第1部 悪鬼跳梁血戦
第1章 初めての世界
16 広い大地
不可思議な現象を前にしつつも、お互い何かを言うことなく二人は洞穴を出た。クレイオスの右手には黄金の篭手があり、かつて手製の槍が収まっていた背中には白銀の神槍がある。
それを面白くなさそうに見ていたアリーシャだが、今は問うことよりも進むことを選択したらしい。
二人は、日も昇り明るくなり始めたセルペンス山を、一息に登っていく。
森だけでなく、山でも狩りをしていた二人にとって、如何な急斜面であろうと平地の如くすいすいと通り抜けられる。
当然、あっという間に急な山肌を乗り越えて尾根に到達し、それから昼過ぎにはもう山の麓まで降りてしまっていた。
大した苦労も感慨もなく――二人は、今まで閉じていた世界を抜け出したのである。
これまで何もしてこなかったのが馬鹿馬鹿しいほど、こうしてあっさりと世界は広くなった。
麓まで降りて、ようやくクレイオスは顔を上げて眼下に広がる景色を見る。
そこにあるのはベスチャ村であろう集落と、その向こうに広がる広大な緑の平原。あれが、メッグなどに時折聞かされたセクメレル領の広大な牧草地なのだろう、と見当をつける。
広がる丘陵地帯はなだらかに膨らんでいて、その向こうにあるであろう大きな街や海を見せてはくれない。しかし、それ故に想像力がその向こうに広がる世界を思い浮かべさせ、クレイオスは己の胸の内に新しい鮮やかな風が吹き込んだのを感じた。
それはアリーシャも同じようで、「わぁ……」という小さな感嘆の声を漏らし、何もない緑の牧草地を眺めている。
暫時、そうして無言のまま感動に耽っていた二人だが、やにわに目を合わせると、言葉もなく麓から平原地帯へと足を踏み出した。
革靴の裏に感じる地面の感触。別段、先ほどまでのソレと何が違うのかと問われれば何も答えられないのだが、何かが変わった感じがする。それほどまで、二人はこの一歩に大きな意味を感じていた。
自然と笑顔を咲かせるアリーシャと、薄い笑みを浮かべるクレイオス。
旅はまだまだ始まったばかりながら、二人は大いに楽しみを見出しはじめていた。
✻
ベスチャ村。
セルペンス山の麓に位置する村で、基本的に周囲に広げている農地の作物を糧に生活している。だが、主にセクメレル領を遊牧する家畜と牧夫、商人の一団を迎えることでも生計を立てており、カーマソス村にはない酒場や宿などがある少しばかり大きな村だ。
よほど東や西に行きすぎたりしなければ、セルペンス山から下りてくれば一番に目につく村であり、必ず通ることになる。
当然、クレイオスとアリーシャの二人も、まっすぐ歩いてこのベスチャ村に足を踏み入れていた。
カーマソス村ほど害獣の侵入も少ないのか、立派な柵や明確な入口は見当たらず、主要な通りの始まりと終わりが村の出入り口という様子だった。
二人もとりあえずはそこから村に入り、活気づく村を物珍しげに見ながら歩いていく。一方の村人たちは、二人旅の男女など珍しくもないようで、視線を一度くれるだけで興味も示さなかった。
それに、村人たちは旅人が行くであろう場所がわかっていた。太陽が真上に座す、現在のような休憩時ならば、旅人はだいたい村一番の酒場兼食事処に行くからだ。
実際に、二人が最初に目についたのは、村の真ん中にある広場の一画にあるひときわ大きな建物。カーマソス村の
そんな建物の中は、村人や旅人、商人などで繁盛していた。その人の数はカーマソス村出身の二人にとっては実に驚くべきものであり、事実、クレイオスが珍しげに覗き込もうとしたほど。しかしすぐにアリーシャに肩を叩かれ、諦めていた。
そうして二人は、酒場に入ることもなく広場を通り過ぎる。途中、広場に広げられていた村人の露店から焼きたてのパンと干し肉を少しだけ買ったが、それだけ。
クレイオスとアリーシャは特に何かをすることもなく、このベスチャ村を通り過ぎたのだった。
村を出て少しして、クレイオスがアリーシャに話しかける。
「……あそこで少し休んでもよかったんじゃないか?」
物珍しい外の世界を見ていたかった、という内心が表情に書いてあるクレイオスを見て、アリーシャは嘆息する。彼女も気持ちは一緒だったが、それよりも優先すべきことがあったからだ。
「あそこはね、メッグが必ず立ち寄る場所なの。もし、メッグが今日の朝にカーマソス村を出発してたら、たぶん私たちがベスチャ村でゆっくりしてる間にここに来ちゃうかもしれないのよ」
「それがどうしたんだ」
「……アイツ、クレイオスの顔見たら、またイヤなこと言い触らしかねないわ。それで何も知らないような連中に、妙な目であなたが見られるなんて、私イヤよ」
渋面を浮かべながらも明かした彼女の考えは、幼馴染への気遣いだった。
万が一、メッグと鉢合わせでもしたら、カーマソス村での出来事が再来しかねない――それを危惧し、彼女はベスチャ村を早々に通り過ぎたのだ。
そんな彼女の思いを理解したクレイオスは、薄い笑みと共に小さく感謝の言葉を述べる。それが聞こえているであろうアリーシャはぷいと顔をあらぬ方向へそらしたが、その白いはずの耳は朱色に染まっていた。
少女のつれない様子にクレイオスは苦笑を浮かべて肩を竦め、気を取り直して背負い袋の中の焼きたてのパンと干し肉を引っぱり出して食べ始める。先ほど買ったものは、こうして歩きながら食べられる昼食であった。
アリーシャも少ししてからそれに倣い、二人して硬いパンを齧りながら広い牧草地を歩いていく。
一つ目の丘陵を登れば、目の前には更にもう一つの丘陵がなだらかに膨らんでいるのを見て、いくつかこうした山と谷を繰り返す平原が伸びているのだと二人は把握した。
右手の遠くに見える、羊の群れを牧羊犬と共に追い立てている牧夫の様子を見ながら、口の中のものを呑み込んだアリーシャがクレイオスに問いかける。
「ねえ、クレイオス。どうして村を出たの?」
「今更聞くのか?」
「だって、最初は村の人たちの態度に傷ついたからだと思ってたんだもの。でも、違うんでしょ?」
それは、今の今まで保留にして聞かなかった問いである。その視線は、クレイオスの背中に吊り下げた白銀の槍に向けられていた。
明らかに異質で、しかし神性を感じる代物だ。それをわかっていたように回収したのだから、並々ならぬものをアリーシャは感じているのだろう。
それに対し、クレイオスは一瞬迷った。
洞穴の死闘に、己の正体に、神託に。
どれを取っても他人に簡単に明かすべきではない内容だ。
どうしたらよいか、数瞬考えて――そしてクレイオスは、すぐに話すことを決断した。
これから旅を供にする相手で、しかもそもそも幼馴染だ。隠す意味も理由もない、と断じるくらいには信頼している。
あっさりとそう判断したクレイオスは、一つ頷くと応えを返した。
「夢で神託を授かった。この篭手と槍を携えて、大地の遠い北にある、
「……え?」
簡潔に述べれば、ぽかん、という呆気にとられた表情でアリーシャの足と顔が停止する。
数歩分前に進んでからそれに気づいたクレイオスが振り返れば、彼女の手から持っていたパンがぽろりと落ちた瞬間だった。
同時に我に返ったアリーシャが反対の手で素早く空中のパンを掴み取り、それから不思議そうにしている青年に食って掛かるように詰め寄る。
「し、し、神託っ? そ、それって、噓でしょう!? 神託なんていったら、高司祭が何十年に一度授けられるかどうかっていう、す、凄いことなのよ!?」
「そうだったな。だが、俺は
「アモ……ッ!?」
事もなげに語るクレイオスから次々と放たれる、想像を遥かに超える真実の数々。その連射に、ついにアリーシャの動きと思考が完全に停止した。
またも落ちかけるパンの欠片をアリーシャの手から取り上げながら、そんなに驚くことかとクレイオスは首を傾げる。
これらは彼にとって既に自分の中で片づけた問題であったため、その衝撃度に関してはさっぱり考えが及んでいなかったのである。
暫時、思考を整理するのに停止しているアリーシャを待ち、クレイオスがパンを平らげていると、ようやく彼女が再起動を果たす。
そして、開口一番に口にしたのは、大きなため息だった。
「……あなたが半分神様であろうと、クレイオスはクレイオスだもんね。とにかく、その、あなたが神様の子供、っていうのは言い触らしちゃダメよ。不要な厄介ごとを招きかねないわ」
「ああ、そのつもりだ」
「そう。ならいいわ。それで、あなたのお父さんは誰なの?」
「む……」
最終的にアリーシャは彼の言葉を受け入れていた。
全て信じ、全てを呑み込んだ上で、彼女はちっとも態度を変えない。そんなところが好ましいのだ、とクレイオスは思わず笑みを浮かべる。
故に、そんな彼女の忠告に青年は素直に頷くも――続けて問われた内容に思わず閉口した。
思えば、父が誰であるかなど、あの女神の声に聞いていないのだ。
それも当然だろう。さしものクレイオスも、理解はすれどひどく混乱していたのだから。大事なことを聞き忘れたとして、仕方がない。あるいは声の主が伝える気がなかったのかもしれない。
クレイオスが素直に「知らない」と答えれば、アリーシャの視線が少しばかり呆れの含んだものになったが、「そう」と短い嘆息だけのみを零した。彼女も、本気でクレイオスが知らないことを察したのだろう。
少しばかり妙な空気になった二人は、それを振り切るように歩き始める。
丘陵地帯をのんびりした歩調で歩んでいき、少しばかりの沈黙を挟んでから再びアリーシャが口を開く。
「それで、その
「ああ、そう言っていたな」
「なら、とりあえず王都のヒュペリアーナに向かいましょうか」
「ヒュペリアーナ?」
アリーシャの言葉に、クレイオスが心当たりなし、と反復して問いかけた。その様子に、またも少し呆れたように項垂れて、彼女は説明するべく口を開く。
「私たちの今いる国の、王様が居る都よ。もし北に向かうっていうなら、北西にあるマルゴー山脈を越えて行かなきゃいけないわ。だから、その山に一番近いヒュペリアーナに行くの。それに、王様が居るくらいの都なんだから、人もたくさんいて、
「なるほどな。それで、そこはどこにあるんだ?」
「まだここからじゃ遠いわよ。私にも行き方はわからないし。だからまずは、セクメレル伯の領主館のあるセクメラーナを目指さなきゃね。そこなら、王都への行き方も、他の情報もわかるんじゃないかしら」
「セクメラーナ、か。近いのか?」
「ええ」
クレイオスの問いに、アリーシャは笑みを浮かべて頷いた。そして、目の前の丘陵を登り終え、眼下の遠景に見えるものを指さした。
眼下でまばらに見えるいくつかの家屋。それが、遠くに行くにつれて密集していき、最後にはみっしりと詰まってその間に数多くの人々を往来させている。遠くからも見えるほどの大きな建物も存在し、それはまさに街の様相だ。
そんな見たことのない景色に、クレイオスが数瞬、息を呑む。
隣のアリーシャはその遠い都を指さし、言った。
「あれがセクメラーナ――周りの牧草地とかもまとめて街にしている、広くて平和なセクメレル伯の街よ」
✻
丘陵地帯を乗り越えれば、そこからはようやく整備された街道がセクメラーナに向けて伸びていた。これまでは馬車が何度も通って出来たのであろう荒れた道だった為、街道に乗って歩いていくのは殊の外、快適さを感じるものだった。
街道の周りのまばらな家屋は、どうやらセクメラーナ周囲を遊牧する牧夫の休憩所であったり、そもそも牧夫の家であったりしたらしい。
それがセクメラーナに近づくにつれ、柵に囲われた農地を持つ農夫の物に変わり、気づけば街の働き人の家になっていく。そうしてようやく、二人はセクメラーナという都市に入り込んでいることに気が付いた。
獣除けの柵さえない、明確な境界線を持たない実に平和な街。これだけ人が居れば獣は寄ってこないし、周囲には山賊も棲みついていないのである。そんな周囲の環境とセクメレル伯の穏やかな気性が、このような街を作ったのだ、と道中でアリーシャは語っていた。
その二人がセクメラーナの密集区――いわゆる中心部にまでたどり着けたのは、太陽神が遥か遠い西のマルゴー山脈に隠れんとしている夕方になった頃である。
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