02 カーマソス村

 太陽神ソールの住まう太陽が沈みかける、夕刻。西をセルペンス山に遮られているカーマソス村の日の入りは早く、恐らく山を越えた向こうはまだ明るいのであろうが、この村は既に慌てて洗濯物を取り込む時間となっていた。

 そんな村の入口にやってきたのは、先刻狩りを終えたばかりの紅蓮の青年クレイオスだった。

 片手は猪をぶらさげた槍を握りしめ、もう片方の手は黒い毛に覆われた後ろ脚を引っ掴んでいる。ずるずると引っ張られるのは巨躯の魔獣ベスティアで、十分な血抜きをしたのか、引きずった跡には抜け落ちた毛ばかりが落ちていた。

 そんな彼の足音とそれに付随する妙な音に気付いたのか、カーマソス村の入口に建っている少しばかり小奇麗な家の窓から、小太りの中年男性が顔を覗かせる。そして、足音の主がクレイオスであるとわかると、愛らしさのある丸い眉を跳ね上げて「おお」と感嘆の声を上げた。


「クレイオス、帰ってきたのか。今回は随分大物を狩ってきたな」

魔獣ベスティアだ、テンダル。襲い掛かってきた」


 引きずられている熊に視線をやる中年の男――森番のテンダルに、狩人のクレイオスは端的に答えながら、槍に括り付けた猪を持ち上げて見せ、本命だったはずの獲物を主張した。

 村の入口は、同時に森への入口でもあり、常にそこに森番がいるのである。森番の許可なくして、勝手に狩りを行ってはならないからだ。森へ過度な影響を与えることを防ぐ森番の為に、クレイオスは村を出る時も帰ってくる時もこのようにここを通っている。

 同時に、何を狩ってきたのかの確認も、現在のように行うというわけだ。

 一瞬、大型の獣を二頭も狩ってきたことに少しだけ渋面を作りかけたテンダルだが、魔獣ベスティアだとわかると「魔獣ベスティアか! よくやったなクレイオス!」と破顔して褒めたたえた。

 それも当然で、もしクレイオスの居ない間に魔獣が村までやってきていれば、幾人かの犠牲は覚悟して討伐せねばならなかったからだ。そのくらい危険な生き物であるし、そのくらいクレイオスは頼りにされていた。

 そんな賞賛にも、感情の薄い顔に特に照れも喜びも見せず、クレイオスは本当によく見なければわからない程度の笑みを浮かべるだけ。彼に物心ついたころから知るテンダルだからこそ、その微妙な変化に気付いて笑みを返せるが、そうでなければあまりにも無愛想な人間に見えるだろう。

 確認を済ませたと認識したクレイオスが歩き出そうとすると、不意にテンダルが「しかし妙だな」と困惑した声で話しかける。立ち止まった狩人が僅かに首を傾げて言葉の意味を問うと、テンダルは腕を組んで訝しげな声色で答えた。


「六日前にも魔獣ベスティアがでたばかりじゃなかったか? こんなに短い期間に魔獣と遭遇するなんてな……」

「……確かに、そうだな。短くても一月は間隔があるものと思っていたが」


 不審がるテンダルに、クレイオスは頷きを返す。一月ひとつき、つまり月女神ルーナの住まう月が三十回は天頂に昇ってから、普段ならようやく魔獣の再発を警戒し始めるのものだ。故にクレイオスも狩りの最中はその可能性を考慮していなかったのだが。

 二人して考えるが、魔獣の発生原理もわかっていない辺境の村人がいくら考えてもわかるわけはなし。「突然増えたのかもしれない、今後も警戒しよう」とテンダルが言うことで、思考は打ち切られた。

 代わりに、テンダルは笑みを浮かべて熊を見る。


「しかし、そうなると今夜は村のみんなでお祭りだな」

「ああ。魔獣ベスティアの肉は腐りやすい。今日中に食ってしまわなければ勿体ない」


 王都のある方では魔獣の肉も加工され、塩漬けの干し肉として使われているらしいが、あいにくこのカーマソス村ではそれほどの設備も材料もない。なので、狩った日の近日中に村全員で食べ尽くしてしまわなければあとは腐ってしまうのみだ。

 一日二日、置いておけないこともないが、味が全く違うので全部食べてしまうことにしている。特に大喰らいのクレイオスは、今日魔獣を打ち倒した瞬間からその気でいた。

 特に、熊肉は全身あますことなく食べられるため、今夜は村人全員が満足できるくらいには食べられるだろう。二べルムル半もある巨体なのだから。

 そう思いながら、まずは村の奥にある我が家へ向かおうとして、ふと、いつもは何かと騒がしい幼馴染が居ないことに気付く。再び立ち止まり、その幼馴染の親であるテンダルに尋ねた。


「テンダル、アリーはどうした?」

「むっ、アリーか。お前さんとこの、タグサム爺さんのところに向かったよ。こないだ破けた革靴ブーツの修繕が終わるころらしいからな」


 クレイオスが彼女の行方を訊けば、テンダルは急に不機嫌そうになって渋面で答えた。

 娘であるアリーシャのことが気に入らないのではなく、その逆。溺愛しすぎるが故に、革靴ブーツが破けた原因を思い出してしまい、不快さと心配を滲ませているのである。

 そんな様子ながらも律儀に教えてくれるテンダルに、クレイオスは首を傾げながらも礼を言い、ようやく歩き出す。その背中を見送る森番は、気持ちを切り替えるように首を振ると、夜の宴に備えていそいそと家に戻るのだった。




 魔獣を引きずりながら、クレイオスは村を歩いていく。

 目に入るのは、間隔を開けて立ち並ぶ家々と、その間に作られた畑。既に夕方であるため、作業している村人の姿は少なく、洗濯物を取り込もうとしている村の女たちの方が多い。そんな彼女たちはクレイオスに気付き、そして引きずる獲物を見てから「すごいわね!」と笑みを浮かべて手を振ってくる。

 それに対し、不器用なクレイオスは軽く手を振り返すだけで終わり、彫像のような精悍な顔を前に戻した。その仕草一つも絵になるのだが、あいにくこの村には年頃の娘は一人しかおらず、あとは色気より食い気な小さい子供ばかりだ。

 そんな子供たちも皆で集まって遊んでいたようで、クレイオスに気付くとわらわらと集まってきてつぶらな瞳を輝かせながら彼の獲物を取り囲む。


「すっげー! おっきいなクレイオス!」

「なあなあ! このでっかい牙おくれよ!」

「だめよ! きばとかつめとかはたまに来てくれるメッグおじさんが高くかいとってくれるんだから!」

「今度狩りに連れてってくれよクレイオスー!」


 などと、わいわい騒ぎながらまとわりついてくる子供たちに、クレイオスも思わず立ち止まって薄い苦笑を浮かべる。

 子供の相手は嫌いではないが、得意ではない。感情の出にくい表情もさることながら、傑出した身体能力が脆い子供たちを傷つけやしないかと思ってしまうからだ。

 なので、取り囲まれてしまった時点で、さてどうするかと頭を回らせる。あっという間に獲物からクレイオスに興味が移った子供たちに手足を引っ張られながらも、微塵も体勢を崩さない様子は、言ってしまえば奇妙だった。

 そんな彼が視線をあげると、老女と会話を交わす赤毛の青年の姿が目に入る。クレイオスより一回り年が離れているが、それでもまだ青年と呼ぶに相応しい若々しさがある。

 しかしながらその肩書は相応しいとは言い難い『村長』であり、昨年魔獣の襲撃で死した彼の父に代わって、現在この村を治めている人物だ。名前をカマッサという。

 そんな若き村長は、この村唯一の月女神ルーナ司祭兼治癒師である、老齢の女性ウッドナールと何かの話をしているようだった。

 しかし、目の前で騒ぐ声に気付いたのか、子供たちに纏わりつかれながら立ちすくむクレイオスを見つけ、「おやっ」という顔をして近づいてくる。


「帰ってきたんだな、クレイオス。これは……魔獣ベスティアか!」

「まあ、魔獣ベスティアですって? 怪我はしませんでしたか?」


 クレイオスの獲物を見つけ、驚くカマッサと心配するウッドナール。そして魔獣だと聞いて、子供たちが歓声をあげる。つい六日前にも、村人全員で魔獣を食したのだから、その時の興奮を思い出したのだろう。

 今夜もお祭りだ! とはしゃぐ子供たちを尻目に、クレイオスはカマッサに尋ねる。


「それで、こいつはどうする?」

「ん、そうだな……これから村のみんなに解体するよう呼び掛けておくから、村の真ん中に置いてきてくれ。クレイオスも、猪の処理が終わったら手伝いにきてくれよ」

「さあさ、今夜はお祭りですよ。家に帰ってお父さんお母さんを呼んできなさい。早く呼べば呼ぶほど、美味しいお肉が食べられますよ」


 短い言葉でクレイオスの意図を察したカマッサが、笑みを浮かべて指示を返す。次いでウッドナールの呼びかけで子供たちが家に帰らされていくことでクレイオスはようやく解放されたのだった。そして礼を述べてから二人と別れ、青年は村の中心へと足を向けた。


 間もなくして辿り着いた村の中心には、一体の女神像がある。

 ミルクのように白く滑らかな曲線を見せる衣を纏うのは月女神ルーナの神像であり、かつてクレイオスが生まれる前、やってきた鉱人族ドヴェルグにウッドナールが頼み込んで作ってもらったものなのだとか。

 流石は手先の器用な鉱人族ドヴェルグの作品か、柔らかそうな白い衣も削り出した石だという。この像を見るたび、クレイオスはその人物と月女神ルーナへの尊敬を抱かずにはいられない。

 教会や神殿を作れない代わりに、こうしてわかりやすい形で信奉していることを月女神に教え、毎晩ウッドナールはここで祈りを捧げているのだ。

 ここは、そんな場所であるのと同時に、村人が何かあるたびに集まる場所でもある。今回のお祭りなどが特にそうだろう。

 その女神像の前に魔獣を横たえ、捧げるようにしてクレイオスは、一時、首を垂れて祈りを捧げる。森神シルワに限らず、ほとんどの神は月女神ルーナと遠い血縁関係にあるが、その中でも特に、月女神ルーナ森神シルワは仲がいい。

 故に、獣を捧げても怒りに触れることはない。

 そうして暫し立ち止まったクレイオスは、再び猪を引っかけた槍を担ぎ上げ、村の奥へと歩き出した。


 集会所を兼任する大きな村長邸の前を通り抜け、少しばかり周囲に家が少なくなってきたころ。ようやくクレイオスの目的地が見えてくる。セルペンス山から流れてくる小川のほとりに建っているのが、クレイオスの住む家であり、同時に育ての親である祖父タグサムの居る家だ。

 おそらく、まだ日の沈み切っていないこの時間であれば、寝食を過ごす家の隣にある、作業小屋に居ることだろう。

 そう思いつつ歩いていれば、視線の先で小屋の扉が開く。そして元気のいい少女の声が「タグサムさん、ありがとう!」と告げ、すぐに小屋から声の主が出てきた。

 闇を束ねたかのような黒鳥の濡れ羽色の髪を、後頭部で一本にまとめて結わえており、彼女がこちらに気付くのと合わせてその背後でぷらぷらと揺れる。彼女が己の常盤色の瞳をクレイオスに向ければ、それは「あっ!」と喜びに輝いた。


「クレイオス! もう帰ってたのね!」

「ああ。魔獣ベスティアも狩ったから、今夜は祭りになる。アリーも早く帰って仕度した方がいい」


 アリー、と愛称で呼ばれる少女アリーシャは、クレイオスの言葉に元々大きい瞳をさらに大きく見開いた。そして抱えている革靴を抱きしめながら、怪訝そうに顎に手をやって考え込む。


「また、魔獣ベスティア? 妙ね……あたしが狩ったばっかりなのに」

「ああ。今後も現れる可能性がある、気を付けよう」


 テンダルと同じ疑問を抱くアリーシャに、クレイオスは頷きを返して注意を呼び掛ける。

 あたしが狩った、とはその言葉通りの意味。彼女もまた、クレイオスと同じ『狩人』であり、その本分を全うしたのだ。基本的に、一方が村を離れるなら、もう一方が村に残るという形でコンビを組んでおり、六日前は彼女が狩りに出ている際に魔獣と遭遇したのだという。

 今抱えている、修繕の痕が見られる革靴もその際魔獣に引き裂かれたものだ。

 しかし、怪我らしい怪我をしなかったのだから、彼女も熟練の狩人であると言えよう。

 疑問を抱えながらも、やはり彼女にも答えは出ないので、ぶるぶると頭を振って結わえた黒髪を揺らしながら考えを打ち切る。そしてあっという間に気持ちを切り替えたのか、「じゃあ、またあとで!」と元気に手を振りながら、村の入口にある父と自分の家へと向かったのだった。

 それを見送り、背中が随分小さくなってから再び前に向き直れば、またも小屋の扉が開くところだった。そして、今は随分白いものが多くなってしまった赤毛の髭を蓄えた男が姿を現す。クレイオスの祖父タグサムだ。

 老いてなお、鷹のように鋭い翡翠の瞳をクレイオスに向け、鼻を鳴らして口を開く。


「聞こえたぞ。また魔獣ベスティアが出たんだとな」

「ああ。こいつを処理したらそっちの手伝いに行かなきゃならない」

「馬鹿者め。こんな短い期間で魔獣ベスティアが出たことなど、俺の人生でも一度もないんだぞ。もう少しよく考えろ、腹減り小僧が」


 大男さえ怯むような眼光と共に、初老の男から悪態が吐き出された。このタグサムも、かつては狩人であり、今はクレイオスにその仕事を一任している。

 全ての技術をクレイオスとアリーシャに教えた人物で、故にそんな男の言葉にクレイオスは困ったように僅かに眉根を寄せるのだった。

 事実、腹が減っていて早く肉を食べたいという気持ちを見抜かれてしまっている。その後に魔獣について考えればいいだろう、などと考えていたので、祖父の言葉に居心地が悪くなるほかない。

 気まずげな孫に、またもタグサムは鼻を鳴らすとくるりと背中を向けて小屋に戻っていく。左脚を引きずるその足取りの理由は、革ズボンに隠されている抉れた踵。狩人を辞めた理由の一つである。

 その姿を見るたび孫の青年は口惜しい気持ちになるが、しかしこれも祖父の油断が招いた結果。クレイオスが何かを感じる意味はなく、故にすぐに視線を外した。

 そして彼の後を追い、小屋に入って奥の作業台へと向かう。周囲には乾かされている革が数多くぶら下がっており、それらは脚力を失った祖父の現在の仕事――革職人の証だった。

 奥の作業台に猪を置けば、それに合わせて祖父は別の作業台に向かう。そこには作業途中らしき革が置かれ、今は最終工程の伸ばし作業をしているところらしかった。

 傍の壺に貯められた獣脂を塗り、タグサムは鉄木フェッルムの棒をその上から押しつけながら転がしはじめる。この作業は数回どころか数百回の繰り返しを必要とする根気の要るものであり、恐らく昼前からずっとやっていたのであろう。

 その仕事ぶりを視界の端に留めつつ、クレイオスは壁にかけられた分厚い肉切り包丁を手に取る。

 魔獣のことを思考の端に置きながら、紅蓮の青年は猪の解体に取りかかった。




 篝火かがりびが焚かれ、夜闇の中に浮かび上がるカーマソス村では、現在あちこちで村人たちが踊り騒いでいた。

 中央の女神像の下には、綺麗に腹を裂かれて剥がされた熊の魔獣の皮が、打ち付けられた杭に掲げるように引っかけられている。その周りでは、解体された獣肉が急ごしらえのたき火の周りに木の枝に突き刺さされて焼かれており、時折零れ落ちる獣脂がじゅうという音を立て、香ばしい匂いを撒き散らしていた。

 あちこちでほどよく焼けた熊肉を喰らう村人の姿があり、そこには勿論、今回の立役者たるクレイオスも居る。左右の隣にはアリーシャとカマッサが彼と同じように焼き肉に齧りついていた。


「やっぱり魔獣の肉はうまいな。毎日食べたいくらいだ」

「ほんと。正直相手にするのはヤだけど、こんなにおいしいならクレイオスに毎日探してもらおうかしら」

「……他人事だと思って滅多なことを言うな」


 のんきな感想を述べる二人に、クレイオスは分かりづらい困惑の表情を浮かべ、小さく肩を竦める。

 確かに美味いものは毎日食べたいが、その為に魔獣を毎日相手にするのは骨が折れるだろう。なにより、そんなことができるほどたくさん魔獣が出てしまえば、こんな小さな村はすぐに壊滅してしまう。

 それは流石に勘弁願いたい、と心中で零したところで、やはり気になるのは、短期間で連続して出現した魔獣ベスティアのことだろう。何かが起きている、というのは明らかだが、その『何か』が全くわからない。

 明日からは、少し山の方も見てみようか、とクレイオスが考えたところで、カマッサが周囲を見やりながら「あれ」と声を上げた。


「ヘイムルさんのとこが来てないな。おーい、サブラスさん! ヘイムルさんに伝え忘れてないかいっ?」

「んあ? いいや、ちゃんと伝えたし、一番乗りで行く、って威勢よく言ってたはずなんだけどなぁ」


 この場に居ない農夫の一家の姿が見えないことに気付いた若き村長が、手近なところに居た近所の農夫であるサブラスを呼び寄せて尋ねる。しかし、そのサブラスも首を傾げ、来ているはずの家族が見当たらないことに首を傾げた。


「そういえば、見てないわね。クレイオスは?」

「いいや」


 まだ祭りも始まったばかり。帰ってしまうには早いし、何よりクレイオスもアリーシャも見かけた覚えがない。すると、まだ来ていないと考えるのが自然だが、せっかくの祭りにのんびりしている一家だっただろうか、と狩人二人は首を傾げた。

 遅ければ呼びに行けばいいか、とカマッサは暢気に零し、座りなおそうとして――固まる。

 それはアリーシャもクレイオスも同じだった。


 彼らの耳に辿り着いたのは、和気藹々としていた村を切り裂く――鋭い悲鳴だった。

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