11 目覚める神炎

 ふわふわと、掴みどころのない感覚が全身を包んでいる。

 小川の中でたゆたうような、そんな安らぎを感じていた。

 ぼんやりと見える世界は白く、淡く、鈍く、何もわからない。

 ただなんとなく、このままで居たいという気持ちはあった。まるで母の胎内にいるような、そんな気持ちだ。或は、その腕に抱かれて穏やかに揺らされているような、そんな安心感ともいえる。

 だが、そんな感覚、知るはずもない。

 母アンネリーサは、己を生んですぐに死んだ。抱くことすらできずに、命を失ってしまったのだという。

 ならば、父はどうかと言えば、祖父も村人も、父の存在を本当に知らなかった。ある日突然身ごもっていることが発覚し、意味不明の疑念が村に渦巻く中、アンネリーサは父の存在を明かすことなく死んだという。

 結果として、そんな出自不明の赤子の面倒を見ようとしてくれる乳母は村におらず、祖父タグサムが必死に世話をしてくれたのだとか。幸いにも丈夫な子だった為、すくすくと成長した。

 だが、身体の強さは齢十にして大人を打ち負かすほどであった為、そのことでも、村人は口に出さずとも気味悪さを覚えていたらしい。いつだったかサブラスがそう語り、頭を下げていた。

 そんな子供であっても、祖父は己の娘に代わって不器用な愛情を注ぎ続け、故に子供は精一杯まっすぐ生きてきた。


 それが、それが――ここで、死ぬのだ。

 クレイオスは、茫洋とした感覚の中でそれを確信する。


 同時に、悔しさが胸に溢れ出てきた。

 まだ、何も祖父に返せていないというのに。まだ、己を受け入れてくれた村に恩返しできていないのに。まだ、こんな己を友としてくれたアリーシャを助けきっていないのに。

 ここで、終わるのだ。全部、何もできないまま。訳の分からない怪物に手も足も出せず。

 嗚呼、悔しい。

 嗚呼、悲しい。

 嗚呼、苦しい。

 意識が落ちていく。周囲の白が黒に染まっていった。

 大地の底へ、深い闇へ、二度と戻れぬ冥府へ。必死に天へ伸ばしたい手は微塵も動かず、ただ魂は終幕に閉ざされていく。




 ――だが、彼はまだ、終わらなかった。終わるべき時ではなかった。


 突如として、黒に染められ行く世界に、白い光が爆発する。

 凄まじい閃光は闇を剥ぎ取り、落ちていく身体を支え、再び安心感のある白が全身を包み込む。

 そして、不思議なことに声が聞こえた。


『――クレイオス』


 女の声。知らない。誰だ。


『目覚めなさい』


 どうやって。


『抗いなさい』


 どうすれば。


『己の中の衝動に、身を委ねるのです』


 どうして。


『簡単なこと――神の怒りは、何よりも恐ろしいのですから』


 ――刹那。


 胸を焦がす熱が、再燃する。内側から己の全てを焼き尽くさんばかりの炎が、再び勢いを増して蘇った。

 これまで目覚めていなかった魂の半分・・が産声をあげ、その勢いだけで紅蓮の烈火が燃え上がる。

 有り余る熱量が雪崩の如く全身を搔っ攫い、しかしその全てが身体の内側へと収束していく。その感覚は確かに己の手綱に繋がっており、弱めたければ簡単に減じ、強めたければ簡単に増えた。

 これは、もはや制御できぬ感情ちからではなくなっていた。

 そう、元から己に備わっていた機能ちからだったのだ。

 自覚すれば、全ては早かった。

 身体は――否、夢の狭間にたゆたう意識は急浮上し、死に瀕していた魂は再び肉体に戻っていく。新たな力を携え、クレイオスは甦る喜びに満ち溢れていた。

 まだ死んでいない、まだ生きている、まだ戦える――!

 その歓喜の声に紛れ、女の声は静かに笑う。


『嗚呼、大丈夫。貴方は負けない。だから、頑張りなさいクレイオス――神の子・・・よ』







 千年と何百年ぶりの獲物を、邪龍は諦めるつもりはなかった。

 双頭の一方が、崩れ落ちた瓦礫に鼻面を寄せる。濃厚な、実に芳しい血臭がアッロガーンスの嗅覚を衝き、感情のないはずの蛇頭に邪悪な笑みが浮かんだ。


 ――きっとこの瓦礫の中には、ぐちゃぐちゃに轢き潰された死体があるのだろう。本当は、生きたまま牙で貪り、口内に響く悲鳴を堪能してやりたかったが仕方ない。久方ぶりの食事は死体で済ますとする。


 邪悪な知性でそんな妥協をしながら、その巨大な頭を瓦礫に寄せ、そしてぐわっと口を広げる。瓦礫ごと死体を喰らう寸法だった。

 そして、そのまま勢いよく突っ込んだ頭が――瓦礫の手前で停止する。何かに激突したかのように鎌首が慣性でたわみ、僅かな粉塵を巻き上げた。

 これは邪龍の意志によるものではない。喰らわんとした頭の方は何が起きたか理解できていなかったが、もう一方の頭は突如起きたその光景を、確かに目撃していた。

 その原因は、瓦礫から伸びる男の右腕。

 それがアッロガーンスの牙を真正面から受け止め、その進行を制止させていたのだ。

 右腕の行動はそれだけに留まらず、直後、その右腕に力が入り――バギン、という重たい音と共に、アッロガーンスの一際大きな一本の牙が砕き折られた。


『――――ッ!?』


 突然の痛みに訳も分からぬまま一方の頭が後ろへと引っ込み、もう一方の頭と共に瓦礫から伸びる腕を睨み付ける。

 それと同時、瓦礫が内側から吹き飛んだ。

 巻き上がる粉塵からゆっくりと立ち上がったのは、やはり紅蓮の髪を揺らす青年。しかし、その姿は、様変わりしていた。

 その全身から揺らめき・・・・が立ち上っているのだ。

 それは紅蓮の色を発する――烈火・・

 全身の至る所から炎が燃え上がり、総身を包みながらも彼の身体を一切焼いていない。

 その不思議な紅蓮に揺れる髪は、かつての仄暗さを吹き飛ばし、鮮烈な赤を発して輝いていた。

 だが、何よりもの変化は――その総身から放たれる、正体不明の圧力であろう。

 神殺しの邪龍が思わずたじろぎ、全身を緊張させて彼を警戒させるほどの、そんな圧力。先刻までの青年には決してなかったものであるが、しかしアッロガーンスにはどこか覚えがあった。

 千年と数百年という時を超え、それはすぐさま邪龍の記憶を呼び覚ます。


 これは、神の気配だ、と。


 かつて相対し、己を封じた神々に勝るとも劣らぬ神威。目の前のただの矮小な存在でしかなかった土くれ・・・がそれを放ち、邪龍を圧倒しているのだ。

 遠い過去の激戦を思い出し、その末の敗北を思い出して動きを固くする邪龍。

 それに対し、クレイオスはここまで来てようやく、その意識を明瞭なものとしていた。

 見下ろす全身から立ち上る、紅蓮の炎。目に見える変化はそれが一番大きかったが、クレイオス自身が感じる変化はむしろその内側にあった。

 どんどんどんどん湧いてくる、限りの見えない力。それは全身の隅々まで満ち溢れていて、かつてないほど満ち足りている。

 しかも今の身体は能力面において、死に瀕する直前の身体を遥かに超越していた。もはや生まれ変わったかのような気分だ。

 否、事実として、生まれ変わったのだろう。自覚していなかった己の半分・・が目を覚まし、これまで出来ていなかったことができるようになったのだ。この紅蓮の炎がまさにソレと言える。

 故にクレイオスは、その輝く翡翠の瞳で目の前の邪龍を静かに見つめ、確信する。

 今なら、今なら――勝てる。

 思い上がりでもなんでもなく、ただ、敗北を思い描けなかった。先刻までなら、決死の覚悟を固めても心のどこかで諦念が燻っていたが、今は違う。戦いにおいて勝利する以外に、ありえないのだ。

 その正体不明の自負は、即座に証明されることになった。


 警戒する邪龍の眼前。悠然と立つクレイオスの身体が――消え失せる。

 その一挙一動を逃すまいとしていた邪龍が驚きに目を見開いた瞬間、左の蛇頭に影が落ちた。

 思わず邪龍が見上げた瞬間、一瞬にして天井に足から着地したクレイオスが、全力で天井を蹴飛ばしてアッロガーンスに向けて急速落下。勢いを増す全体重と共に、全力の右ストレートがその眉間に炸裂する。

 刹那、轟音。ただの拳の一閃が、落雷の如き勢いで左頭を大地に勢いよく叩きつけ、凄まじい粉塵を巻き上げた。

 その眉間の鱗は拳の形に打ち砕かれ、鉛色の血が滲みだす。

 そう、先刻ならば傷一つつけられなかった鱗を、たった一撃で粉砕したのだ。

 この事実に最も驚いたのは他でもない邪龍本人であるが、しかしそれだけで終わるほど弱い存在ではない。

 即座に怒りに総身を震わせ、無事な右頭が大口を開いて、未だ空中に留まるクレイオスに襲い掛かった。

 雷速すら霞む突撃、受ければ土人族ヒューマンの肉体を四散させるようなソレに、クレイオスは冷静に対応。己の持つ機能ちからを存分に発揮する。

 転瞬、クレイオスの右脚の炎が爆発的に増大した。エネルギーを一気に燃やして巨大化し、勢いよく右足から紅蓮が噴出する。それは、大気を押しのけて推進力を発揮した。

 結果、噴き出す炎の力で空中でくるりと勢いよく身体を回転させたクレイオスは、迫る邪龍の頭部に向けてその勢いのまま右脚を一閃。

 鼻面に真横から爪先が突き刺さり、超強化された剛力が巨躯の突撃の進路を強引に変更。蹴り飛ばされた頭部はクレイオスの真横を突き抜け、壁に勢いよくぶち当たる。

 しかし、次の瞬間、地面に叩きつけられていた左頭が勢いよく伸びあがり、その頭部でクレイオスを鎚の如く殴り飛ばした。

 球のように勢いよく吹き飛ばされたクレイオスは、凄まじい速度で天井に叩きつけられる。

 先刻までならそれだけ瀕死になっていたものを、しかし、次の瞬間には上体を起こし、天井を蹴って素早くそこから離脱した。直後、彼の居た場所を伸びる頭部が激突、打ち砕く。

 砲弾のような勢いで大地に着地したクレイオスは、五体満足でしっかりと立ち上がった。だが、その表情には苦さがあり、いつの間にかその全身に裂傷が迸っている。

 殴りつけた右拳、蹴り飛ばした右脚、そして突撃を防御した左腕は、無数の刃に切り裂かれたかのようにして大量の斬痕が刻まれているのだ。

 激痛に顔を歪めるクレイオスは、何をされたのかを既に理解していた。


「厄介なだな……!」


 言葉を零して睨み付ける翡翠の瞳は、双頭でこちらを睥睨する邪龍の体表を見ている。否、正確には、その表面で逆巻く――風の鎧・・・を、だ。

 クレイオスは知る由もないが、それは五柱の神と風神ウェンドゥスの右足の小指を喰らった際に手に入れた、魔物モンストルム固有の能力――『邪権能マレフィデス』による力。

 神にも等しい能力を発揮し、それによってアッロガーンスは己の身を守りながら攻撃にも利用していた。

 たかが風の鎧、クレイオスの急上昇した身体能力であるならば打ち貫くのは容易いが、触れれば切り裂く疾風をどうにかする術は持っていない。

 表情に苦さを生み出すクレイオスに、神威に畏れを抱いていた邪龍も嫌らしい笑みを浮かべて余裕を取り戻す。

 目の前の敵は、かつての風神ウェンドゥスのように己の邪権能マレフィデスを無効化するような輩ではないと気付いたのだ。

 だが、対するクレイオスもまだ余裕を崩さない。やはり、新たに発現した己の紅蓮・・にこそ、勝機があるとわかっていた。

 何故ならば、傷口から新たに燃え上がる紅蓮の下では、徐々に薄皮が張り始めているからだ。全身から流れる血はいつの間にか止まり、怪我はゆっくりとだが治っていく。

 拳は邪龍を砕ける、怪我は少しだけ気にしなくしていい、身体は炎のおかげで更にずっと丈夫になった。

 ならば――あとは、相手が死ぬまで殴るだけだ。

 無茶苦茶な考えだが、しかしクレイオスが他にできることはない。今なら崩れた入口を一息に突破して逃げられるかもしれないが、それは同時にこの怪物を世に解き放ちかねないことになる。

 それは看過できない。

 ならば、ここで打ち斃すだけ。

 そんな確固とした覚悟と共に、クレイオスは力強く大地を蹴った。

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