引くヒュンデとイシュナグは、ひとまず獣人族の控えの部屋に落ち着くことにした。
「よく食べおるなぁ」
ガツガツとウサギの生肉を頬張るギシュタークを、イシュナグは黄金の酒杯をあおりながら微笑ましそうに見やる。
宝具の一つ飽食の皿ならば、飢えたギシュタークの腹が満たされるまで大好物のウサギの生肉が次から次へと現れる。そして、次から次へと彼の胃袋に消える。
「申し訳ございません、不出来な息子で。後でよぉく言い聞かせておきますわ」
「よいよい。言い聞かせる必要などない。子どもがたらふく食べるさまは、いつ見てもよいものだ」
絹張りのクッションにもたれかかり
そっけなくあしらわれているヒュンデだが、そのつれない態度がたまらない。たまらなく、彼女の心を燃え上がらせる。
「ヒュンデよ。余の留守中、かわりはなかったか?」
「もちろんですわ。この百年、魔王ガラムも不在とあって魔族どもも大人しかったですし、妾の獣人族も他の種族たちも、イシュナグさま不在の中、これといった大きな諍いもなく治めてまいりましたわ」
「そうか、それはなにより…………ん?」
空になった酔客の酒杯の底から湧き出るように満たされた酒を、口に運ぼうとした手が止まる。
腹を満たしたギシュタークが、ゲップを一つして仰向けに倒れる音がやけに響く。
「百年、と言ったか?」
「ええ、我らが王イシュナグさまが、あの忌々しい魔王ガラムめの一騎討ちのさなかに姿を消されて、今日でちょうど百年ですわ」
「……一年、ではないのか?」
「……? いいえ」
イシュナグの困惑ぶりに、さすがのヒュンデも戸惑わずにはいられなかった。
困惑と戸惑いの沈黙の中、幸せそうなゲップが再び。
「お腹いっぱぁい」
ぽっこり膨らんだお腹をなでながら、ギシュタークがつぶやいた幸せそうな声がやけに響いた。
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