18 旅路の展望

 字の勉強は食事の後で、というクレイオスの苦肉の策という名の提案により、二人は荷物を固めた自室に鍵をかけ、階下に降りてきていた。

 少々の時間をクレイオスの勉強会に費やしたので、カウンターの前を通り過ぎる時に女店主から「準備は出来てるから、適当な席で待っといておくれ」と食事の用意ができていることを告げられている。

 それに従い、いそいそと食堂の扉を開ければ、食欲をかき立てられる温かな香りがむわりと身体を包み込んだ。獣肉の脂が火の中に落ちた時のような荒々しい旨味を感じるソレではなく、優しくも胃袋を掴んで離さない、深みのある芳醇な匂い、と言えばいいだろうか。

 一瞬だけ匂いに気を取られながらも、クレイオスは食堂に足を踏み入れる。宿屋の外観通り、食堂はそれなりの広さがあり、五、六個のテーブルとそれを囲む椅子が置かれている。そして一番奥にはカウンター席があり、その正面には大きく穴が開いた壁があった。そこから台所らしき場所が覗けるようで、その隣にはそこへ繋がる扉のない入口がある。

 食堂内は思いのほか人が多く、様々な格好の人々が思い思いにテーブルに着いて会話を交わしている。彼らは一瞬だけ、新たな客である二人に視線を向けたが、それ以上の興味は持たれなかったようだ。

 たった二人なのだから、テーブルよりカウンターのほうがいいだろう、という適当な判断でクレイオスは一番奥の席に向かい、そこにアリーシャと並んで座る。

 すると、すぐ傍の台所への入口からアリーシャよりいくらか若いであろう少女が、両手に皿を乗せてやってきた。


「すぐに食事を全部持ってくるので、ちょっとおまちくださいね!」

「ああ、わかった」


 三つ編みにした亜麻色の髪を揺らし、ニッコリと言われた言葉にクレイオスも微笑ましさを感じて笑みを返す。すると、彫像のような精悍な顔の笑みを見た少女が少しだけ頬を赤くして顔を伏せながらも、両手のスープ皿を二人の前に置いてそそくさと台所に消えていった。

 その手早さにクレイオスが感心する中、大して待たずにもう一組の皿を持ってきた少女が二人の前に置く。こちらは、何かの肉を豪快に焼いて香草で味付けしたらしい大振りの肉だ。

 料理を運び終えた少女は、クレイオスの顔をマジマジと見ながら口を開く。


「スープとパンはおかわりできるから、遠慮なく声をかけてください。すぐに持ってくるので!」

「あら、そうなの?」

「はい、パンとスープは毎日出すものだから、たくさん用意しておいてるの」


 アリーシャの疑問に笑みを浮かべて答えた少女は、ぺこりと頭を下げてから別のテーブルの皿を片付けにいってしまった。

 彼女から視線を戻して目の前の料理を見れば、タマネギなどの野菜がたっぷり入ったスープとそこに浸したパン。そして香ばしい匂いを放つ焼いた肉である。

 正直、多少豪華な時の村の料理と変わり映えしないが、逆にそれがクレイオスを安堵させる。

 都市なのだから、きっと見たこともないようなとんでもないものを食べているのかもしれない、などと考えていたのだから、見覚えのある料理で安心したのだ。

 なので、さっそく木の匙を手に取り、スープを一口、口に運ぶ。野菜の香りを鼻で堪能しながらスープを舌の上で転がすと、自分たちの村で作っていたソレとまったく違う味わいが感じられた。

 カーマソス村のスープはただのお湯だ、と指さして笑われても仕方ないくらいの、驚くべき味の濃厚さの違いに、思わず目を見開きながらもう一口、二口と口に運んでいく。

 そして、続けてフォークを手に取って六枚ほどに切り揃えられた肉の一つに突き立て、期待と共に口に運んだ。するとやはり期待通り、舌先に少しの塩気と共に甘味を感じ取ったかと思えば、同時にそれらを肉の脂の旨味が覆いつくし、何とも言えない多幸感が頭の中をいっぱいにしていく。

 隣のアリーシャも終始頬を緩めて食事をしていて、木の匙でほろりと崩れるスープの中のパンの柔らかさに驚いていた。

 そういうわけで、都市での初めての食事に夢中になった二人は、あっという間に料理を食べ尽くし、名残惜しげに匙を置いたのである。

 本来は食べながら色々と話し合う予定だったのだが、二人は匙を置いてお互いの皿を見て、その中身が綺麗さっぱりなくなっているのを見て小さく笑いあった。そして間もなく、二人ともスープとパンのおかわりをすぐそばの亜麻色の髪の少女に頼んだのである。

 そうして一息ついてから、アリーシャは口を開く。本当は話しながら食べるつもりだったのだが、あまりの美味しさに忘れてしまっていたのだ。


「それで、クレイオス。明日からすべきことの確認なんだけど、まずヒュペリアーナへの行き方を調べる必要があるの」

「歩いていけないのか?」

「方向は聞けばある程度わかると思うけど、どのくらいかかるのかわからないし、王都っていうくらいなんだからもっと良い行き方があると思うのよね。私たち、野営の方法もあんまりわかってないんだから、最初はそういうのを頼った方がいいわ」


 クレイオスの疑問に緩く首を振り、アリーシャは出されていた杯の水を口に含んで一息つく。

 確かに、二人は自然の中を駆け抜けて生きてきたが、外で一夜を過ごすという愚行はしたことがなかった。暗くなりすぎる前に必ず村に帰っていたし、仮に日が沈んでも月明りを頼りにすればすぐに帰れる距離までしか移動したことがないからだ。

 確かに、これではいざ野営というときに何をすればいいか、などわかりようもなかった。実際、目の前に問題を突き出されてようやくクレイオスも自覚したくらいである。

 それは困った、と眉を寄せる青年に、少女も肩を竦めた。


「父さんは行商人だったから、旅に関しては私たちみたいな旅人の参考にならないのよね……」

「そうか……そういったことも、誰かに聞いて回った方がよさそうだな」


 そうやって二人して肩を竦めたところで、両名の目の前におかわりのパンとスープが運ばれてくる。

 いい香りのそれらに再び手を着けようとしたクレイオスだが、横合いからおずおずと言った様子でかけられた声に手を止めることとなった。


「あのう……」

「ん?」


 そちらの方に顔を向ければ、給仕の少女がトレイを抱えて少しばかり迷った様子の表情でクレイオスを見つめている。

 どうしたのかと視線で問えば、申し訳なさそうに身体を縮こまらせながら少女は答えた。その動作から内気そうな性格がわかるが、それでもこうして自分から話しかけてくるあたり肝は据わっているらしい。


「盗み聞きするつもりはなかったんだけど、その、厨房で二人の話が聞こえて……よければ、私がヒュペリアーナの行き方、教えてようかな、って……」

「それは、願ってもないことだが」


 小さな声の提案に、クレイオスは戸惑いながらもアリーシャと視線を合わせる。

 どうしよう、というクレイオスの無言の問いに、アリーシャもまた首肯することで少女に訊こうと答えた。

 短いやりとりを終え、クレイオスは少女に再び向き直って、「是非頼む」と薄い笑みと共に先を促した。精悍な青年のわずかな表情の変化に少女は同じく笑顔を咲かせて「はい!」と元気よく答える。


「えっと、その、ヒュペリアーナへ陸路で行くのはとても難しいの」

「何故だ?」

「できないことはないんだけど、大回りしなくちゃいけなくて。最短ルートで行こうとすると、どうしても森人族アールヴの森を突っ切らないとダメなの。その森も、ヒュペリウス領の真ん中に大きく広がってるから、迂回すると何日もかかっちゃう」

森人族アールヴの森があるのは知ってたけど、そんなことになってたのね」


 少女の言葉に、アリーシャが得心がいったように頷く。同時に、彼女の言う「森人族アールヴの森を突っ切る」というのが如何に現実的ではないのかというのを理解しているため、困ったように眉根を寄せた。

 それはクレイオスも同じだ。如何に彼が世界に疎いとはいえ、人族の一角たる森人族アールヴを知らないわけがないのだから。


 森人族アールヴは、名の通り森神シルワより生み出された、森を愛し、森を守護する種族だ。

 美しい見た目と土人族ヒューマンを凌駕する身体能力を有するが、何より有名なのはその頑固さである。

 種族全てが森を愛するのは当然のことだが、それ以上に自分たち以外の種族が自分たちの住まう森に足を踏み入れることを蛇蝎の如く嫌う。木々の生い茂る場所を森神の聖域とし、森神より生み出された自分たちを聖域の守護者として森を不可侵領域とすることを至上命題としているのだ。

 その頑固さは筋金入りで、如何な言葉も聞き入れず、うっかり彼らの住まう森に足を踏み入れた子供でさえ苛烈な攻撃で追い出そうとするのだ。当然手加減を知らず、それによって死んでしまった者も数多く存在する。

 一説には、それを見かねた森神の神託すら無視したという話まであるのだから、森人族アールヴの森を踏破するなどと言うことが如何に危険か、世界の誰もが知っている事実である。


 故に、ヒュペリアーナへの道のりにその森が横たわっている以上、迂回する以外に道はない。

 それは困った、とアリーシャと目を合わせるクレイオスに、少女はあわてたように言葉を続けた。


「で、でも、迂回しなくてもヒュペリアーナに行く方法はあるの」

「そうなの?」

「はい。森人族アールヴの森の手前の、カリオンという港町があるんだけど、そこって、シウテ川の河口で。それで、ヒュペリアーナもシウテ川の沿岸にあるから、カリオンからヒュペリアーナ行きの船に乗れば、川を遡って王都に行ける、ってお父さんが言ってたの」


 話しているうちに落ち着いてきたのか、少女は笑顔でヒュペリアーナへの行き方を話す。

 カリオン、シウテ川、フネ。

 何を言っているのか、まるでわからないクレイオスだが、隣のアリーシャを見れば理解した顔でふんふんと頷いているので、詳細を後で彼女に聞くことにして黙り込む。

 そんな彼を尻目に、父の日記から得ている知識を基に、アリーシャが問いを少女に投げた。


「カリオンから船ね、そういう道もあるんだ。じゃあ、そのカリオンには歩いていくとどのくらいかかるの?」

「カリオンまでなら、徒歩だと五日くらい、かな。でも、街道沿いには村があんまりないから、離れた村に立ち寄りながら、ってなるともっとかかるかも……ほとんどの人は、街道馬車とか、商隊の護衛ついでに乗り合わせたりして、三日くらいでカリオンに行くんだって」


 少女の答えに、アリーシャは困ったように顎に指を当てて考え込む。クレイオスとしても、徒歩でそれほどかかる距離は旅人となったばかりの自分たちには厳しいだろうな、と薄く渋面になって考えた。

 それは隣の幼なじみも同じだったようで、再び少女に問いかける。


「それじゃあ、街道馬車、ってお金かかるものよね? どのくらいか、知ってる?」

「うん。一人八十フォル銅貨、って」

「そ、そんなに?」


 驚きの声を上げるアリーシャに、少し遅れて指で数えたクレイオスは、この宿に支払った金額のだいたい二倍程度の金額と気づいて小さく唸る。

 それほど高価な代物を利用するには、さらに二人合わせて百六十フォル銅貨必要だ。一フォル銀貨でも足りない。

 払えるかどうかは別にしても、そのような高価な代物を利用するのはどうなのか、というクレイオスの疑問は、すぐ隣で「そんなの使ってられない」と呟くアリーシャのおかげですぐさま解消される。貨幣文化を知って間もない彼の価値観は、さほど間違っていないようだ。

 それは目の前の給仕らしい少女も同じようで、同意するように頷き、口を開く。


「街道馬車を使う以外で一番簡単なのは、やっぱり街のギルドに依頼されてる商隊の護衛を受けて、一緒にカリオンまで連れて行ってもらうことだと思う。何かあったら護衛の仕事はちゃんとしなきゃだけど、セクメラーナとカリオン間ではそこまで気を付けるものはこの時期居ないはずだし……」

「そっか、ギルドを使う、って手もあったわね」

「はい。セクメラーナのギルドとカリオンのギルドは提携してるから、街を移動する必要のある依頼の報酬はちゃんとしてるらしいから」


 またしても知らない言葉が出てきた、と薄く顔を強ばらせるクレイオスを置いて、アリーシャは「いいことを聞いた」とばかりに満面の笑みを浮かべて少女に礼を言う。

 彼女の言葉に給仕の少女も嬉しそうに返事をして、別の客に「おうい!」と呼ばれたのを聞くとそのままぺこりと頭を下げてそちらに行ってしまった。

 アリーシャも聞きたいことは全て聞いたのか、さっさと料理に向き直ってパンを手に取る。そんな彼女に、クレイオスはスープを飲み干しながら大きく息を吐いて呟いた。


「世の中知らないことばかりだな」

「え? あー、そう、ね。わからないことがあったら遠慮せずに聞いて。説明したげるから」

「いや、明日でいい」


 途中からクレイオスが完全に話についてこれていなかったのを思い出したのだろう。アリーシャは苦笑いを浮かべて申し訳なさそうに言うも、クレイオスは言葉の割にさして気にしていないようで、薄い笑みと共に手をひらひらと振ってそれを先延ばしにする。

 気にならないわけではないが、一日に色々な情報がありすぎたのだ。これ以上詰め込むと覚えていられない、と肩を竦めてパンの最後の一欠片を口に放り込む。

 その様子を見てくすりと笑みを漏らしたアリーシャは、自分の目の前の少しだけ冷めてしまった料理を腹に収めるべく、匙を手に取った。

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