神火のクレイオス

宮川和輝

第0部 始まりの英雄譚

第1章 ウェアウルフ事件

01 狩人クレイオス

 駆ける。駆ける。駆ける。

 若草を踏みしめ、青々とした茂みを飛び越え、生え並ぶ木々を避け。

 仄暗い紅蓮の髪を炎のように揺らし、若き青年が森を駆け抜ける。

 右手には巨大な動物の牙を穂先にした槍を握り、白皙はくせきの身に纏うは動物の皮をなめした革衣。同じ革でできた革靴は、主の導きにより唐突に飛び出ている木の根を迷いなく器用に避け、そして飛び越えた茂みにひっかかることさえない。

 その遅滞なく駆け抜ける足捌きは森に慣れた人のソレであり、事実、青年はこの森において食物連鎖の頂点に君臨する『狩人』だった。

 そんな紅蓮の狩人が、力強い意志の宿る翡翠の瞳で睨む前方の一点にはやはり、彼が狩人としての本分を全うする対象――獣が居た。

 彼に尻を向け、全速力で駆け走るのは焦げ茶色の猪。その濃色の体毛を汗でさらに濃く濡らし、口から泡を吹かんばかりの勢いで背後の狩人を振り切らんとしている。そう、気性が荒いことで有名なセクメレル領の猪が、今この場において逃げの一手を全力で打っているのだ。

 獣の本能が、この狩人と出会った瞬間に全力で警鐘を打ち鳴らしたのだろうが、現実は非情かな。

 茂みをかき分け飛び込んだ先で、足を滑らせながらも猪は全力で方向転換。狩人がそのまま直進していれば見逃していたであろう動きも、彼は完全に対応し、むしろ最短コースで距離を詰めてくる。それどころか、狭い木々の間を通っても、岩陰に一瞬身を潜めても、獣道に飛び込んでも。

 どこへ逃れようとも狩人は一瞬にして猪を見つけ、ついに万策尽きた猪はただひたすらに真っ直ぐ疾走し始める。本来ならそれこそが最善手であった。

 獣の走力と人間の走力。生き物の能力として圧倒的な開きがあるはずのソレを、しかし青年は全く無視してどんどんその差を縮めていく。一足ごとに加速する狩人と逃げる猪の間には、もはや三ベルムル程度の距離しか開いていなかった。

 そうなれば、猪の運命は定まったも同然。青年が、ここで勝負を決めるとばかりに一つ息を吸い込む。

 鉄木フェッルムで出来た槍の柄を確かめるように握り直し、そして眉間にぐっと力を込める。そして身を一瞬だけ低く沈めるのと同時、大地にひときわ強く踏み込んだ。

 刹那――引き絞られた矢が放たれたかのように、青年の身体が前へ弾け飛ぶ。

 彼の蹴飛ばした地面が砂塵を巻き上げ、それを置いてけぼりにしながらあっという間に前方の猪を抜き去った。一気に視界の後方に消えていく猪を追うようにして、青年は左足を大地に突き立てながら振り返る形で方向転換。その目の前に、猪がバランスを崩して転がるように倒れ込んだ。

 その後ろ足の一本には先ほどまで存在していなかった一筋の深い裂傷が奔っており、対する青年の握る槍の穂先からは鮮血が滴り落ちた。それが意味するのは、今の一瞬の交錯、通り抜け様に狩人が放った一閃が猪を捉えていたということ。

 骨にまで達しているであろう裂傷は、強靭なアキレス腱まで正確に断ち切っており、もはや猪が先ほどまでのように駆けるのは絶望的。それでも、生命の足掻きは猪を前脚だけで歩かせようとするが、その目の前に立った狩人に躊躇はない。

 森と獣、そして狩猟を司る森神シルワに心中で感謝を捧げながら、青年は振り上げた槍を猪の首へと振り下ろした。



 まだ辛うじて息があるうちに血抜きをせねばならない、と祈りを終えた青年は気を改めて獲物に向き直った。血抜きのしていない獣肉は食えたものではなく、さらに毛皮を剥がす時も面倒になるので、血抜きは大事な作業なのだ。

 尤も、血抜きをした後も、森の香草などを使って保存してしまうため、正直それもうまいものではない。新鮮な肉を焼いた味を知っている身としては、これはぜいたくな悩みだろうか。

 そんなことを考えながら作業を進めていると、ふと紅髪の狩人――クレイオスは感情の薄い精悍な顔に、これまた薄い笑みを浮かべた。こんなことを幼馴染に言えば怒られるだろうな、と唇を尖らせる彼女の姿を思い浮かべてしまったからだ。

 何年も繰り返した作業ゆえにクレイオスはそんな風に思考を別のことに割きつつ、猪の後ろ足を縄で括りあげて槍に固定し、強度を確かめる。

 貴重な縄を痛めないようにするその作業を行うには繊細な力加減が必要だが、白皙の指先は遅滞なく縄の上で踊りながら猪の脚を問題なく締め上げていく。無論のこと、縄はほつれを見せることなく従順に結ばれ、今度は男らしい力強さを以てしてぎっちりと槍の柄に猪の脚が固定された。

 何度か触って固定具合を確かめると、クレイオスは一つ頷いてから立ち上がり、ひょいと槍を持ち上げると傍の木の枝に引っかける。そのまま立てかけてちょうどよく猪の頭がぶらりと垂れる形になると、虫の息の獣から生命の源たる鮮血が零れだした。

 何でもないかのように行った一連の動きだが、これはクレイオスだからできること。同じ村の大人の男達でもこれほど簡単にはできはしない。

 革衣に包まれた彼の肉体がその証拠であり、薄幸の美女の如き白い肌とは裏腹に、服の上からでもわかるほど筋肉質に鍛え抜かれている。

 さながら、何本も重ねた針金を、絞りながら捩じりあげたかのような、密度の高い鋼の身体というべきだろうか。それほどシルエットが膨らんでいないのにもかかわらず、その立ち姿を見るだけで力強さを感じさせるのだ。

 確かに見た目も生まれも土人族ヒューマンである彼だが、その身体能力が他を圧倒する代物であるのは、先ほどの狩りからしてわかるだろう。

 事実、獣の脚に追いつく脚力は森人族アールヴ以上のしなやかさと素早さを感じさせるし、槍に括り付けた三十キロフェラムはあろう重さの立派な猪を軽々と持ち上げた膂力は、鉱人族ドヴェルグの力強さを思わせる。

 その柄もまた、鉄木フェッルムと呼ばれる鉄のように重いながらも樹木の丈夫さを併せ持つ素材でできており、その先端に巨大な動物の牙が差し込まれているのにもかかわらず軽々とふるっていた。

 総じて、土人族ヒューマンの規格を飛び越えた能力のクレイオスだが、本人はそれを然程気にしたわけでもなく、育ての親たる祖父タグサムもまた、口に出してきたことはなかった。同じ村の人間も、最近ではせいぜいが「戦神ベルムさまに愛されてるんだな」と零したくらいである。

 クレイオスもまた同じく、こんな己のことを疑問に思ったことは少ない。

 「役に立つならいいだろう」というのが、この森と住まう村、そして近くの山までしか己の世界が存在しない青年の感想だった。


 そんなクレイオスは、ついに血を流しきって力尽きた猪を手に村への帰路につこうとして――動きを止めた。

 同時に、鉱人族ドヴェルグの生み出す神像の如き雄々しさと美を誇る顔を険しく歪める。肩に担ごうとしていた槍を下ろし、静かに振り返った。

 そこにはやはり、いつもと変わらぬ森の風景があるが、しかし狩人の鋭敏な感覚は、隠しきれない獣の殺気を感じ取っている。だが、獣にしてはその気配はあまりにも暴力的で、そしてだった。

 向こうも察知されていることに気付いたのだろう。しかし襲撃を諦める気はさらさらないようで、彼の真正面から茂みを踏みつぶすようにして姿を現す。

 紫色混じりの黒に輝く硬質な体毛に、クレイオスの胴回りほどの太さを持つ前腕。涎を零す突き出た鼻面は、目の前の獲物の匂いを確かめるようにひくひくと動き、そしてその上の双眸は飢えの苦しみと狩りの喜びに爛々と輝いている。ずんぐりとした大きな体は普通の個体よりもはるかに大きく、そして強靭さを窺わせた。

 クレイオスの目の前に現れたのは、熊。しかし、ただの熊ではない。

 魔獣ベスティア

 そう称される、唾棄すべき存在だった。通常の獣よりも遥かに大きく、強靭で、そして――凶暴。目につくものすべてに攻撃を仕掛け、食い散らかし、そしてまた別の物に襲い掛かる。普通は畏れるであろう人間にもだ。

 生態系を壊しかねず、そして縄張りを無視して簡単に村に入り込んでくる害獣である。どのようにして生まれるかはクレイオスにはわからないが、しかし、こうしてたまに森に紛れ込んでくることがある。


 そして、そんな獣の相手をする役目があるのは、狩人であるクレイオスだった。


 一瞬、槍に視線を落とす。今日の狩りはこれまでのつもりだったので、獲物を括りつけてしまった。これでは満足に振り回せない。

 そう判断して、クレイオスが槍を投げ捨てるのと同時。

 熊は我慢できぬと唸りをあげ、彼に勢いよく飛び掛かった。

 対し、クレイオスは紅蓮の髪を揺らして一歩後退、空振りして目の前に着弾する巨体を見据える。狂った獣の瞳と翡翠の視線が交錯するのと同時、魔獣ベスティアが追撃の右腕を振り上げた。

 それに合わせるようにして、クレイオスは――なんと己の右腕を振りかぶる。

 直後、土人族ヒューマンの拳と丸太のような魔獣の前足が激突。

 そして、当然のようにして――獣の前足が殴り飛ばされた。

 信じられぬと目を見開く熊の鼻面へ、さらに踏み込んだクレイオスが左拳を一閃。叩きこまれた一撃は鼻面の骨を粉砕し、たまらず魔獣が悲鳴を上げ、立ち上がって後退する。

 そこへ更に、背中から回転しながら迫る高速の踏み込み。顔を押さえる熊にそれを知覚する術はなく、結果として、回転力を加えた右拳の裏拳が無防備な腹部に突き刺さった。

 轟撃。

 こもった音が森に響き渡り、同時に魔獣の身体がくの字に折れ、口腔から血とも胃液ともとれない橙色の体液が吐き出される。

 凄まじい威力によって放心したように棒立ちになる熊を前に、一歩後退したクレイオスは両腕を畳みながら後方へ引き絞った。そして、こちらへと倒れ込まんとする熊へ向け、今度は半歩、力強く――踏み込む。


「ふンッ!」


 あまりの脚力に大地が割れ砕ける中、重心を高速で前へと移動させたクレイオスの裂帛が響き渡る。同時、両手の掌底が、吸い込まれるようにして魔獣の胸部へと叩きこまれた。

 ドッ、という低く鈍い音が森に響き渡る。

 そしてすぐさま粛然たる森が取り戻され、木々のざわめきだけがあたりに残った。今の一撃は、確かに先ほどより音が小さい。しかし、その分だけ威力は熊に集中していた。

 証拠に、めりこむ手掌の手応えから、クレイオスは心臓を破裂させたことを感じ取っていた。弾くようにして魔獣の身体を突き飛ばせば、その勢いのまま、熊は後方へと力なく倒れ込む。

 そのまま二度と動くことがないのを確認し、クレイオスは溜め込んでいた息を大きく吐き出す。

 そして、魔獣の骸と猪の骸を見て、また小さく嘆息した。


「荷物が増えたな……」


 人里に降りれば、その村を一夜で壊滅させかねない魔獣を相手にした青年の感想は、そんな程度だった。







 テラリアル。

 『全ての母神テラリア』を神々が敬い、愛したことで、この世界はそう呼ばれている。

 テラリアが生み出した広大なる大地は、そのテラリア自身の過ちによって生み出された『魔物モンストルム』と神々による永い永い戦いにより、破壊され、三分の二を砕かれてしまったのだという。

 現在では、その砕かれた大地は海神マレラルが戦いの際に流した汗と血潮に覆いつくされ、現在は海の底となっている。残ったのは、かつてに比べれば狭苦しい大地だ。

 魔物モンストルムを最後の一匹まで封じた神々だが、その時にはもはや全ての母神テラリアは居なかった。新たに大地は生み出せず、そしてその大地の隅々に忌まわしき魔物が眠っているのだ。

 これを嘆いた神々は、また魔物が出てこれぬよう、残った大地の上に別の生き物を繁栄させることにした。

 幸運神フォルトゥーナは、ありとあらゆる幸運をかき集め、テラリアルの土に押し込めることで土人族ヒューマンを生み出し。

 森神シルワは、数多の木々の生命力を一本に集約することで、森人族アールヴを生み出し。

 鍛冶神フェラリウスは、己の全身全霊の技術を一つの鉱物に刻み込むことで魂を与え、鉱人族ドヴェルグを生み出した。

 後に人族と総称される三種族は、神々の思惑通り、時間をかけながらも大地全土に広がり、豊かな繁栄と発展をもたらしたのだった。


 大地の東端にある、土人族ヒューマン三国が一つ、『ノードゥス』もまた、繫栄し、興亡する国々がある中で現在を生きる国である。

 ボース半島を有し、そのすぐ西には他国との国境となっている険しいマルゴー山脈が存在している。このように険しい国境と肥沃な半島、そして二本の河を有するノードゥスは、他国との争いも少ないおかげで、平和かつ豊かに発展していた。

 そんなノードゥスのボース半島の半分から先は、国王ヒュペリウス四世の遠縁にあたる男セクメレル伯の領地であり、優秀な畜産地として有名である。

 しかしながら、当然肥え太った家畜を狙う不届き者たる獣は居るわけで、そんな時、領主と牧夫は様々な手段で、半島最東端にそびえたつ『セルペンス山』に追い立てるのだ。

 このセルペンス山、慣れた獣にとっては極上の環境であるのだが、一方森神シルワとは縁遠い土人族ヒューマンにとっては踏破は至難の業。整備された道は一本だけで、それも最低限でしかなく、一歩進むごとに足を取られる可能性がある始末だ。

 山の斜面の角度も厳しく、荷車を引く馬が泡吹いて転がり落ちた、なんて話もあるのだから笑えない。

 そんな山に何があるのか、と問われれば、乗り越えた先にあるのは森人族アールヴが住んでいてもおかしくないと思うほどの美しい森と、その手前に座す小さくはないが大きくもない村だけだ。

 そこは村を開拓した人物の名を借りて、カーマソス村と呼ばれる。

 神々を信奉する教会一つない村だが、誰もが平穏に暮らしていて、狩人クレイオスもまた、そんな村の住人の一人だった。

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