32 暴虐悪鬼(1)
「もう――無理ぃっ!」
クレイオスの対面、ベッドの上でアリーシャが髪を振り乱して頭を抱える。就寝前であるが故に長い髪は髪紐から解放されており、ぶんぶんと左右に振り回されて黒髪のカーテンを生んでいた。
そんな彼女の前には、シーツの上に整列された銅貨の数々。二人の所持する全ての貨幣であり、ある意味では全財産だ。
二枚だけ銀貨が混ざっているものの、クレイオスから見るとその数は先日とあまり変わっているように思えなかった。
そして、その通りなのである。
「この街、仕事なさすぎでしょう……どうしてぇ……」
常の溌剌さと明快さはどこへやら、地の底から響くような震える声で、アリーシャは
彼女の言う通り、この街で受けられる仕事があまりにも少なかったのだ。正確には、非ギルド員向けの仕事が、だ。
どうにか受けたものと言えば、商店の荷運びの手伝いや料亭の給仕募集など、薄給のものばかり。まるで、ギルド員になれない年齢の子どもが受けるような、些細な手伝いばかりだった。
そのおかげで、現在彼女の前で並べられている銅貨の数は、先日と大差ない結果になってしまっている。
「半日荷運びしても十五フォル銅貨……給仕の手伝いをしても日没と月の出の鐘の間だけだから七フォル銅貨……まかないは美味しかったけど、それじゃ、それじゃ一日の宿代くらいしか稼げないじゃないのよぅ」
彼女がベッドにうつ伏せになっていじけるように、この宿の宿泊費八フォル銅貨をどうにか補う程度の収入しか出せていない。食事代も含めれば、十六フォル銅貨なのだから尚更だ。
つまり、ハバ商隊護衛の報酬一フォル銀貨を受け取ってから三日、ほとんど貨幣袋の中身は変わっていなかった。端数で増えてはいるが、それでもギリギリ二人分の海神船代をどうにか捻出できるか否か、というところ。
どうにか海神船に乗れはするが、それでは困る、ということで二人は未だにこの街に残っている。
単純な話、全財産を支払ってしまうと、その後が立ちいかなくなるからだ。故にアリーシャは余裕を持てる額――せめて銀貨一枚分くらいは稼ぎたかったのだが、それが遠い道のりであると三日目にして理解してしまった。
一応、それなりの額を稼げる仕事も非ギルド員向けにあるにはあった。ただし、それはこの南カリオンでの仕事ではなく、対岸の北カリオンからの応援要請や、周辺の村々からの労働力の募集であったりと、遠出せねばならないものばかり。
報酬は魅力的だが、遠出による出費と収入がつりあうかわからない現状、おいそれと手を出すわけにもいかない。故に、二人はカリオンでの仕事に限定してこれまでやってきた。
黒髪の少女がこうしてベッドで潰れているのはそういうわけで、これにはクレイオスも渋い顔をしている。根無し草がお金を稼ぐのは大変なことなのだと、真の意味で理解したからだ。日々の糊口を凌ぐとはこういうことである。
だからこそ、唸る幼馴染を見やり、クレイオスはなんでもなさそうな語調で口を開いた。
「時間がかかりすぎるなら、もう革を売ってしまった方が――」
「まだ! まだよ! 他にも何かあるはずだもの! だからそれはまだダメ!」
タグサムから譲られた魔獣の革の売却。それだけは頑なに拒むアリーシャは、今回もまた顔をガバリと上げて、クレイオスの提案に拒否の声を上げる。
そんな少女に青年は肩を竦め――しかし、今回はそこで口を閉ざすことなく、珍しく言葉を続けた。
「だが、このままだと
「うっ……それは、そうなんだけど……」
クレイオスが突きつけたのは、昨日ディルに言われた提案だ。
この街での非ギルド員の稼ぎがこんなにも薄給であると知らなかった彼は、申し訳なさそうにしながら南カリオンを早々に発つことを提案したのだ。
王都であれば仕事は溢れかえっているだろうし、目的の
言ってしまえば、この街に無理に留まるメリットは完全にないのだ。
ディルが多少の金銭的援助を申し出るくらいには、稼ぎに関して絶望的なのである。無論、それはしっかり断ったが、彼の言うことが正しいのは確かだ。
残りの足りないお金を魔獣の革で埋めれば、様々な問題が解決する――しかし、それではアリーシャにとって本末転倒である。自分の『こだわり』からそれに反発した彼女は、もはや意地になっていた。
「こうなったら今のお金で渡航費を出して、あとのことは到着次第すぐに仕事を選ばず頑張れば一日分の宿代くらい稼げるはずだし、もうそうするしか――」
「…………まったく」
俯いて顎に手を当て、ぶつぶつと無茶苦茶なことを呟き始めた少女に、青年はため息を吐いた。
彼から見ても、彼女はだいぶお金のことで頭が回っていないように見えた。意固地になりすぎて冷静になれていない。
何がそこまで彼女を本気にさせてしまっているのか――どうしてかわからない理由に振り回されるのも馬鹿馬鹿しい、とクレイオスは首を横に振る。
故に本気で説得せんと、口下手な己にとって重課となる挑戦に臨むことを決めた。
クレイオスが頭をフル回転させ始めたところで――そこに割り込む声が、部屋へと滑り込む。
「なあ、二人とも、起きてるか?」
部屋の中の二人にかけられた声は、ここ数日で更に仲良くなったディルのものだった。扉の外からの声に、二人は思わず顔を見合わせる。
時間は、日没の鐘が鳴って夕食を食べてしばらく経っている頃だ。人によっては確かに寝ている時間である。
だが、二人が不思議に思ったのは、その声色。あまり余裕がなく、常の平静さがない。強いていうなれば、焦っている、と言ったところだろうか。
その様子に疑問に思いながらもクレイオスが「ああ」と返事しながら扉を開ければ、普段着の青年があまりよくない顔色で立っていた。
二人が起きている姿を見て、ディルは胸を撫でおろし、そしてすぐに「入らせてもらうぞ」と室内に入ってくる。
それを咎めることなく迎え入れれば、早速とばかりに赤茶髪の青年は口を開いた。
「いきなりすまない。どうしても聞きたいことが――いや、頼みたいことがあるんだ」
「どうしたのよ。とりあえず、そこに座って」
開口一番、頭を下げかねない勢いで切り出す彼に、アリーシャは銅貨を片付けながら即座に言葉を割り込ませた。ディルの行動の端々に焦りが滲んでいるを見て、とにかく彼女は一旦落ち着かせるべきだと判断したのだ。
クレイオスのベッドを指さし、落ち着くように宥める彼女に、ディルもはたと口を噤む。
それから自分の行動を自覚したのか、「……悪い」と決まり悪げに赤茶の頭をかき回しながら言われた通りにベッドに腰かけた。
一つ深呼吸し、二人の顔を順に見てから、ディルはゆっくりと話し出した。
「まず、そうだな――さっき、
「……なに?」
そんな彼からもたらされたのは、驚くべき情報。どう関わるべきか悩んでいた
調査が進められている、とは二人も把握していたが、僅か三日でそこまでわかるとは思っていなかった。
故にクレイオスとアリーシャが目を見開きながらも黙って先を促せば、ディルは一つずつ指を折りながら――自身を落ち着ける意味もあるのだろう――情報を話し出す。
「どうやら、俺たちが南カリオンに到着した次の日から、周辺の村と王都の方から魔物の報告が集まってきてたみたいでな。その報告された場所の偏りと直近の目撃情報から、だいたいの活動範囲を捕まえたらしいんだ。でも、実際に確かめたわけじゃないから、明日朝一番に斥候を出して探るっていう話になってる。それで、ここからが本題なんだけど――」
と、ディルはちらと二人を見やる。
彼の言葉から、ディルの頼みというものがだいたい読めたクレイオスは、黙って頷いて先を促した。
それに視線を落として申し訳なさそうにしながらも、青年は本題を切り出す。
「その斥候に、一緒に志願してほしい」
「……理由を聞いておくわ」
言葉と共に頭を下げる彼に、アリーシャは静かに問いかける。
無論、その理由も言わぬ無礼さに腹を立てているのではない。むしろ、普段ならそんなことをする彼ではないと知っているが故に、ディルの焦りの原因を知りたかったのだ。
頭を上げた彼は一瞬迷ったような表情を見せるも、しかしすぐに振り切ったかのように彼女の目を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。
「……その魔物の活動範囲と斥候の調査範囲に、俺たちが生まれ育ったキトゥラ村が入ってるんだ。被害報告も来たって聞いてる。だから、どうしても俺たちは村がどうなってるのか見に行きたい」
彼が語ったのは、故郷の危機。なるほど、確かに生まれ育った村が危ないと聞けば、常は気配りの上手い青年であっても焦り、不安になるだろう。
二人は彼の内心を推し量るも、しかし納得はしない。それだけでは、キトゥラ村に縁も
黙ったままの青年と少女に、ディルは静かに続ける。
「傭兵団の人から剣を学んで、野盗とも戦ってきた俺から見ても、二人は凄く強い。正直これ以上ないくらい頼りになる。だから、情けない話だけど――もし、俺たちの村が魔物に襲われていた時、二人には一緒に戦ってほしいんだ」
ディルが二人を求めた一番の理由は、両者の武力だった。
道中での魔物との戦いぶりを見て、そう思ったと口にはしているが――最たる根拠は、伝説上の化け物を前にしても冷静に対応した姿だ。
誰もが驚きと恐怖で身が竦んだ中、最速で動いたのはクレイオスとアリーシャだったのだから、それを頼もしく思うのも当然である。
魔物との交戦経験があり、かつ戦う力も十分以上にある――そんな人物は、確かに心強いに違いない。
彼が頭まで下げる理由を全て聞いた二人は、互いに視線を合わせる。
どうする? と互いに目線だけで尋ね、同時にこの話にお互いが違う感情を持っていることに気付いた。
クレイオスは肯定的に捉えていたが、アリーシャはどこか渋るような表情をしている。そしてその常盤の瞳が、貨幣を収めた革袋を一瞬見たのを捉え、クレイオスは思わず戸惑った。
彼女は今の話を聞いても、自分たちのお金の心配をしているのだ。それを非情と捉えるよりも、クレイオスとしては情深い彼女をして真っ先に心配させる『お金』という物に一種の畏怖を抱かざるを得ない。
事実として、アリーシャは一番に頷きたかった。だが、先ほどからずっと悩んでいた『お金』がそれを覆さんと心の中から鎌首をもたげてきたのだ。
彼の頼みに乗れば、その間はこの街で稼ぐこともできなくなるし、どれほどの間斥候として活動するのかわからない。先を急ぐほどの身ではないが、しかし革袋の中身が増えずに目減りするのは確かだ。
故に、一瞬迷う。そしてその一瞬の迷いをわかっていたかのように、ディルがさらに言葉を重ねる。
「……これは、二人にとっても悪い話じゃないと思う。斥候の募集は王都からの正式な依頼で、討伐ギルドが窓口になってるんだ。だから、無事やり遂げれば報酬も出るし、情報を持ち帰れば追加報酬もあるって聞いてる」
「えっ、本当? ……あ、ごめんなさい」
報酬があるという言葉を聞いて、アリーシャは思わず声を跳ね上げさせてしまう。即座に己の言動の現金さに気付いて、それを恥じて耳を赤くしながら謝るが、むしろディルは笑みを浮かべていた。
「いや、気にしなくていいぞ。むしろ、俺の分の報酬も君たちに渡そうと思ってる。こっちが頼んでる身なんだ、報酬を出すのは当たり前だよ」
「……それは、願ったり叶ったり、だが」
これはまさに降って湧いた最高の
クレイオスはこの案に乗るべきだ、と思いながらも言葉を濁したのは、その決定権を幼馴染に委ねたから。金銭の関わる話は随分前から彼女に丸投げしていたため、今回も思わずそうしてしまった。
そして、その彼女はほんの一瞬だけ悩んで、しかしすぐにディルの碧眼を真っ直ぐ見つめる。
「わかった、その話、乗るわ」
「ああ! ありがとう!」
その言葉に、ディルは本当に嬉しげな笑みを浮かべ、握手を求めて両手を差し出す。
対し、アリーシャは思わず苦い笑みを浮かべた。自身の背中を最後に押したのはお金、という無様極まりない理由に情けなさが込み上げてきたのだ。
それでもしっかりディルの握手を受け入れる。
外の世界を旅するのはこんなにも面倒なのか、と内心で何かに少しだけ失望しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます