08 異形の襲来
息を潜め、音を殺し、気取られぬように弦を引く。
キリリと引き絞られる糸の小さな悲鳴が鳴りながらも、それは周囲の木々のざわめきに吸い取られて獲物にまで届かない。故に、あとは呼吸を整え、狙いを澄まして集中するのみだ。
整息。呑気に草を食む獲物に鏃の先を定め――放った。
ヒュッ、と矢が鋭く風を切り、迫る脅威に直前で気づいた兎は、しかしその首に矢を突き立てられて吹き飛ぶように転がった。そのまま数瞬もがくも、やがて力なく崩れ落ちる。
それを暫時、呆然としたように眺めていた狩人は、やがて己の成果を確かめるように目を見開き、そして歓声をあげた。
「やった! 仕留めたっ!」
「メレアス」
「えっ、あっ、血抜き血抜き!」
狩人――見習いのメレアスを、隣で気配を殺していたクレイオスが窘めれば、やるべきことを思い出した少年は慌てて仕留めた兎に駆け寄る。
そして、クレイオスに与えられたナイフで手早く血抜きを始めるメレアスを見ながら、紅蓮の狩人は薄い笑みを浮かべる。彼からしても今の狩りは素晴らしい手際であり、獲物を見つけるというお膳立てをしていたとしても狩人としてやっていける、と思わされた。
そう遠くないうちに、自分たちの仲間入りをさせてもいいかもしれない、と思ったものの、ぴくぴく動く獲物にいちいち騒ぎながら血抜きを試みているようでは、まだまだだな、と呆れたように首を横に振った。
せっかく初めて自分の手だけで仕留めた獲物であるのだから、手伝わずに放っておこう、とクレイオスは周囲に気を配る。血の匂いにつられて肉食の獣がやってくるかもしれないからだ。
狩人の知覚がぼんやりと周囲に広がり、動く気配を探していく。今のところは問題ない――と判断した、次の瞬間。
狼ですらありえない凄まじい速度で迫る気配を察知。足音一つ聞こえない癖に殺気だけはおぞましいほど濃厚なソレが、一直線にこちらへ目がけ、接近していた。
接敵まで――余裕がない!
咄嗟にクレイオスが槍を振り上げながら振り返るのと同時、気配の主が姿を晒しながら彼に飛び掛かるように切りかかっていた。
直後、槍と曲刀のような何かが激突し、ほぼ互角の膂力のせめぎあいは襲撃者の身体を宙で制止せしめる。
そう、互角。
それに驚きながらも、クレイオスが曲刀のように見える武器を全力を込めて弾き飛ばせば、その勢いを利用して襲撃者がわざと後方に跳躍していく。そして、木の枝に軽やかに着地した襲撃者は、クレイオスをして動揺するほどに――
クロスガードのない、出刃包丁のような白い曲刀を握るのは、鋭い爪の生えた三本指。そこから伸びる腕は妙にひょろ長く、鉛色の鱗に覆われている。
その胴体もまた然りだが、身体は痩せ細ったかのようにいやに細かった。その上、身体からは一繋がりに尾が伸びており、身体を支えるためには三本指の太く短い脚では不足のようで、枝に巻き付いているのだ。
そして、肝心の顔はまさしく蛇のソレ。鱗に覆われた面長の顔面の左右には金色の瞳に黒く細い瞳孔があり、鼻面には小さな鼻の孔、その下で火の粉のような真っ赤な舌がチロチロと嘲るように出し入れされている。
総ずるならば、蛇人間、とでも言うべきだろうか。人間ほどの大きさの鉛色の蛇が、手足を手に入れて二足歩行している見た目なのである。そして、その胴には粗末な布切れを纏っているのだ。
こんな未知の生物にさしものクレイオスも困惑の色を隠せず――故に蛇人間に先手を許すことになる。
尾を利用して木の枝にぶら下がり、蛇人間はそこから落下してするりと地面に降り立った。そしてそのまま力強く大地を蹴ってクレイオスに肉薄。一瞬にして間合いに入った化け物から、下段からすくい上げるような斬閃が放たれる。
咄嗟に反応したクレイオスは槍を薙ぎ払って弾くも、あまりの衝撃にクレイオスの手にはこれまで感じたことのない痺れが残った。間違いなく膂力のみによる威力であり、あの細くて長い腕のどこにそんな力があるのか、と表情に苦みが走り、クレイオスは半歩後退する。
そこへ蛇人間の畳みかけるような追撃。曲刀を振り下ろし、突き出し、薙ぎ払う――遅滞のない、恐ろしいほど殺意に塗れた斬撃がクレイオスを襲う。
即座にクレイオスは槍を手繰り寄せ、回転させながら穂先と柄でそれらの斬撃を次々と叩き落すも、いずれの一撃も己と同等以上の威力があり、その事実に困惑を隠せないでいた。
しかし、目の前の蛇人間がどういった存在であろうと、己を害する生物であるのは疑いようもない事実。即座に意識を切り替え、
直後、突き出される刺突を、槍を立てて長柄で受け流した。同時、長柄を刀身の上に滑らせながら身体を蛇人間の懐に突っ込み、折り畳んだ右腕の肘を胸部に叩きこむ。
硬い鱗とその下でぐにゃりと曲がる肉の感触。それによって打撃の衝撃が受け流され、有効な一撃とならなかったことを知ったクレイオスは、即座にもう一歩、大地を割らんが如き踏み込みを敢行。それと同時に身体ごと肘を突き出せば、蛇人間の身体は弾かれたようにして吹き飛ばされた。
が、それでも容易に体勢を立て直した蛇人間は空中でくるりと回転して足から着地する。しかし、その時にはもうクレイオスが追いすがり、追撃の刺突を放っていた。
蛇人間が慌てて曲刀を立てて外側に受け流すも、それはフェイント。対して力の込められていなかった槍の勢いを完全に殺し、くるりと槍を頭上で旋回させ、曲刀の防御のない反対側から一息に強襲した。
穂先が蛇人間の身体を袈裟から襲い掛かり、硬い鱗を切り裂いて斜めに肉を断つ。
「シャァッ!?」という鋭い悲鳴を上げて、たまらずさらに後退する蛇人間だが、クレイオスはそれを逃さない。
さらに一歩踏み込み、振り下ろしたばかりの槍を両手で構え、全力ですくい上げるように刺突を放った。クレイオスの全力の一刺しは、最後の抵抗である蛇人間の防御を容易に弾き飛ばし、その胸を穿ち貫く。
その一撃に、人族の子供一人を丸呑みできそうなほど口をかっ開いて、鉛色の血液を吐き出す蛇人間。しかしクレイオスはまだ止まらず、素早く槍を抜き、その頭部へさらに刺突を一閃。開いた口から突き込まれた穂先は後頭部を貫き、その向こう側へ顔を出した。
すぐさま一切の容赦なく槍を引き抜いて蛇人間を地面に転がし、骸と化して動かなくなったことを見てとったクレイオスは、ようやく息を吐き出す。
しかし顔には緊張が残っており、眉根を寄せて屍を見つめていた。
そんな彼に、一連の攻防をただ茫然として見ているだけだったメレアスが恐る恐る話しかける。
「く、クレイオス……なに、そいつ?」
「わからん。見たこともないな……
少年の疑問に、クレイオスは答えられない。幼馴染なら何か知っているだろうか、と考え、その屍を担ぎ上げ、曲刀を手に取った。
手触りは滑らかで、見た限り巨大な白い鉱物か何かを削って曲刀の形にしたもののようである。切れ味が鋭いのは分かっており、頑丈な
問題なのは、明らかに加工しているということ。それだけの知恵があるという証左になるからだ。
そうなると、クレイオスの胸中にも少しだけ不安がもたげてくる。どうにも、最近の魔獣の出現やウェアウルフ事件など、おかしなことが連続しているからだ。
故に、メレアスに緊張の面持ちのまま告げる。
「今日はもう帰るぞ」
「え? まだ太陽は真上にあるよ?」
「それでもだ。これについて報告しよう」
「……わかった」
せっかくの狩りの時間を中断せんと言うクレイオスにメレアスは口を尖らせたが、肩に担いだ蛇人間の骸を見せる彼に、少年も渋々納得を見せて弓を背中に収めた。
そうして二人は、胸に残る不安を晴らさんと、カーマソス村への帰路を急ぐのだった。
それが、結果としてよかったのか悪かったのか――神のみぞ知る。
✻
早足で村に向かう中、最初に異常を知覚したのは、クレイオスの鋭敏な聴覚だった。
聞こえたのは、数々の鋭い蛇の威嚇音とそれに呼応するかのような悲鳴。全ては前方のカーマソス村から聞こえており、明らかに尋常の様子でないのを彼に教えていた。
即座に肩の上の骸を打ち捨て、メレアスに「行くぞ!」と告げて走り出す。背後で慌ててついてくる少年の気配を感じながら村まで走れば、すぐそこに農夫サブラスの家が見えた。しかし、その壁は打ち壊され、中から悲鳴が響き渡っている。
即座に加速し、申し訳程度に設置されていた村の柵を勢いよく飛び越えた。村の入口以外から村に入ることになるが、もはやそんなこと気にしていられない。
壊されたサブラスの家の壁から中に飛び込めば、すぐそこに倒れ伏す男の姿があった。それを確認しようとして――奥から女の悲鳴が響く。
「ひっ、い、いやぁ、来ないで……!」
「ッ!」
即座にその方向へ駆けだせば、クローゼットに隠れていたであろうサブラスの妻ミーナの前で、曲刀を振りかざす蛇人間の後背が目に入る。
走っては間に合わない、ならば――!
即座に判断を下し、クレイオスは左腕を大きく後ろに振りかぶる。そして、右足で力強く踏み込むのと同時に、思い切り
剛力により投げ放たれた白い刃は風を切り裂いて蛇人間に迫り、その後頭部に直撃。頭をかち割って突き立ち、声も出せずに蛇人間は力尽きた。
目の前で突如化け物が倒れ伏す出来事に、口を開いたまま呆然とするミーナ。そんな彼女に駆け寄り、クレイオスは尋ねる。
「大丈夫か、何があった?」
「え、あ……いきなり、そ、その化け物が壁を壊してやってきて、とにかく隠れて――そうだ! サブラスは!?」
混乱したまま状況を口走るミーナだったが、すぐに夫の存在を思い出し、クレイオスを突き飛ばして駆けだした。
慌ててそれを追いかければ、すぐにミーナが倒れ伏す男の傍に崩れ落ちているのを見つける。その傍で、追いついたメレアスが硬い表情でクレイオスを見上げる。
「く、クレイオス、サブラスおじさんが……」
「うっ、あ、あぁ……そんな、サブラス――」
ミーナが縋りつく男――サブラスは、少しも身動きしない。見れば、その胸からは夥しい血が流れ出しており、心臓を一突きにされているようだった。もう、死んでいる。
村の人間が、殺されたのだ。
その事実を前にして、それでも表情を変えないクレイオスに、メレアスが不安げに瞳を揺らす。それを無視し、紅蓮の青年は静かに瞑目。それから見開いた翡翠の瞳で鋭い視線で周囲を見渡してから、ようやくメレアスに視線を向けた。
そして、クレイオスは少年に目線を合わせるように膝を突き、その両肩に手を置く。
「メレアス、よく聞け。まだこの村を襲ってるバケモノどもはたくさん居るようだ。俺はそれを退治しにいかなきゃならん」
「――ッ!」
クレイオスの言葉に、メレアスは息を呑む。ようやく少年は周囲の村の様子がおかしいことに気付いたのだ。彼の言う通り、耳をすませばそこら中で悲鳴や怒号が聞こえてきている。戦いの音さえも聞こえていた。
蛇人間の襲撃は、一匹や二匹という程度ではなかったのだ。突如として村に、未曾有の危機が迫ってきているということ。
メレアスは生まれてこの方、これほど明確な存亡の危機というものを体験したことがない。それはクレイオスとて同じだが、事態への覚悟の差は歴然としていた。
そんな状況へ、村随一の狩人たるクレイオスは行かなければならない。狩人として村を守る役目があるからだ。
故に、彼はここを
「お前は、このままミーナを連れてカマッサのところへ行け。何かあれば、みんなあそこへ逃げることになってる」
「で、でも――」
「狩人になりたいなら、これくらいやってみせろ。ミーナを、守れ」
そんなクレイオスの頼みに、メレアスは弱気を見せかける。しかし、クレイオスは薄い笑みを浮かべて、そんな少年に発破をかけた。言外に、お前しか頼れる者は居ない、期待しているんだぞ、と。
憧れの対象である青年からの信頼に、うつむきかけた少年の顔が跳ね上がり、その瞳に力強さが戻る。そして、僅かな逡巡を振り切ってこくりと頷きを返し、クレイオスが離れるのと同時に背中の弓を手に取った。
その様を見て、クレイオスは薄い笑みを浮かべた。悲しみに暮れるミーナを歩かせるのは大変だろうが、それでもやってもらわなければならない。
そして彼女に声をかけるメレアスを背にして、クレイオスは躊躇なく家を飛び出る。
思考と視線は、ただ前へ。サブラスを殺した代償は、高くつく――故に、村を襲う害獣を残らず狩りつくす覚悟と共に、狩人は走り出した。
✻
迸る白刃。
首を後方に引くことで鼻先を掠めていくそれを無視し、蛇人間が曲刀を引き戻す一瞬の空隙に槍を割り込ませる。突き込んだ穂先は蛇人間の鼻面から後頭部まで駆け抜け、一撃で絶命せしめた。
そのまま殺したバケモノに片足を叩きこんで穂先を抜きつつ、その勢いのまま後方にしゃがみながら振り返って石突を突き出す。同時、クレイオスの頭の上を曲刀が通り抜け、石突が後ろから迫っていた蛇人間の水月に突き刺さった。
勢いのまま振りぬけば、蛇人間は後方へ吹き飛んでいくが、大したダメージも感じさせずに軽やかに着地する。その隙に、別の蛇人間が左方よりクレイオスへと、上段から叩きつけるような斬閃を放った。
対し、クレイオスは振り上げるように槍を叩きつけて受け止め、互角の膂力によって鍔迫り合いが発生する。
停止する両者、しかし、そこに離れた別の一体が干渉すべく、懐に突っ込んだ手を勢いよく薙ぎ払った。
転瞬、クレイオスの視界の端に、迫る銀光が映り込む。
それに反応して膝から落ちるようにしてしゃがみこめば、頭の上を何かが通り過ぎて行った。それによって青年がどうにか投擲を回避したのも束の間、目の前の蛇人間は剣と槍を交差させたまま、抑え込むように剣を押し付けてくる。
結果、逃げられないクレイオスに、投擲してきた一体と石突で殴り飛ばした一体が左右から曲刀を構えて迫った。
それを見てとったクレイオスは、即座に片足を地面に滑らせるような動きで円弧を描き、目の前の蛇人間の脚を刈り取って足払い。すッ転ぶバケモノの頭部に穂先を突き立て、確実に殺しながら地面に磔にした。
それと同時に殺した蛇人間の握っていた曲刀を、脚で思い切り蹴り飛ばす。蹴撃によって白刃は一方の蛇人間に飛来し、それを慌てて弾き飛ばす動きによって、その一体に数歩分の遅れが発生した。
これによって同時挟撃を防いだクレイオスは、即座に槍を引き抜いて振り返りながら一閃。薙ぎ払われる槍は迫っていた蛇人間の曲刀と激突し、甲高い音を撒き散らしながら再び両者が停止する。
が、今度はクレイオスがすぐに槍を手繰り、曲刀に絡ませるようにして下方へ抑え込んだ。
力のベクトルが変わったことに慌てて対応せんとする蛇人間の顔面に、クレイオスは左拳を一閃。鼻面にぶち当たった拳は、衝撃を受け流されて有効打にならないまでも、蛇人間に混乱を引き起こす。
その隙に、クレイオスが跳ね上げた穂先は敵の喉を貫いて穴を穿ち、その抵抗力と命を奪い取った。同時にその三本指から曲刀を引き剥がし、手中に収める。
そして振り返れば、すぐそこに迫る最後の一体。そいつに間髪入れず槍を叩きつけるも、曲刀を立ててしっかりと受け止められる――が、しかしクレイオスの狙いはその次で、左手に握った曲刀を即座に突き出していた。
防御もできない状況で無防備な腹を狙う刺突に、たまらず後退する蛇人間だが、クレイオスは容赦なく追撃すべくさらに踏み込んで、鋭い槍の一閃を放った。
それを蛇人間は曲刀のすくい上げる斬撃でかちあげ、弾き飛ばす。しかしその時、紅蓮の狩人は既に至近距離から手首のスナップのみを利用し、曲刀を鋭く投擲していた。
飛来する白刃は、曲刀を引き戻す暇のない蛇人間の腹部に直撃。しかし十分な威力が足らずに、浅く突き立った。
だが、それは僅かなりとも蛇人間に動揺を引き起こし、構えに隙が生じる。
それを見逃すクレイオスではない。乱れた防御の間隙を狙って、力強く踏み込んだ全力の一閃を放った。
その刺突は曲刀を盾にせんとした蛇人間の防御の下を掻い潜り、腹部に着弾。鱗を突き破って穴を穿ち、蛇人間が激痛に苦悶の声をあげる。
しかし、悲鳴をあげられるということはまだ仕留めていない。それを理解したクレイオスは、即座に蛇人間の脇腹に突き立つ曲刀を引き抜き、アッパーカットの要領で蛇頭を下から突き上げるように刺し貫いた。その一撃でようやく、蛇人間は息の根を絶った。
崩れ落ち、倒れ込む蛇人間。それを前にしながら周囲を見回し、他に隠れ潜んでいる敵が居ないことを確認してから、クレイオスは倉庫に隠れていた村人たちが恐る恐るこちらを見ているのに気づく。無事な人間が居たようだ。
荒い息を整えながら、クレイオスは端的に告げた。
「はやく、カマッサのところへ行くぞ」
「あ、ああ!」
クレイオスの言葉にハッとしたように首を上下させた村人たちが走り出すのを見て、青年も後を追うように駆けだす。
クレイオスは既に村の南端から北端まで駆け抜けており、恐らくこれが北部に残っていた最後の村人たちだ。
片っ端から襲われている人々を助けて回ったため、数えてはいないが、かなりの数の蛇人間がカーマソス村を襲っていたようだったのは辛うじて理解できる。想定以上の軍勢だ。
そのいずれもがクレイオスと同等の膂力をもっており、剣術もまた優れたものだった。それらに勝てたのはクレイオスが容赦なく不意打ちや奇策を用いた上、相手に油断が多く見られたおかげだ。槍と曲刀というリーチと威力の差もある。
それでも、無傷で全てに勝利できたわけではなく、背中に一撃、左上腕に一撃、胸に浅い二撃をもらってしまっている。いずれも行動不能に至るほどではないが、久しぶりの負傷にクレイオスは顔から緊張を解けないでいた。
凄まじい身体能力をもつクレイオスでさえこうなのだから、他の村人が勝てるはずもない。
実際、駆け付けた時には手遅れの場合が多く、助けられなかった村人を多く看取ることになってしまった。
最期を迎えた冷たい顔が、今でも思い出せる。誰もが子供のころから知っている人たちで、誰もが優しいながらも大人として導いてくれた人々だった。無論、まだこれからがあったはずの幼子も骸を晒していたこともあった。
そのことが、胸の奥で強く燻る。救えなかった命、間に合わなかった命。
あまりに惜しく、そして悔しいが、今はそれ以上にやるべきことがある。割り切らねばならない。蛇人間の駆逐以上に、まずは生き残った村人を残らずカマッサのところに届けなければならないのだ。
だが一方で、先にカマッサのところに向かわせた村人たちは果たして無事に辿り着けただろうか。
より遠くに助けを求める村人が居たために数人のグループを作らせて護衛なしで向かわせてしまった人々が居るのだ。そこまでの道中の蛇人間は倒しきったから大丈夫とは思うが、不安はぬぐえない。
足の悪い祖父のことも心配だ。槍一本あれば足が動かなくとも熊を殺せるタグサムだが、蛇人間相手では分が悪い。そんな祖父の元へ向かうにも、まずカマッサの家の前を通る必要がある。
どうかみんな無事で居てくれ、という願いと共に、クレイオスは村人とカマッサの家を目指した。
道中、これまでクレイオスが倒して回ったおかげで敵はおらず、どうにか女神像のある広場を抜けて村長宅に到着した。
だが、そこで見えたのは、あちこちに倒れ伏す村の男たちの姿と、大量の矢を突き立てられている蛇人間たち。どう見ても戦場と化した後であり、そして終わった後だった。どちらも、赤と鉛の血を流して息絶えているからだ。
顔を上げれば、カマッサの家の屋根の上には座り込んでいるタグサムが見えた。向こうもクレイオスに気付いたのか、ゆっくりと立ち上がって声を張り上げる。
「クレイオス!」
「祖父さん、無事だったか!」
弓を手にしていたタグサムは孫の言葉に頷きを返した。どうやら、屋根の上から矢の雨を降らし、この蛇人間たちを撃退したらしい。
孫の無事を確認したタグサムは、ふらふらと危ない足取りながらも屋根の上から飛び降り、転がるように着地する。そして怪我もなく立ち上がり、クレイオスに歩み寄りながらしわの多い顔を更にしわだらけにして舌打ちした。
「クソッタレ。わらわらと
「……そのようだな。遅れてすまない」
「けっ。全くだ」
周囲を見ながら、多く死んでしまっている男たちにクレイオスは顔を歪める。
もっと急げば助けられたかもしれない命だった。
そんな思いを言葉にする彼を、慰めることもせずにタグサムは事実のままそれを認め、乱暴に吐き捨てる。
クレイオスが村中駆け回って人々を助けた一方で、ここでは多くの村人が死んだ。始めからここに向かっていればここで死んだ人は助かっただろうが、逆に逃げ遅れていた人々は死んでしまっていただろう。
これではどうすればよかったのかわからない。
クレイオスにはやるべきこと、為すべきことが明確にわかっていたが、その選択を間違えないわけではないのだ。
感情の薄いクレイオスの面貌に、苛立ちと困惑、迷いが渦巻く。目を細め、眉間に渓谷を刻んで周囲の死した村人たちを静かに見渡した。
そんな、後悔のような感情を珍しく表情に浮かべる孫に、祖父はため息を吐いてその胸を小突く。
「思い上がるんじゃねえぜ、小僧がよ。ちょっとばかし強えくらいで、何でもできる、誰でも救えるだなんて思わねえことだ」
「…………」
「お前が他の連中を助けたおかげで、ここも助かった。それでいいじゃねえか。特に、弟子にしたあのメレアスって餓鬼、良い弓の腕してたぜ。何匹も仕留めたんだ。だからよ、まずは死なせちまった数より、そうやって救えた命を誇りな。その後で、死んじまった奴らに頭下げとけ」
沈黙するクレイオスに、タグサムは苦笑いを浮かべながら肩を竦めて言う。それは年長者の、否、祖父が孫を労わる言葉で、普段のタグサムからは決して出てこない言葉だった。
故にクレイオスは思わず瞠目して祖父の顔を見つめ、そして瞬刻目を閉じる。やがて彼の言葉を受け止めたクレイオスは、静かに頷きを返した。
「……ああ。わかった」
「だったらいい。で、アリーシャはどうした」
「なに? ここに居ないのか」
「あぁ?」
孫の返答に笑みを浮かべた祖父だが、その直後にアリーシャの行方を聞いて表情を曇らせた。それはクレイオスも同様で、両者ともにアリーシャの行方を知らないのだ。
顔を険しくしたタグサムが、周囲を見回しながら呟く。
「あの小娘、逃げ遅れたテンダルを助けてくる、つって飛び出したんだぞ。てっきりお前とどっかですれ違ってるかと思ってたが……」
「いや、見ていないぞ」
「おいおいおい、そりゃ――」
「く、クレイオス――ッ!」
クレイオスの返答を聞き、最悪の事態を想像したタグサムの言葉を遮って、悲鳴のような叫びが青年の背に突き刺さった。
クレイオスが振り返れば、あちこちを汚したテンダルが必死の形相で走ってきている。そんな彼に青年も駆けよれば、森番は正面衝突するのも厭わず、むしろそのまま縋りついて絶叫した。
「あ、あ、アリーがっ、アリーがッ!」
「どうした、何があった」
焦りを強く表面化させ、錯乱したようなテンダルの尋常でない様子に、クレイオスも落ち着かせるように彼の肩を掴んで問い質す。
それに対し、ボロボロと目尻から涙をこぼすテンダルは、喘ぐように息をしながら叫んだ。
「ば、バケモノどもに、アリーが連れて行かれたんだ! 私を庇って、気絶したアリーを、あいつらが、あいつらが――」
「――アリー、を?」
テンダルが告げたのは、最悪の事態。否、意味不明の事態だった。目についた人間を片端から殺しているといった有様の蛇人間どもが、アリーシャを生かしたまま連れて行ったというのだ。
その事実を聞き届けてから、呆然と呟くクレイオスはようやく周囲の状況に気付く。
そういえば、周囲から蛇人間の気配が一つとして残っていない。村人を探しまわっていそうなものを、全く感じ取れないのだ。
武器を作ってそれを技として振るう知性のある連中が、残らず去る理由など――何らかの目的を達したからに他ならない。
その事実に気付いたクレイオスは、背筋に怖気が走るのを感じ取る。
アリーシャを連れて行ったのはなぜだ?
いや、そもそも――アリーシャを、連れていくだと?
一拍の思考停止の後、クレイオスの胸中で爆発するように、何かの感情が燃え上がる。
目の前でその感情の発露を見たテンダルが、喉を詰まらせて凍り付いた。常は無愛想に表情を変えない青年の顔が、今この瞬間、燃え上がる激憤によって悪鬼の形相となっていたのである。
生まれてこの方、感情を派手に露出させたことのない青年にとって、これほどの激情は初めての感覚であり、とても制御できる代物ではなかった。
その感情の名は、憤怒。
抑えられぬ怒りが総身を逆立たせ、思考があっという間に白く染まる。
そして理由もわからないまま、クレイオスは己を突き動かす感情に身を任せ、次の瞬間には村の外へと走り出していた。
その背中にタグサムの制止の声がかかるも、もう遅い。既に青年の背中は、遠く小さく消えていった。
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