10 邪との邂逅

 大きく息を吸い、長く吐き出す。

 その動作一つにさえ、全身がキリキリと痛みを訴えたが、身動きできなくなるほどではない。

 冷静にそう判断しながら、クレイオスは血臭漂う洞穴を改めて歩きだした。

 その背後には、鉛色の血の海に沈む数多の蛇人間の死体がある。いずれも、彼との死闘の末に全て打ち倒されていた。

 色が違っていても獣と血の臭いは同じか、と思考の片隅でそう考える彼も、身体の至る所から血の匂いを撒き散らしている。彼も、洞穴に溢れる全ての蛇人間を無傷で倒しきることは流石にできなかったのだ。

 浅くも深くも、至る所を切り裂かれ、その中には蛇の噛み痕さえ刻まれている。幸い毒を受けた様子はないのでよかったが、出血はひどい。それでも思考はまだ明瞭で、クレイオスはその両足でしっかりと問題なく歩くことができていた。

 そんなクレイオスは、未だに胸に怒りを燻らせている。理由は単純、まだ、アリーシャを救えていない。

 向かってくる蛇人間を次々と貫き殺しながら、必死にアリーシャの姿やその形跡を探していたが、結局今に至るまで何も見つけていないのだ。

 故に、クレイオスの胸中に、怒りと共に不安が募る。


 もしや、連中は別に存在している巣に連れて行ってしまったのではないか。怒りに鈍った頭で行った追跡は、間違っていたのではないか。いや、そもそも、もう既に彼女は死んで――


 と、珍しく消極的な方向にスライドしていく思考を、すぐにクレイオスは首を振って切り捨てた。

 まだ、死体も見ていない。彼女の生存を勝手に諦めるわけにはいかないのだ。

 その思いを胸に、前に進んでいく。が、同時に、冷静を取り戻したクレイオスの中に、新たな疑問が鎌首をもたげていた。

 何故、こうも自分はアリーシャに執着しているのか。

 これほどの執念をもって、何かを追い求め、全霊を賭すなど、これまでの人生で初めてと言って過言ではない。しかもここまで感情を露わにするなど――これを執着と言わずしてなんと言う。

 確かに、他の人が蛇人間に攫われたとしても、同じように追いはするだろうが、しかし怒りに我を忘れたりはせず、恐らく洞穴の前で危険性を鑑みて撤退していたはずだ。ところが、今現在、血だるまになるほど怪我をしながら、幼馴染アリーシャを探し求めている。

 いかに彼女が付き合いの長い人間だとしても、伴侶であるわけでもなし。これほど必死になる理由が、クレイオスには全く分からなかった。


「本当に、何故だろうな」


 こんなにも、こんなにも――焦りばかりが募り、自分が救い出さねばならぬという意志ばかりが固くなっていくのは、何故だろう。

 これではまるで狂っているようだ、と疑問を零しながらクレイオスは薄く苦笑いを浮かべる。

 己は他の村人と比べて、ずっと淡泊であるという自覚はあったが、思いのほか感情的な人間であったらしい。意外な発見だと自分でも思う。

 そんな疑問に少しだけ思考を巡らせて、クレイオスは「きっと彼女が自分の数少ない『大切なもの』であるからだろう」とひとまずの結論を見出した。祖父やほかの村人は、よく『大切なもの』の為なら命を張れるとまで豪語していたのだから、自分にとってのアリーシャがきっとそうなのだ、と。

 よく理解できていないながらも納得し、クレイオスは歩みを早める。なればこそ、必ず彼女は見つけ出して、救わねばならない。そう思い、足を早めた。


 だが、いずれは彼も、この燃え上がる感情の意味に、祖父やほかの村人の言う『大切なもの』の本当の意味に気づかねばならないだろう。

 でなければ、来るべき時、本当に何か・・を失ってしまうかもしれない。







 歩みを止めぬこと、暫し。

 クレイオスはついに、洞穴の終端に辿り着いたようだった。

 というのも、そこには数多くの人間の死体が乱雑に転がっていたからである。辛うじてわかる服装と顔から、やはり彼らは調査隊の人間だとわかった。そして、その中にアリーシャは居ない。

 これまでの道程にもアリーシャの痕跡はなく、怒りと不安と焦りが募っていた。

 だが、洞穴はここまででも、まだ先に続きはある。

 死体が転がる前方には、があるのだ。否、正確には扉とは言えまい。何故なら、石や岩をより集め、何らかの手段で押し固めたものが結果的に両開きの扉の形になっているのだから。

 内側から乱暴に開かれたであろう扉らしき岩の塊。それの手を引っかける取っ手の部分にはツルハシが突き立っており、何かの紋様を削り砕いていた。

 それが何の意味を指し示すかはクレイオスにはわからない。それが悪夢を呼び覚ます切っ掛けであったなどと、尚のこと察することはできなかっただろう。

 故に、さっさと視界から外し、その扉の奥を見やる。蝋燭の光はないが、うすぼんやりとした光が中を照らしていた。その光の源を見やれば、それは暗い場所で発光する夜光石ルークス・ラピスがいくつか岩壁から突き出しているのが見える。それが光源となっていた。

 そのおかげで、見えるのはゆるい傾斜と共に下方へと伸びる一本道。そこには往復する蛇人間の足跡がいくつも見られる。もし、アリーシャが居るとしたら、この先だ。

 覚悟を決め、クレイオスは急ぎながらも慎重に扉の先へ歩を進めた。




 進んでいった先、やがてクレイオスは最下層に辿り着いた。

 狭い通路が突然終わった先にあったのは、異様に広大な空間。天井を見上げてもずいぶん遠く、そこには夜光石ルークス・ラピスがごまんと敷き詰められていて、空間全体を仄暗く照らし出していた。

 荒々しく切り出したような壁は緩い円弧を描いていて、全体で見ればこの空間は半球状になっているのだろうことがわかる。そしてその空間の中心には、祭壇のように三段になった巨大な台が鎮座しており、その周囲をクレイオスの身長の倍ほどある直径の野太い輪が、滑らかな表面を見せてぐるりと巻き付いているようだった。

 だが、なによりもクレイオスが注視したのは、中央の巨大な祭壇の頂上に横たわる、一人の少女。

 アリーシャ・テンダルーナが、そこに眠っていた。


「――ッ!」


 すぐさまクレイオスは駆け寄ろうとして、しかし立ち止まる。あれほど探し求めた幼馴染を前に、狩人の脚を止めさせたのは――ほかでもないクレイオス自身の直感。

 待て、止まれ、何かがおかしい、と過去最大級の警鐘が耳元で鳴り響いたかのような感覚に、さしもの彼とて冷静さと取り戻して動きを止めたのだ。

 アリーシャの下にすぐに駆け寄りたいという胸の熱を抑え込み、己が感じ取った違和感・・・の正体を探す――が、しかしすぐにクレイオスは、その必要はなくなった、と悟ることになる。


 ずるり、ずるり、と。

 広い空間に、何かを潰しながら引きずる音が響き渡る。

 その音の正体は、クレイオスの正面――動き出す野太い輪から発せられていた。


 目を見開き、驚愕と共にその輪をよく見れば、それは鉛色をした鱗に覆われたものだと遅れて理解が追い付いた。さらに、その鱗の鎧の下には蠢く筋肉の塊が存在しているのが分かる。

 そう、これは、切り出された石造物などではない。望外の巨躯を誇る生物であったと、全身に迸る戦慄と共にクレイオスは理解した。

 起きたことはそれだけではない。さらに、祭壇の向こうから巨影・・が姿を現す。

 それは、頭部。蛇の頭部だ。逆三角形の形状と、縦に細長い瞳孔を抱く黄金の瞳。しかし、その開いた口腔には蛇にはありえないおぞましい無数の牙がノコギリのように存在し、一つ一つがクレイオスの腕の長さほどはある。その奥から伸びる舌は細長いが、烈火のような紅色に染まっていた。

 そんな頭が――二つ・・、鎌首をもたげて空間の仄暗さの中に浮かび上がっているのだ。

 よくよく見れば、その鎌首は一本の鉛色の胴体に繋がっており、現れたのが『双頭の巨大蛇』であることをクレイオスに教える。

 しかし、だからといって目の前の存在の異様さを完全に理解できるわけではない。

 だが、そんな彼でもわかることは、一つある。

 あの双頭の巨大蛇の、二対の黄金の瞳はアリーシャを見つめ――舌なめずりをして悦んでいるということだ。

 理解の直後、片方の首がその口をあらん限りに大きく広げた。まるで家一棟を丸呑みできそうな口腔で、アリーシャに向けて一息に迫る。


 ――アリーシャを、食い殺すつもりか!


 刹那、クレイオスの総身に熱が奔り――次の瞬間、彼の身体は祭壇の頂上に着地していた。

 思考さえ追いつかない跳躍は、一瞬にして彼の身体をアリーシャの傍に運んだのだ。だが、即座にすべきことを理解した狩人は、次の瞬間にはアリーシャを抱えて逃避を敢行する。


 まずはアリーシャを助け出さなければならない、あんな巨大なバケモノなど相手にしてられない――!


 そんな考えと共に、入口へと一気に跳躍したクレイオスだが、その直前、確かに翡翠の瞳は見ていた。

 二対の黄金の瞳が、面白がるように細められるのを。

 刹那、入口の前に着地したクレイオスの耳を轟音が貫く。同時に視界の端から飛来する巨大な何かを捉え、咄嗟にクレイオスはアリーシャを入口の奥へと無理やり投げ出しながら伏せた。

 それと同時に、真正面の入口の真上に巨大な岩塊が着弾。轟音と共に、入口が崩れ落ちた岩石に埋め尽くされ、物理的に封じられてしまう。

 辛うじてアリーシャが崩れた岩の向こうに転がっていったのを見て、クレイオスは胸を撫でおろすが、しかしこれで逃げられなくなったことを悟った。

 振り返れば、蛇身を蠢かせながら、二つの頭がクレイオスを見下ろしているのが見える。明らかに悪意と知恵を以て放たれた一撃であり、目の前の怪物がただの獣でないことをクレイオスに教えていた。


 こいつは、明らかに、理解と常識の外側に居る化け物。それこそ、祖父が幼き頃に寝物語に語ってくれた、神々と争ったという『魔物モンストルム』なのかもしれない。

 そのありえない巨躯と、全身で感じる恐怖の圧力。屈しそうになる身体の震えを抑え込み、鋼の精神でクレイオスは目の前の双頭蛇を睨み付けた。

 のんびり岩をどけている時間はない。ならば、例え相手がどれほどの怪物であろうと、打倒して生き延びるだけだ。死ぬつもりなど毛頭ない。

 総身に宿る力は、これまでの人生で最高潮だ。それは先ほどアリーシャを助けたときの跳躍で実感している。今ならあの蛇人間さえ、片手で簡単に殺せるだろう。

 故に、槍を両手で握りしめ、クレイオスは目の前の怪物を狩る・・覚悟を決めた。


「――勝つ」


 全霊の意思を言葉にして呟き、クレイオスは大地を蹴った。

 およそ二歩でその身体は最高速に到達し、三歩目が大地を砕き割る。それと同時に踏み込んだ右足で天高く跳躍した。

 宙を舞う身体は一直線に双頭の一方に迫り、後方に引き絞った両腕が筋肉の軋みを上げて唸った。

 槍の穂先は顎下にピタリと狙い澄まされ、そして最大の威力を発揮する最高のタイミングで――クレイオスの刺突が撃ち放たれた。

 風を切り裂き、大気を穿ち、音の壁すら僅かに越えて、乾坤一擲の一撃は鉛色の鱗に激突する。


 そして、そして――槍は、微塵に砕け散った。


 手の中で無数の欠片になっていく槍を、クレイオスは唖然として見ることしかできない。その視線の先、穂先は特に粉々に砕け散り――突き立てたはずの鱗には、小指の爪ほどの傷さえ、つけられていなかった。

 ここまで来て、ようやく双頭の巨蛇の身体の周囲に、不可視の何か・・が渦巻いていることを知る。それを全力の一撃で貫き、鱗に到達できたことはなんとなく理解した。しかし、それでも硬すぎる鱗を傷つけることすらできず、その何かに槍が粉微塵に砕かれてしまった。

 その悔しさに顔を歪める暇もなく――目の前の蛇の頭が、鞭のように振り下ろされる。

 クレイオスの全身に大槌のように頭部が叩きつけられ、その凄まじい威力に一瞬で狩人の意識が彼方に吹き飛んだ。刹那の間にその身体は稲妻の速度で弾き飛ばされ、轟音と共に壁に叩きつけられる。

 壁すら砕き割る勢いに全身の骨を砕かれる痛みで一瞬覚醒したクレイオスだが、次の瞬間には地面へと叩き落とされる。そして生じた更なる痛みに、声にならない悲鳴が、ついに青年の口から洩れた。


「――――ッッッ!?」


 足の爪先から頭の天辺まで、ありとあらゆる部位が痛みを訴える。指先には微塵も力が入らず、クレイオスは己から流れ出す血の海に無様にも倒れ伏すことしかできなかった。

 呼吸さえ難しい、喘ぐ喉に血が混じる、それさえ傷に沁みて痛い。視界はもはや微塵に乱れて何も見えず、思考はもはや自分が何をしていたのかさえわからなくなっていた。

 だが、それでも明瞭にわかることはある。

 自分は死ぬのだ、と。

 弱まっていく鼓動、世界が少しずつ闇に閉ざされていく。

 そして、そして――青年によって砕かれた岩壁から降り注ぐ岩塊によって、その命の引導を引き渡された。


 青年の身体は岩に潰され、それを眺める巨蛇は残念そうに眼を細めるだけだった。







 青年は、知る由もなかっただろう。

 相対した巨蛇が、まさか本当に神々と争った『魔物モンストルム』であったなどと。

 かつて神々を脅かし、恐れさせた『邪龍』――その名は、アッロガーンス。

 風神ウェンドゥスの右足の小指を食いちぎり、そして五柱もの神族を食い殺すほどの恐るべき力を持っていた。

 喰われた五柱は生み出されたばかりの弱い神々であったが、それでもアッロガーンスは神族の有り余る力を己のものとし、雷神フルグール風神ウェンドゥス鍛冶神フェラリウスの三柱と激しい戦いを繰り広げ、最後にはこのセルペンス山に封じられたのだ。

 そんな恐ろしい邪龍。例え永き時に亘った封印によってその力を減じさせていたとしても、少しばかり強いだけの土人族ヒューマンの青年が傷一つつけられるはずもなかったのだ。

 特に、クレイオスのような――半端者・・・には。

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