其の二 君主、聖王の説得に失敗する
ギシュタークが目を覚ますと、元の大きさに戻り体の自由を取り戻していた。
「あー、酷い目にあったぁ。……ご主人さまぁ、どこにいるんですかぁ」
いつもの天幕から顔を出しても、イシュナグがいない。
朝靄に包まれた森が広がっているだけ。
「ま。すぐに戻ってくるよね。うん」
それまでに、天幕をたたんでしまおうと外に出る。
初めは戸惑うことも多かったが、彼も旅に慣れてきた。――慣れたくもないのに、女装にも慣れてしまった。
「あれ?」
そして今も女物の服のまま、寝てしまっていたようだ。
だからかというわけではないが、ギシュタークはすぐに体の違和感に気がつかなかった。
「あれ? あれ、えっ、嘘、そ、そんな……」
モゾモゾと股間のあたりをまさぐる。
サーッと音を立てて血が引いていくのが、わかる。
「……ない」
生まれながら股間に備わっていたモノがない。まさかという思いで、スカートをたくし上げて確認するが――。
「ない。ないっ、僕の……わぁあああああああっ! 女の子になってるぅうううううう!」
朝靄の中に、ギシュタークの悲鳴が響き渡る。
「ご主人さまぁあああああああ!」
◇◇◇
「〜〜〜〜〜〜っ! ……ゆ、夢?」
ギシュタークは悪夢から解放された。今度こそ、本当に夢から解放された。
かけられていた掛け布をはねのけて、彼は股間をまさぐる。
「あったぁああ。よかったぁああああ」
当たり前の感触に心の底からホッとした彼は、力抜けて仰向けに倒れる。
そんなギシュタークの寝起きの奇行に、ウームルは驚くというよりも困惑の表情を浮かべた。彼は、翼のために背中が大きく空いた臙脂色のチュニックに、橙色のゆったりとしたズボン。ずいぶん、くつろいだ姿で上質なクッションの上で胡座をかいている。向かいにはイシュナグが胡座をかいているというのに、だ。
イシュナグはというと、意地の悪い笑みを浮かべて従者をからかう。
「おう。起きたか、ギーク。女になる夢でも見たか?」
「ち、違いますっ」
図星つかれ顔を真っ赤にしながら、ギシュタークは主人のもとににスカートを翻しながら駆け寄ってきた。
仲の良い主従の姿に、意外だと軽く目を見張ったウームルは、すぐに咳払いをしてイシュナグの注意を引く。
「イシュナグさま、どうか、白亜宮殿にお戻りください」
「くどいぞ、ウームル」
ワシャワシャと隣に座らせた従者の頭を撫で回していたイシュナグは、うんざりした様子を隠そうともしない。
「俺は休暇中なのだ。お前がついてきてくれないと死ぬとか、女々しいこと言って脅したりするから、こうして付き合ってやっているが、休暇は続ける」
「えーっと……」
気を失っている間に、何があったのか。そもそも、ここは何処だろうか。板作りの部屋には窓がない。場所も時間をうかがい知ることができない。
ギシュタークはイシュナグを見上げる。
「ああ、崖の上で待ち伏せしておったのだよ。困ったものだろう?」
「それはわたくしたちの台詞です。魔王も帰還したとなれば、魔の森の警戒も強化しなくてはならいないのですよ」
魔の森に一番近い崖で動く人影があったという報告があり、魔族の襲撃かと信頼のおける精鋭たちを連れて、君主自ら駆けつけてみれば聖王。
そのまま、崖の上で待ち構えていたのだという。魔の森を監視する魔法道具にもっと精度があれば、もっとマシな対応ができただろうが。
聖王の帰還は、まだ民たちに知らせない。それは、諸侯らが決めたことだ。
白亜宮殿に聖王の姿がなければ、民たちの混乱を招くことは、火を見るよりも明らか。
したがって、魔王の帰還も公にできるわけもなく、魔族への警戒も信頼のおける者たちとともに少数で行ってきた。
本当に自分たちが見つけてよかったと安心すると同時に、どうやって馬鹿げた休暇をやめてもらうか。翼人族の君主ウームルは、ずっと頭を悩ませている。
正装に着替えている間に逃げられてはかなわないから、くつろいだ姿で相対しているが、正装のほうが説得しやすかったかもしれない。少なくとも、立場をわきまえてもらうには、正装のほうがよかったはずだ。――先代のように眉間の皺が消えなくなっては困ると、彼は眉間に手をやる。
「このウームルが、ついてきてくれなきゃ死んでやるとか言うから、こやつの
「……そんな、女々しい言い方をした覚えはありません」
赤い翼と同じ赤い前髪をかきあげて、ウームルもげんなりした声で返す。
「イシュナグさまは、本当にリルアなどという娘が我が郷にいるとお考えですか?」
「もちろんだ」
「あぁ」
盛大なため息は、ウームルのものだ。
もう耐えられなかった。相手が聖王であろうと、限界だった。
彼の秀麗な顔に浮かんだのは、巨人族の郷にある火を吹く山の炎すらまたたく間に凍てつかせそうな冷淡な表情。まるで、赤い髪と翼が凍てついた炎のようだ。
ギシュタークなど、全身の毛を逆立ててガチガチに固まってしまっている。
「くどいようですが、イシュナグさま。いもしない娘を探すなど、時間の無駄です。今すぐ、白亜宮殿にお戻りください」
「ウームルよ。諸侯らが知らなくとも、他の誰かが知っておるはずだ。存在した痕跡ごと消えるなど、あり得ないことだ」
そう、イシュナグが探そうと決意したのには、白亜宮殿にリルアがかつて存在した痕跡がなかったからだ。百年という歳月の間に、どこかで妻として母として迎え入れられ、幸せな人生を過ごしているなら、それでよかった。もし、そうでなかったとしても、彼女がどう過ごしたのか、イシュナグはどうしても知りたかった。その上で、伝えると約束したことを、伝えたかった。
「ですから、そんな娘などいないのです」
とても口を挟める状況ではないが、ギシュタークは内心なぜそこまでウームルが否定するのか不思議に思った。
イシュナグはうんざりしてきた。このままでは、また死んでやるとか言われそうだ。
確かに自分をかくまえば、他の諸侯らに殺されてしまうかもしれない。それでは、イシュナグも目覚めが悪い。
しかし、リルア探しは譲れない。
聖王イシュナグと翼人族の君主ウームル、どちらも譲れないものがある。
「あ、あのぉ……ひゃっ」
耐えきれなくなった、ギシュタークが恐る恐る口を挟んだ。舌の根まで凍りつく前にと、早口で提案する。
「き、期限を決めたらいいんじゃないですか?」
「期限、だと?」
「期限ですか……」
イシュナグは不快そうに眦を吊り上げ、ウームルは顎に手をやり思案する。
スカートの裾を握りしめて、ギシュタークは二人の反応をうかがっている。
先に口を開いたのは、ウームルだった。
「三日。我が館に獣人族の客人として匿うのは、三日が限界でしょう」
「短すぎる。ひと月」
「三日です。四日目には、他の諸侯らも気がつきます」
「……ウームルよ。お前、余をなんだと思っておる?」
「我らが王、聖王イシュナグさまです」
ウームルは、何を今さらと呆れながら言う。
「ですから、一日も早くその役目を果たしてほしいのです」
「……いいだろう。お前の館に三日間だけ世話になってやる」
ホッと胸をなでおろして頭を下げたウームルには悪いが、ギシュタークは主人のイシュナグなにか企んでいると確信した。
そういう悪い顔をしていたのだから。
◇◇◇
より高い場所に人を運ぶ魔法気球と違い、飛行魔車はより遠くへ人を運ぶ物だ。君主が来賓用に使う大きめの飛行魔車は、客室と操縦室に分かれている。ちょうど馬車の馬に当たる箇所が操縦室だ。
ギシュタークの提案で滞在する日数を決めた後、ウームルは客室を後にして操縦室に向かった。
操縦を任せている二番目の息子ワーギスから、他の諸侯たちと相談するように白亜宮殿に向かわせた長男に、期限の日にちを伝えるように命じるためだ。
ウームルとて、馬鹿ではない。ましてや、すでに一度騙されて白亜宮殿から逃げ出されているのだ。三日間の期限を守って大人しく帰ると考えるほうが、どうかしている。
「ワーギス、諸侯たちから何か連絡があったら教えてくれ」
「わかってますよ。父上」
一通り指示を出したウームルは、赤い翼を広げて外に飛び出す。
外はすっかり夕闇に包まれている。
ただ一筋、黒い靄に閉ざされた魔の森の向こうで、茜色の残滓がまだ残っているのみ。
「なんだってイシュナグさまは……」
若き君主は、軽いめまいを覚える。
茜色の翼の美しい人だった。
魔族の群れに襲われ無残な死をとげても、ウームルにとって美しい人だった。
「お姉ちゃん、まさかこんなことになるなんてね」
笑ってしまうよ、と彼は口の中でつぶやいて過去を振り払った。
あの日の非力な娘は、もうどこにもいない。
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