第2章 神喰らう巨蛇

06 変化する環境

 ヘイムルの魔獣化から始まった『ウェアウルフ事件』は、その発端であるライカンスロープが狩られることで終息を見せた。

 以降、三日間の警戒の後、脅威は去ったと判断したカマッサの宣言で村人たちは自分の家に帰され、その晩、亡くなったヘイムル、ウラナ、トリーの一家の死を悼んだ。死神モールスに彼らの魂が安穏を迎えることを祈り捧げ、彼ら農夫の作ったいくばくかの作物と共に死体は村はずれの墓地に埋葬されたのだった。

 その後七日間いっしゅうかん、喪に伏した村人たちは、その翌日を迎えるのと共に悲しさを振り払うべく、笑顔と共に己らの仕事にとりかかることだろう。




 そんな日の明朝、早くに目覚めたクレイオスは、村人の誰もがまだ寝ている時間に固いベッドから身を起こした。太陽神ソールの太陽は未だ地平に引っかかっており、この村はまだ暗さを抱いている。

 だが、これだけ早く起きるのももはやクレイオスにとっては毎朝のことだ。まだ意識は浮ついたようにハッキリとはしていないが、起き出した身体は迷うことなく家の外へと向かう。

 祖父を起こさぬよう音もなく家の外に出ると、傍の小川で軽く顔を洗って眠気を完全に振り払った。そうしてから、日課である柔軟運動を始めるべく、身体のあちこちを伸ばし始める。

 屈伸に始まり、肩を解きほぐし、その後に天へ伸びる動きで脇腹を伸ばす。足を開いてアキレス腱を伸ばしながら手首を回し、下半身と両腕のストレスを丁寧かつ慎重に解消していった。

 それから地面に座り込み、前屈で腰と背中の柔軟性を確かめる。毎朝の日課は、既に開脚したまま彼の胸板が地面に触れるほどに身体を柔らかくしており、そのおかげで常に狩りにおいて最高のパフォーマンスを発揮できていた。

 急がず、ゆっくり念入りにストレッチする青年。それは全身から流す汗で地面にたっぷりの染みを作るまで行われ、俄かに村が起き出して活気を得始めるとようやく終了となる。

 汗まみれになる為に、上衣を脱いで屈強な上半身を露わにしていたクレイオスは、村の誰かに見られぬうちにそそくさと小川に飛び込んで水浴びを始めた。

 以前幼馴染に見られた上に全力の矢を射かけられて以来、一応下着は着けたままだが、それでも男神の彫像のような美麗なる筋肉を纏ったクレイオスの身体は、老女ウッドナールをして目に毒だ。夫を持つ村の女たちが、うっかりクレイオスの水浴び姿を見てしまう度にどれだけ心臓を不意打ちされたか。

 まだ彼が子供という認識があった故に邪念は払われていたが、最近のクレイオスはより男性的魅力を放つようになっている。

 その美の危険性を察知した幼馴染アリーシャに、身を隠して水浴びするよう口うるさく言われたため、こうしてクレイオスは理由もわからぬまま人目を避けるように身を清めていた。

 そうして水浴びを終えたクレイオスは、裏手に乾かしてある布で身体にまとわりつく水滴を素早くふき取り、新しい下着を身に纏ってから下衣と上衣を着て家に戻る。

 この時間になれば祖父のタグサムも起き出しており、やってきたクレイオスにちらと視線を向けてから手元の分厚い本に目を戻した。村で唯一書物を持っているテンダルに借りている本らしく、朝食を食べるまでの時間はずっとこれを読んでいるのだ。

 元商人のテンダルとその娘アリーシャ、そして村長のカマッサ以外に、この村で字を読めるのは、意外にもこの元狩人であるタグサムだけだ。過去にどういった遍歴で字を学ぶに至ったかクレイオスに教えてはくれないが、この読書の時間は厳めしい祖父にとって至福の時間であることを孫は知っている。

 朝食を食べた後の時間はずっと皮をなめす作業に費やされるため、他に読む時間がないためだ。だから、この朝は貴重なのである。

 そんな祖父の為、クレイオスは台所に向かい、朝食をゆっくり作り始めた。

 木炭に火を熾し、その上の水をたっぷり溜めた鍋が温まるのを待って、先日の保存していた熊肉に加え、農夫たちに肉と交換で譲ってもらったたくさんの野菜を適当に切り分けて落とす。火力を高めてぐつぐつと煮詰まるのを待ち、森で手に入る香草類で祖父好みの濃い目の味に調えたら、今日の昼と夜にも食べるスープはできあがりだ。

 よそった皿にカチカチのパンを添えれば、これで朝食の完成である。顎の弱い祖父の分のパンは、先にスープに浸けておくことでどうにか柔らかくしておいた。

 ほかの村人が畑仕事などに出かける中、ようやく二人は朝食を食べ始める。別段まずくもなく、これ以上旨いものは新鮮な焼肉しか知らないクレイオスとタグサムは、黙々と手を動かして食べ続けていった。

 クレイオスとタグサムの朝は、いつもこんなものである。


 しかし、今日は少しだけ事情が違う。

 食べ終えてしまえば、大した雑談もしない寡黙な男二人は、そのまま自身の仕事にそれぞれ向かうのだが、今日は皿を片付けるクレイオスの背にタグサムが声をかけたのだ。


「おい、クレイオス」

「どうした、祖父じいさん」


 常にない行動に、木皿を手に持ったままクレイオスが思わず振り返る。タグサムは本をテーブルに置いて杖を突いて立ち上がるところであり、そのまま彼に話を続けた。


「今日、メッグが来るらしい。狩りはやめて、売りつける革の選別と荷運びを手伝いな」

「今日だったか。わかった」


 タグサムの言葉に、クレイオスは納得を見せて首肯する。祖父の言うメッグとは、この村に訪れる商人のことだ。唯一の外界との接点と言っても過言ではない。

 彼は何か月かに一度、この村を訪れ、肉や革、作物などを貴重な鉄器や手に入りにくい衣類などと交換してくれる人物だ。本来なら貨幣でやりとりするらしいが、それらを一切必要としないこの閉じたカーマソス村では村人がそれぞれ生業としている物で交換することになっている。

 その為、元商人のテンダルによればだいぶ足元を見られているようだが、それでも貴重な外界の道具や衣類が手に入ることに比べれば些事だろう。

 そんな商人メッグとの商談の為、今回クレイオスは駆り出されることとなった。

 革は存外に重いもの。いくら老齢に見合わず鍛えこんでいるタグサムとはいえ、十枚強を一度に持ち上げることはできない。対し、それらを片手で肩に担いで持ち上げられるクレイオスは実に優秀な荷車代わりだった。

 先日の魔獣と猪で、村には充分な保存肉――魔獣の保存肉はまずいが食糧は食糧――が行き渡っている。故に今日の狩りはなしでいいだろう、とクレイオスは文句もなくタグサムを伴って隣の作業小屋に向かうのだった。







 そして、太陽が天頂に差し掛かる昼頃。

 女神像のある中央広場には、商人を待つ村人たちが村長カマッサの前に集まっていた。

 基本的に商人との商談はカマッサとテンダルが行い、その為の交換品は村長の下に一旦集められることになっている。その時に、村人は欲しいものをカマッサに伝えておくのだ。それが手に入るかどうかはわからないところだが、カマッサは多めに交換品を献上したところの要望を優先的に叶えてくれる男の為、今回タグサムは多めの革をクレイオスに持たせて順番を待っていた。

 ほしいのは、皮を切るナイフと先日刃こぼれが酷くて使い物にならなくなった肉切り包丁などだ。手入れのできる人間の居ないカーマソス村では鉄器は結構な貴重品であり、しかもどちらも仕事の上で大事な道具だから商人メッグには直談判してでも交換してもらう腹積もりらしい。

 尤も、タグサムの作る革はテンダルも太鼓判を押すほどの優良品であるため、そこまでしなくても気のいいあの商人は交換してくれるだろう、とクレイオスは考えている。

 一方、クレイオスは特に欲しいものもなく、商人が来てから考えようと思っていた。

 当然ながら、カマッサに全ての商談を任せきりにすることはなく、メッグが滞在する三日間、村人は自由に開示された商品を見れる。その間に、あとから欲しくなったものは個人的に取引できるのだ。

 クレイオスの横で特に意味もなく列に並ぶアリーシャも同じ考えであり、年頃の娘は期待を募らせるように願望を口にした。


「きれいな貝殻の髪飾りとかないかしら。前来たときは、手持ちがなかったせいで綺麗な藍色の髪紐が買えなかったのよね」

「髪飾りか。そのままでも十分じゃないか? 狩りの時に落とすかもしれないぞ」


 口を尖らせるアリーシャに、青年は己の危惧を口にした。

 そんな頓珍漢な返答にやや呆けた表情で呆れつつ、少女は緩く首を横に振る。


「クレイオスったら分かってないわね。狩りの時につけてくわけないじゃない」

「じゃあ、いつつけるんだ? つけないものを手に入れても埃がかぶるだけだぞ」

「……ほんと、狩りのことしか頭にないのね」


 実に鈍い返答をするクレイオスに、アリーシャはついに嘆息をこぼした。この青年はいつでもどこでも、狩りを基準にして考えるちょっと真面目過ぎる狩人なのだ。

 それでも同じ年頃で話ができる相手はクレイオスしかいない。なので、アリーシャはぽつぽつと服や装飾品の希望を述べ、それに返してくるクレイオスのズレた返事を聞き流しながら時間を過ごすのだった。


 やがて最後尾に居たクレイオスが祖父の希望と革をカマッサに渡したところで、二人の狩人の聴覚は蹄の足音と軋みを上げる荷車の車輪の音を聞きつける。

 顔をあげて村の入口の方を見やれば、テンダルと談笑しながらやってくる派手な服装をした瘦身の男の姿を視界に捉えた。

 クレイオスの動きに合わせ、商人メッグの来訪に気付いた村人たちが、手を叩いて口々の歓迎の言葉で出迎える。

 それに笑顔で手を振り返すテンダルと赤い服装に身を包んだ商人メッグの後ろからは、荷馬車が二つ、計四頭の馬に牽かれてやってきていた。それが今回の商品が積まれた荷であるのは、カーマソス村の人間にはすぐにわかることだった。


「やあやあ! カーマソス村の皆さん! お元気そうでなによりだ!」


 広場まで到着したメッグは、痩身の割によく通る声で挨拶を述べる。

 毎回の訪問時と変わらぬ口上だが、一方でクレイオスは荷馬車の後ろからやってくる見慣れない一団を見つけていた。

 それは、数人の武具を纏った若い男たちと、彼らに囲まれた壮年の男たちである。壮年のほうもまた鋸や鎚などを腰に引っかけており、どちらも商人が率いるにはどうにも物々しい装いだ。

 商人を歓迎していたカマッサもそれに気づいたのか、目の前のメッグに問いかける。


「いらっしゃいメッグさん。ところで、後ろの方々は? 見慣れない人のようですが……」

「ああ、今テンダル師匠にもお教えしていたところなんですがね。彼ら、セクメレル伯に派遣された開拓夫の方々ですよ」

「開拓……?」


 聞きなれない言葉にカマッサが思わず怪訝な顔で反復すると、我が意得たりとばかりに喋り好きのメッグがさらに続ける。


「ええ、そうです。一応そこのセルペンス山も、ここカーマソス村もセクメレル伯の領地の一部でございましょう? しかしながら、そこのセルペンス山はまったく人の手が入っておらず、これでは資源の放置であるとセクメレル伯は考えなさったわけで。なので、今回セルペンス山を調査し、鉱物資源などがあれば開拓しようと彼らを私につけなさったんです」

「は、はぁ……ということは、今回メッグさんはそのことを伝えるためにも来たわけですね?」

「そうです! 別にセクメレル伯に命ぜられたわけではありませんが、流石にカーマソス村の方に無言で行うのもどうかと考えましてね。顔見せしまして、そしてできれば寝泊まりする場所もどうにか提供していただきたいのです。あとは、山に関する情報もお教えいただければセクメレル伯も大いに感謝なさるかと」


 と、メッグのよく回る口で説明されるカマッサだが、始めから否やの声を上げられるはずもなく、苦笑いと共に「ええ、もちろん構いませんとも」と返した。

 元より、ここはセクレメル伯の所有する領地の一つで、そもそもの初代村長カーマソスは昔の領主に許可を得て打ち立てられた村だ。

 そんな村の人間が、セクメレル伯の決定に意見できるわけもなく、こうして事後報告となるのは当然で、それに協力するのも義務である。むしろ、伯の村への覚えをよくするチャンスとも言える。

 一も二もなく協力を約束するカマッサは、ならばとばかりに周囲に視線を走らせる。

 そして、とっとと荷馬車の商品を見に行こうかと離れようとしていたクレイオスに、村長は呼び掛けた。


「ああ、クレイオス。君ならセルペンス山も多少詳しいだろう? 知ってることは教えてあげてくれないか」

「む……わかった。メッグ、俺は言葉で説明するのが苦手だ。だから、あいつらを案内させてもらうが、いいか?」

「クレイオス君か。君なら安心して任せられるね。ぜひ頼ませてもらうよ」


 情報を提供する役割を頼まれたクレイオスだが、村長の頼みともなれば断る理由もない。メッグに挨拶すれば、以前から狩人として知られていた故に笑顔で送り出された。

 それを背に一団に向かうと、所在なさげに村人を眺める彼らは胡乱気な視線をクレイオスに向ける。

 そんな彼らに、青年は臆することなく進み出て手短に挨拶をした。


「メッグと村長から、お前たちにセルペンス山について説明と案内をするよう頼まれた。狩人のクレイオスだ」

「ほう、案内までしてくれるのか、それは助かる。俺は護衛隊長のマヌスだ」

「……狩人ならば、色々詳しかろうな。俺は開拓夫のリーダーのテルバンだ」


 クレイオスの言葉に、武装したブロンドの髪の若者と一番年上であろう茶髪の壮年の男がそれぞれ表情を一転させ、喜色を浮かべて手を差し出してくる。

 その意味が分からず、クレイオスはじっと見つめて動きを止める。その様子に、青年の心情をすぐにくみ取ったマヌスは「ああ、知らないのか」と苦笑いを浮かべた。


「握手、って言ってな。山の向こうじゃ、互いの右手を握りあうことで『よろしく』って意味を示すんだ」

「そうなのか。知らなかったな」

「おうよ。んじゃ、改めて――痛でででッ!?」


 マヌスの説明に理解を示したクレイオスに、テルバンが改めて手を差し出し――握手を返したクレイオスの握りつぶさんばかりの握力に苦悶の声を上げた。

 思わず手を離すクレイオスに、テルバンが顔を真っ赤にしながら手を振り回す。相当痛かったらしく、赤い手に息まで吹きかける始末だ。

 そんな彼に、マヌスは冗談だと思ったか、笑い声をあげて茶化す。


「テルバンさん、大げさだなぁ。あんたの握力のがよっぽどだろ」

「いやいやいや、この兄ちゃんとんでもないぞ……」

「ほーう? ま、とりあえずよろし――いッッッ!?」


 涙まで浮かべて痛がるテルバンを笑い飛ばしたマヌスは、そのまま壮年と同じ末路を辿ったのだった。

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