04 足跡と木こり
月と星の明かりしか頼れるもののない森の中、足跡を追いかけて二人の狩人たちが慎重に駆けていく。
一人は身の丈ほどの槍を手に、もう一人は弓と矢筒を背に、姿勢を低くしながら闇の帳に閉ざされた森を進んでいた。
一度でも視線を切れば、求める痕跡をすぐにでも見失ってしまいそうな暗中だが、だからといって足元ばかりに集中していては夜行性の獣に唐突に出会わないとも限らない。
その可能性を当然理解する二人は、森に入ってすぐその役割を分担していた。比較的夜目の利くアリーシャが周囲の警戒をし、クレイオスが足元を睨み付けて足跡を捉え続けるという形に。
これが
そうなれば、月と夜、乙女を司る
幸い、狩猟も司る
それを頼りに――同じく
――追跡を開始してしばらく。
トリーはうまくヘイムルを追いかけていたようだ、と薄い安堵が胸に落ちるも、それ以上に冷静な嗜好が彼の浅慮にため息を漏らす。追いかけた末に一体どうするつもりであったというのか、農夫の息子に過ぎないトリーが魔獣と化したヘイムルをどうこうできるとは思えなかった。
その思いは、背後で周囲の気配に気を配る女狩人も同じ。クレイオス以上に情緒溢れるからこそ、彼女はトリーの安否が気になって仕方なかった。
比較的身近な危険である
ほかの二種族と比べ、非力な
その両方のないトリーは、果たして無事だろうか――重たい気持ちで思考を巡らせていたアリーシャは、不意に立ち止まる紅蓮の狩人に意識を傾けた。
周囲に溶ける闇色の髪を揺らし、彼女がクレイオスの背中に視線を向ければ、それに応えるようにクレイオスは半歩横に引き、目の前にあるその光景を見せる。
狩人の少女が、思わず息を呑んだ。
それほどまでに、そこは荒れ狂った感情が見てとれる有様だったのだ。
なぎ倒された木々に、押しつぶされた茂み。暗闇でも辛うじてわかるほど、そこらじゅうを這いずるように血が撒き散らされ、それを認識してからようやく濃厚な血臭を鼻が感じ取る。
あらん限りの暴力でへし折られた木の一本には、ヘイムル一家が持っていた、村には珍しい鉄製の鍬が突き立っていた。その柄は中ほどで折り砕かれており、その少し上には握り込む手の形に血がべったりと張り付いている。
何かが暴れまわったその痕跡は、狩人の目には人型によるものだと読み取れた。
――同時に、ここで一人の犠牲者が出たのであろうことも。
それを保証するようにして、クレイオスが口を開く。
「トリーの足跡が、ここで消えた」
「……っ」
「代わりに、何かを引きずるような跡がここから続く足跡の上に出来ている。おそらく、トリーを襲ってそのまま連れて行ったんだろう」
淡々と述べられたのは、つい今しがた心配していた青年が襲われたという事実。
現実としてトリーがやられたことを目の前に突きつけられ、アリーシャは思わず唇を噛む。
クレイオスやアリーシャより、少し年上の強気な青年だったのだ。関わりがなかったわけはなく、同じ村の一員として、多くの思い出がある。
それはヘイムルやウラナとて同じだが、やはり年の近い人間との記憶はより深さと色彩があるもの。故に、より大きな衝撃となって心を揺さぶってくる。
顔を俯かせて辛さを堪えるアリーシャに対し、しかし同じ年齢のクレイオスは淡々と獲物の動向を見据えていた。
まるでトリーのことを気にしていないかのような態度。それは誰が見ても薄情であると思われるだろう。
だが、この青年が独特の感性を抱いていて、目の前のやるべきことと仲間の死を悲しむことを、全く分離させているのをアリーシャは知っている。全てを終えた後で、紅蓮の青年はトリーやヘイムルの為に祈りを捧げるのだと、他でもない幼馴染はきちんと理解していた。
それは正しくもあるのだろうが、しかし人間離れしている。
その姿に少しだけ不安を胸に抱きつつも、アリーシャは何も言わずに己の気持ちを切り替えた。静かに頷きを返し、狩人の少女は彼に向き直る。
彼女が落ち着くの待っていたクレイオスに、アリーシャは「行きましょう」と告げて先を促したのだった。
再び黒の帳に包まれた森を進んでいく。
幸いにもトリーという荷物の増えたヘイムルの追跡は、引きずる跡や茂みを折った跡などが増えたことによって容易になっていた。
だが同時に、引きずる跡を追いかけるように付随している血の跡はだんだん小さく、薄くなっており、トリーの生存は絶望的であることを改めてクレイオスに突きつけているのだ。
眉根を寄せ、
そうして二人で無言で歩いていき、時に茂みを避け、時に獣の気配を察知して迂回しながら、正確に痕跡を追っていっていた。
しかし、その無言も束の間、クレイオスがまたも唐突に立ち止まる。そして地面に膝を突き、ぐっと顔を寄せて草木を睨みつけ始めたのだ。
様子の変わった彼に、アリーシャは小声で「どうしたの?」と話しかけるも、彼は答えない。そのまま犬のように大地に顔を近づけ、暗闇の中で何かを探していたクレイオスは、やがて「妙だな」と零した。
アリーシャが視線を向ければ、セルペンス山の方を睨み付けるクレイオスが居た。そちらは、アリーシャが見てもわかるヘイムルの痕跡が伸びていく方向とは異なる。
疑問が彼女に生じたのにあわせ、寡黙な青年は口を開いた。
「妙な足跡が増えている」
「……どういうこと?」
「山の方から、人間の足跡がやってきている。ヘイムルと同じタイミングでここに来ているのは確かだが……」
「争った跡がない、っていうのね?」
月明りの中、辛うじて見える周囲の景色を見て、クレイオスの言わんとしていることを理解したアリーシャが言葉を続けた。それに、クレイオスは顎を引いて肯定する。
現在のヘイムルと出会って、そういった痕跡がまったくないのはおかしい。クレイオスの狩人としての目は、両者が顔を合わせる距離まで近づいているというのを見てとっているが、ならば周囲にトリーの時のような破壊痕がないのは妙だ。
そうして考え込むクレイオスへ、「でも」とアリーシャが尋ねる。
「すぐに逃げたのかもしれないわ。どっちもこの暗さじゃ、相手がどういう存在なのかわからなかったのかもしれないし」
「いいや、それだけじゃない。ヘイムルと出会った足跡は、そのままヘイムルと一緒に行動していっている」
「……じゃあ、ここへ来たのは、ヘイムルを噛んだウェアウルフ、ってことかしら」
アリーシャの示した可能性に、クレイオスは自身が抱いたもう一つの疑問で以て否定を返した。
クレイオスの言う通り、二つの足跡は同じ方向に連れ立って移動しているのだ。まったく争わずに仲良く合流したということは、普通ならアリーシャの考える通り謎の足跡はもう一匹のウェアウルフのものと考えたら簡単だ。
だが、そこで狩人の二人は首を傾げる。
「だが、
「そうなのよね……」
二人して困惑の表情を見せ、疑念をさらに高めることとなった。
というのも、二人の知る
元々、この近辺には魔獣など一月に一匹出るかどうかという程度だが、それでもごくたまに二匹同時に出現することがある。そういうとき、うまく二匹をぶつければ、どちらかが死ぬまで争いあってくれるのだ。そして、弱った勝者を狩人が狩る寸法になっていた。
だからこそ、二人はこの争った形跡のない二者の遭遇と合流に首をひねっている。両方が魔獣であっても、あとから来たのが人間であっても、どうにもおかしな違和感が付きまとうのだ。
暫時、闇の中で考え込む二人だが、アリーシャが顔を上げて首を緩く振る。
「ううん、父さんの本、そこまで詳しく書いてなかったからわからないわ。ウェアウルフだけ、同族意識とか、群れをつくる習性があるのかもしれないし、考えてもしょうがないわよ。行きましょう」
「……そうだな。行こう」
彼女の言葉にクレイオスも頷きを返し、思考を打ち切って足跡に向き直った。ただでさえ、世の中にわからないことは多いのだから、ただの狩人が何でもわかるはずもない。
そう結論付け、クレイオスは奇妙な違和感を頭の片隅に追いやり、痕跡を追って再び歩き出した。
それから、ほんの僅かの時が経過した。
相変わらず暗い森の中を進んでいく二人だが、狩人である両者は、感覚的にそろそろセルペンス山にぶつかるころだと感じていた。
森のおおよその規模と山の位置を把握している二人だからこそ、そろそろヘイムルとその同行者の目的地がだんだん見えてくる。
「このまま直進するとなると、山の
「ええ。ヘイムルもおおよその位置は知ってたはずだし、行ってもおかしくないわね」
二人が小声で交わしたのは、カーマソス村の人間なら誰もが知る洞穴の名だった。
『獣穴』とは、この森や山の老いた獣が死地に選ぶ山の洞穴である。大量の獣の骨が最奥に転がっていることでそう考えられており、時に洞穴の外まで死臭が漂うことがある。
山で迷った際には、この死臭を探して歩いていけば辿り着く場所でもあるため、目印のような場所でもあるのだ。いざとなれば臭いと恐怖を我慢してここで待っていれば、狩人である二人が遭難した村人を最初に探しに来てくれる場所だ。
そんな場所に向かうのだから、やはりヘイムルに魔獣化する以前の記憶はあるのかもしれない。己の現状をどう捉えているのかわからないが、森を彷徨う自分を遭難したと認識している可能性がある。
元々ウェアウルフは人だったころの記憶を断片的に保有しているということなので、やはり放ってはおけない。いずれ、村へ襲撃するのは確実だからだ。
――知らず、アリーシャの顔に緊張が走る。
もうすぐ、かつて同じ村の人間だったヘイムルを魔獣として狩ることになるのだ。懊悩がないと言えば噓になるが、だからといって躊躇いがあるわけでもない。既に意識は狩人のものとなり、手足はそれに遅滞なく応じるだろう。そうでなければ、師匠たるタグサムから認められる狩人とは言えない。
その前方のクレイオスもまた、かつての仲間であったヘイムルと魔獣と化して妻を喰らったヘイムルを別の生き物として割り切り、手にかける意識で槍を握っていた。
そんな、ピリピリした二人だからこそ――鼓膜を揺らす僅かな雑音に過剰反応したのは当然だろう。
右方、十ベルムル程度の距離で茂みをかき分ける音。同時に隠すつもりのない気配を感じ取る。
アリーシャがその方向に素早く弓に矢を番えて狙いを定め、クレイオスが槍を構えて腰を落とした。その間に、驚くほどゆっくりなペースで、音の主は森の木々を突き進むような動きで近づいてくる。
そうして、視界の届く二ベルムルほどまでやってきた瞬間、クレイオスが動いた。
滑るように前進し、茂みを切り払って近づいてきた生き物の全貌を視界に収める。それが服を着た人型であると理解し、ほぼ同時にその襟首を左手で引っ掴んで思い切り引き寄せた。
不意を打たれた上、
暗い森の中でも、その引き倒された人物が目をパチクリと見開いて、呆然としているのが分かる。そう、人物。簡素な麻衣を着た、ブラウンの短髪をした髭面の男である。
毛むくじゃらでもないし、狼のように鼻面が尖ってもいない。どこからどう見ても
魔獣ではない、と思わず弓弦を緩めるアリーシャに対し、クレイオスは穂先を首元に突きつけたまま、低い声で問い詰める。
「こんな時間に、こんな場所で、お前はなにをしている」
「あっ、いやっ、ちょっと、これどけ――」
「答えろ」
混乱しながらも槍の穂先を恐怖の形相で見つめる男に、しかしクレイオスは容赦しない。
山賊も、セルペンス山は環境が厳しすぎて存在しない。となれば、この男の正体は謎すぎるのだ。あるいは獣以上に厄介な可能性もある。
故に、クレイオスは一切の油断を見せずに男を地面に押し付けていた。
そんな狩人の殺気と、容赦なく薄皮一枚を裂きかけている槍に、男は顔を真っ青にしながら震える声で答える。
「やっ、山向かいのベスチャ村の、木こりだよ! と、トラウスって名前だ!」
「ベスチャ村の? ……木こりが、こんな時間に山まで越えて何の用だ」
聞き覚えのある名前に一瞬思案顔になったクレイオスだが、それでも拘束は緩めない。
さらに問い詰める彼に、息を詰まらせながらトラウスは答える。
「ゆ、夕方ごろ木を切り倒しに山に入ったんだけど、帰り道が分からなくなって気が付いたらこんな時間で、こんなとこに居たんだっ! な、なあ、あんたら近くの村の人だろ? 助け――」
「黙れ。木を切りに来たなら、肝心の斧はどうした。素手で木を切れる人間なのか?」
トラウスの語った有り得る話に、アリーシャが弓を下ろしてもクレイオスは詰問を重ねた。確かに、木こりだと自称する男は商売道具の斧を持っていない。それどころか丸腰で、水筒さえ身に着けていなかった。
対し、いい加減限界が来たのであろう男は、叫ぶように答える。
「す、捨ててきたんだよ! 疲れて重いからっ! なあ、信じてくれよぉ!」
「クレイオス」
「…………まあ、いいだろう」
悲痛な叫びに、アリーシャが目を鋭くさせ、相棒の名を呼び掛ける。それに、視線をちらと向けて目を合わせた紅蓮の青年は、しばしの沈黙の後にようやくトラウスから手を放した。
木こりは緊張から解放された反動からか、大きく息を吐いて上体を起こす。そして、縋るようにクレイオスを見上げた。
「なあ、頼むよ。あんたらの村に連れてってくれないか? こんなに暗くっちゃあ、ベスチャ村に帰れねえ」
遭難した男の言葉に、クレイオスとアリーシャは再び視線を合わせる。
どうしよう、と迷う仕草に見えたのか、トラウスは慌てたように続けた。
「お、おい、見捨てるなんてしないよな!? こんなとこに置いてかれちゃ、獣に食われて死んじまう! せっかく見つけた出会い人なんだ、何が何でもついてくからな!」
「いや……それは構わんが、俺たちはこれから
必死の男に、クレイオスは淡々と自分たちの目的を告げる。言外に危ないぞ、と告げられ、トラウスは面食らって顔を蒼白にした。
せっかく奇跡的に出会った人物が、これから危地に向かうのだ。トラウスは絶望したように喉を鳴らしたが、「いやいや!」と首を振ってクレイオスを見つめる。
「つ、ついてく! 俺はついてくぞ! 置いてかれちゃ、たまらない!」
「そうか。なら好きにしろ。ただし、俺の傍を離れるなよ」
必死に同行を申し立てる男に、クレイオスはこれまた淡々と告げ、くるりと背中を向けて歩き出した。
そのあまりの淡泊さに、トラウスは目を丸くしてアリーシャに振り返るが、彼女も小さく肩を竦めて見せるだけだった。
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