第3章 旅立ちの時

13 神託

 太陽が沈みかける夕方。

 クレイオスが飛び出してから、暫く経った時分でもあった。

 そんな斜陽に照らされる村の入口で、取っ組み合う二人の男の姿がある。


「て、テンダルさん、も、戻りましょうっ!」

「はなせ! もう黙って待ってられるかっ! アリーを、アリーを助けないとッ!」


 痩身の男――まだ村に滞在していたメッグの制止するように肩を掴む手を、森番のテンダルが振り払うように暴れながら叫ぶ。

 彼が明らかに錯乱しかけているのも無理はない。クレイオスに最愛の娘を託すことで、村長宅に断腸の思いで留まっていたのだが、先ほどついに我慢できなくなったのだ。それは、先刻の村を襲った大地テラリアルの怒り――地震を受けて、不安が最高潮に達した故の行動だった。

 それを、テンダルの商人時代の弟子であったメッグが慌てて追いかけ、現在に至る。

 暴れる小太りの中年を、痩身の男が羽交い絞めにして引っ張り戻そうとしている最中だった。

 メッグが必死の思いで考えを改めるようにと叫ぶ。


「あなたなんかじゃどうにもなんないですよ! 大人しく村で待っていましょう!?」

「うるさい! クレイオスだって戻ってこれていないんだ、だったら、だったら私が――ッ!」

「よけいあなたじゃ何もできやしませんよ!」


 元商人でしかないテンダルでは、森の歩き方すら知らない。それを知る商人メッグは彼を必死に止めんとするも、痩せぎすの彼ではずるずると引きずられるだけだった。

 そうして取っ組み合いをしながら村の外までやってきてしまう二人だが、不意にテンダルが立ち止まることでそれは終わりを迎えた。

 突然の静止を不思議に思ったメッグが、呆然と佇むテンダルの視線を追いかける。その先にあるのは森の奥――しかし、木々の隙間から漏れる夕日の光に照らされて、人影が見えたのだ。

 しかも、男が、線の細い女性を抱えて歩いてきている。

 どちらが誰であるかなど、論ずるまでもない。村人皆が待ち望んだ青年が帰ってきたのだ。


「くっ、クレイオ――ッ!?」


 ゆったりとした速度で向かってくる青年に、勢いよく駆け出して近づくテンダル。それを追いかけたメッグは、しかし直後に絶句しながら立ち止まった彼の背中に激突した。

 文句を言いながらテンダルと同じようにクレイオスを見て、そして彼も言葉を失う。

 いっそ緩慢に思えるほどの速度で歩いてくるのは、確かにクレイオスだ。その両腕に抱えられて、意識を失っているのもアリーシャ。彼女は小さな擦り傷なんかは置いておけば、無傷である。

 しかし、青年の方はそうでなかった。

 身に纏う革衣は原型を完全に失っていて、全身は皮を引き剝がされたかのように血に染まっている。おまけに至る所に筋肉が露出するほどの裂傷が迸っていて、おびただしい量の血を零しているのだ。歩むたびに水っぽい音が跳ね、彼の歩いた後ろは血の道さえ出来上がっている。

 生きているのが不思議なくらいの大怪我のくせして、血に塗れた面貌はいつも通りで力強い。むしろ、翡翠の瞳はこれまで以上に爛々と輝いている気がして、いっそ不気味だった。

 そんな彼を見て、メッグが腰を抜かして尻もちをつく。


「ひ、ヒッ……」


 喉を締めあげられたかのようなか細い悲鳴を漏らし、後退りする弟子を置いて、テンダルはゆっくりと彼に歩み寄る。


「クレイオス……だな?」

「――テンダル、か」


 森番が目の前に立って声をかけてから、翡翠の瞳がようやく彼を捉えたかようにゆるゆると動く。平気そうな顔の割に、声はひどく掠れていて低く、冥府からの死者の呻き声のようだった。

 その声にさらに怯えるメッグなど見えていないようで、クレイオスはそっと、両腕のアリーシャをテンダルに向けて伸ばした。


「アリーを――助けて、きたぞ」

「――っ、クレイオス!」


 薄い笑みと共に呟かれた言葉に、テンダルが目を見開きながらアリーシャを受け取るのと同時。

 クレイオスが、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


 テンダルが叫ぶように何度も彼の名を呼びかけようと、その日、彼が目覚めることはなかった。







 再び、白くて、淡くて、鈍い世界にぼんやりとたゆたう。

 今度は以前よりずっと意識が明瞭で、この場の存在自体に対して疑問を思い浮かべられるほどだ。

 ここは、死の淵とやらなのだろうか――と、ぼんやりとクレイオスは考える。

 かの巨蛇を打ち斃した後、クレイオスの全身から噴き出す炎はアリーシャを村へと運ぶ途上で不意に消えてしまった。

 その後は身体が鉛のように重くなり、炎で塞いでいた傷は全て開いてしまって、筆舌に尽くしがたい激痛を堪えながらクレイオスは村に向かって歩いた。そして朦朧とする意識の中で、どうにかテンダルにアリーシャを預けたところまでは覚えている。

 その後、気が付けば、掴みどころのない感覚に包まれた意識の中、クレイオスは白い世界にこうしてたゆたっていた。

 以前と今回の共通点と言えば、やはり瀕死の身体であろうか。体の中の血という血を全て流し尽したと思えるほど、赤色でびしょ濡れになっていたのだし、あれでは流石に頑丈な己でも死んだだろう、とクレイオスは他人のことのように考えていた。

 前回は、未だアリーシャをテンダルの許まで連れていけていなかったため、自己の死に抗いを見せたが、現在はそれを達成した後。皆のことは気にかかるが、しかしクレイオスはこれ以上なく満足していた。

 このまま死神モールスの管理する冥府に連れていかれるなら、それでもよいと思っているほどだ。

 だが、それを否定する声が聞こえる。


『――大丈夫、あなたは死にませんよ。クレイオス』

「…………」


 以前にも聞いた、女の声だ。あの時限定の、己を奮い立たせる奇跡の声かと思っていたが、どうにもそうではないらしい、とクレイオスはより明瞭になった意識で考える。

 それに応えるように、声は微かに笑う気配を見せた。


『ふふ、ええ。私は確かに存在していて、あなたに話しかけていますよ』


 おまけに、思考まで聞き取る存在であるらしい。

 となれば、この空間自体のことはよくわからないが――クレイオスは、弾けるようにこの声の正体を理解する。


 きっとこれは、神の御声だ、と。


 そしてそれを、声は肯定した。


『よくわかりましたね、クレイオス。確かに私は神族デウスの一人――天界から、貴方の夢幻の世界に語り掛けています』


 打ち明けられた言葉に、クレイオスは少しの驚きと共に納得する。

 アリーシャにかつて聞いたところによれば、高位の司祭の夢――夢幻の世界の中に、信奉する神が語り掛けてくることがあるのだという。

 自分がそこまで敬虔な信者であったという自覚はないが、しかし今この現状が決してあり得ないものではないという証左にはなる。

 畏れ多くも神から語り掛けられる奇跡――平伏して感謝を捧げたいところだが、あいにく肉体というものを感じ取れないので、クレイオスはその意識だけを密にした。

 同時に、己などに話しかける神はいったい誰であろうか、と疑問にも思う。

 現在の天界には多くの神族デウスが存在するらしいが、その中でも現世――大地テラリアルの住民たるクレイオスの夢に干渉できるほど強力な力を持つのは、『全ての母神テラリア』と最も濃い関係性を持つ『テラリア十四柱』のうち誰かであろう。

 そんな彼らは現在を以てこの大地テラリアルで最も信奉される神々であり、殊更ことさら偉大で尊い存在。そんな神の一柱がこうして、ただの狩人でしかなかったクレイオスに話しかけるなど、尋常の話ではない。

 否、ただの狩人などではないか――と巨蛇との死闘を思い出して、己の認識を否定した。

 意識の中で苦さを滲ませる青年に、声は静かに語り掛ける。


『……今は、私が誰であるかというのは置いておきましょう。ともあれ、貴方が『特別な存在』であるのは事実。故に、私は貴方に語り掛け、その目覚めを促しました。かの邪龍に勝利するには、そうしなければなりませんでしたから――』


 邪龍。

 その言葉を聞き、僅かに困惑して、そしてクレイオスはそれが巨蛇を指していることを察した。

 邪龍など、それこそ寝物語の神話に語られる魔物モンストルムの代表格。多くの神々に害を為したおぞましい存在だ。

 そんなものを自分は相手にしていたのか、というクレイオスの驚愕に、声は肯定する。


『ええ。かの邪龍――アッロガーンスは我ら神々も手を焼いた存在でした。どうにか封じ、二度と出てこられぬよう大地の奥底に閉じ込めたのですが、どうやら長い歳月は封印を脆くしてしまっていたようです。それを運悪く見つけてしまった土人族ヒューマンの子らが壊してしまい、今回の悲劇に至りました』


 声からは悲しみの念が感じ取れた。神の慈愛を感じさせる死への追悼が確かにそこにあることに、クレイオスは少しの驚きを抱く。

 神からすれば、この大地テラリアルの上で一番多い土人族ヒューマンの十や二十が消えたところで関係ないはずだ――と、勝手な印象を抱いていたのだ。確かにそう思っている神々も居るだろうが、しかし全てではないということをクレイオスは理解する。

 そんな彼の感嘆を感じ取ったか、おかしそうに神の声は笑いを漏らした。しかし、すぐ気を取り直すように言葉を続ける。


『ですが、あなたが居てくれてよかった。さらなる悲劇につながる前に、かの邪龍を屠ることができたのですから』


 そう語る声に、クレイオスは喜ぶことなく――己への困惑のみを抱いた。

 あの双頭の巨蛇は、神々が屠ることができず、封印するにとどめた怪物だという。


 ならば、ならば――それを屠った己は何者なのか、と。


 そんな、己に対する恐怖にも似た疑問が、クレイオスの内側に生じつつあった。否、あの不可思議な炎を発現したその時から、この疑問は存在していたが、目の前の戦いに必死だった故に無視していたのだ。

 だが、今、目の前にクレイオスを『特別な存在』と称し、この疑問に答えてくれるであろう存在が居る。故に、クレイオスは問いかけずにはいられなかった。

 俺は何者なんだ、と。

 そして青年の期待通り、声は穏やかさを湛えたまま答える。


『応えましょう、クレイオス。まず、貴方の身を包み、貴方を神々を超える領域まで高めた炎は、我ら神族デウスの怒りの具象――『神の憤怒デウス・イーラ』です』


 ――待ってくれ。それは、それでは、俺がまるで……。


『その通り。貴方には、父が居ませんでしたね。村の誰もが知らぬ父。それも当然でしょう。だって――貴方の父は、神なのですから』


 その言葉に、計り知れぬ衝撃がクレイオスの漠然たる意識を襲った。頭部を鉄鎚で思い切り殴り飛ばされたかのような感覚に、ともすれば遠のきかねない意識を必死に留める。

 それほどまでに、己の出自は衝撃的であった。当然だろう、己が神の子であるなど、微塵も考えたことなどなかった。

 あり得ないと否定したいが、しかしこれは神の言葉。嘘偽りはあり得ず、そもそもそれに納得している己が居るのだ。

 齢十にして、村の誰よりも強くなっていた力。乳母も必要とせずに頑強に育ったこの肉体。そして、邪龍を打ち斃す力を与える、紅蓮の炎。

 これでは、戦神ベルムの加護があるなどとうそぶくよりも、むしろ、神の子であると言われた方が簡単に納得できるではないか。

 そんな苦い理解と共に思考を固まらせるクレイオスに、声は優しく言葉を続ける。


『神に愛された女性から生まれたのが、貴方――半神半人アモルデウスです。神の血を引くが故に、神の憤怒デウス・イーラを発現できた。そしてそのおかげで、大事な少女を助け出せた。ただ、その事実を受け入れなさい』


 優しい物言いだが、その実、クレイオスを突き放すような言葉だ。

 だが、この女神と思われる声の言う通り。

 己が半神半人アモルデウスであったから、そのおかげでアリーシャを助け出すことができた。

 それだけではない。

 力が強いおかげで村の様々な場面で役に立てたし、頑丈な体のおかげで厳しい冬も村の皆の代わりに思い切り働くことができただろう。

 子供のころの、大人から向けられる視線の孤独は確かにあったが、それもアリーシャのおかげで大して気にすることもなかった。唯一、どうしようもない母の愛情は存在していなかったが、代わりに決して受けられないはずの父の愛情を、祖父タグサムが与えてくれたではないか。

 そう思えば、己の出生の真実もさしたるものではない。驚きはするが、それ以上に良い事はあったのだから。

 そのように結論付けるクレイオスの思考を読み取ったのか、声に微笑の気配が混じる。


『それでこそです、クレイオス。――さて、本題に入りましょう』


 ――本題?


『ええ。貴方に真実を告げる目的もありましたが、それ以上に貴方にはやってもらわなければならないことがあるのです。その為に、今回は貴方の夢幻に干渉させていただきました』


 やってもらわなければならないこと。

 神の言葉に、僅かにクレイオスは緊張する。それはつまり、神官の言葉に言い換えるならば、神託オーラクルムだ。

 神から言い渡される使命、或は試練とも称されるソレ。いずれにせよ、偉大なる難事であるのに変わりない。

 だが、同時に疑問も生ずる。それこそ、かの邪龍を斃すことこそ神託オーラクルムに相応しい。だが、既にそれは成し遂げられた後だ。ならば、これから言い渡されることとは一体――?

 その疑問は聞こえているだろうに、応えを返さず声は言葉を続ける。


『――かの邪龍の骸が転がる洞穴にて、神の槍とそれを揮う為の篭手こてを回収したのち大地テラリアルの北を目指しなさい。そして、最果ての北地ポストレームムの中心に、神の槍を突き立てるのです。それが、貴方の為すべき使命です』


 そうして名も知らぬ神が告げたのは、慮外の使命。

 大陸テラリアルの北、最果ての北地ポストレームム――このセルペンス山、否、ノードゥス国どころか、いや、マルゴー山脈の内側にさえ収まらない世界の話だ。

 このカーマソス村しか人の営みを知らぬ青年に、より広い、想像もつかぬ広い世界を越えていけと言う。

 そのことに完全に思考を停止させるクレイオスに、やや柔らかくなった声が美しい笑い声と共に語り掛けた。


『ふふ、突然のことに驚いているのですね。それも仕方のないこと。ですが、これは、危急の話ではありません。一年か、二年か、果ては十年――貴方の生きている間に、いずれ完遂すべき使命であるだけ。全てを終わらせるのは、存分に今の生活を楽しんだ後でいいのですから』


 そんな、悠長な話でいいのか、と僅かな驚きと共にクレイオスは問いかける。

 思わず不敬な物言いになったことに青年が後から少しだけ焦るも、神は気を害した風もなく上機嫌な声で答えを返した。


『ええ。これはただ、我らの都合でこの大地に産み落とされた貴方に、この大地の在りようを見て、豊かな人生を送ってほしい。そんな願いから発せられたものでしかないのですから』


 その神の声には、確かに慈愛とも言うべき愛に富んだ優しい物が含まれていた。

 こうして神託という形を与えることで、大地テラリアルを見る機会を作らんとしてくれているのだ。

 そのことが、クレイオスの心に静かな波紋を広げた。

 これまで、思いもしなかった遠い世界。それを、神託という大義名分を得ることで見に行くことができる。

 少し前までなら、もしかすると不敬を承知で断っていたやもしれない。だが宴の夜にマヌスと交わした会話によって、クレイオスの心中には変化が生じていた。

 見てみたいのだ、遠い世界を。見たこともない景色を、人々を。この目に収めてもいいと、言ってくれているのだ。

 ならば、是非もない。元より神の御言葉、無視なんてできないから仕方ない・・・・のだ。

 沸き立つ興奮と喜びを感情に浮かべ、クレイオスは感謝の念を告げる。


 ――ありがとう、ございます。


『――さあ、ならば、そろそろ目覚める時です。そろそろ貴方の傷も癒えているころでしょう。貴方の『神の憤怒デウス・イーラ』は少々負担が大きいようですので、少し時間がかかってしまいましたが、もう充分です。愛する人々を安心させてあげなさい』


 女神の声に、クレイオスは少しの疑問を抱く。

 時間がかかった、とはどういうことだろうか。この神様との会話も、たった十数分程度でしかないだろうに。

 だが、その問いに女神の声が答えるよりも早く、意識が浮上していく感覚が意識を包み込む。覚醒するのだ、と思ったときには、もう、女神の声は聞こえなくなっていた。


『ですが……誰しもに祝福されて、旅立てることにはならないかも、しれませんね――』

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