水曜日の夜に自分の部屋が空っぽだと気づいたこと。
「あんたは中国人かい?」
と、ミルドレットが尋ねた。
「いいえ、日本人です」
と、マキカは答える。
「へえ、そうかい。あたしの旦那は第二次大戦中に殺されたんだ。殺したのは、あんたの祖父かもしれないね」
そんなこと、あたしの知ったことかこのクソババア、とマキカは言わなかった。
「そうですか。戦争というのは残酷なものですね」
と、マキカは答えた。本当のことだ。
エルムバンク、と名のつけられたマキカの家はミルドレッドの家から歩いて10分ほどのところにある。19世紀の頭に建てられ、かつては大きなお屋敷だったものだが、現在では内部だけがいくつもの小さなアパートに分割されている。だれもが絵本で見たことのあるような、イギリスの家だ。蜂蜜色の石の外壁も美しく、マキカの窓からは近くの教会の鐘が見える。
初めて見たときに「ここに住む」とマキカは即決した。ギクシャクした結婚生活を終え、新しい生活をなんとか探そうとしていた頃のことだ。分譲用に改装されたばかりで、外側は古い家なのに、内側はまるで白い箱のようにからっぽなのがよかった。
屋根裏にある小さな自分の部屋に帰ると、マキカは真っ先にシャワーを浴びた。体中が埃っぽく、とにかく何もかもを洗い流したかった。
髪の毛を洗い、うがいをし、すべてがきれいになると、ようやく人心地がつく。丁寧にシャワーカーテンを引いておく。傍に寄せたままだとカビがはえる。古い家はカビが生えやすい。いろいろと手がかかる。
冷蔵庫から炭酸入りのミネラルウォーターを出すと、ソファに倒れ込んだ。ひどく疲れていた。
結局昼過ぎにサンディが来て、どう見ても不要な古新聞を4袋ほど持って行ったが、思うように作業は進まなかった。ミルドレッドは古新聞ですら捨てるのを嫌がったのだ。
「今は、すでにデータベース化が進んでいますから、同じ情報をオンラインで入手することができます」と、説得を始めたものの、「地方紙はオンラインになってないだろう。全国紙だって全部データベースになっているわけじゃないだろう」と反論された。一体どこでそんなマニアな情報を入手したのか、不思議で仕方がなかったが、よくよく聞くとサンディが同様の説得を過去に試みたのだという。(*1)そもそもミルドレッドの家はインターネットにつながっていなかった。(*2)
結局全国紙に限ってリサイクルに出す許可が出たのだが、大量にあるゴミの山を前に新聞をより分けるのは、少々、というかかなり心が折れそうになる作業だった。
そのままゴミに出したとしても馬鹿にならない作業量だ。どこかで大がかりに捨てる許可を得ないと、結局ミルドレッドは自分の一番大事な物を選び取る間もなくすべての所持物を失うことになる。
けれども。
あのゴミの山の中には、絶対にミルドレッドが捨てたくない物があるはずだった。家族の写真だとか大切な手紙だとか、そんなものが。捨ててしまったら取り返しのつかない物は誰にでもあるものだ。
今のミルドレッドが小さなトランク一つの私有物で暮らしているのであれば、確かに、他のすべてを処分してしまっても、彼女は生活できるのだろう。でも、それは何か違う気がした。
つまり、心のどこかで、マキカはミルドレッドのことが嫌いにはなれなかったのだ。洞窟のような家に住む、奇妙にかっちりとした老女。唇をきりっと結ぶ表情も、口の悪いところも嫌いではなかった。カチンとくることこそあったが。
物をため込む人間に完璧主義者が多いのを知ったのは、随分後になってからのことだったが、マキカにはミルドレッドはただ単に「片付けられない」以上の問題を何か抱えているように見えた。
「あ、そうだ」
ふと思いつくと、マキカは、弾みをつけてソファから立ち上がり、テーブルの上のラップトップコンピュータを開けた。
依頼人ファイル、と名前を付けて新しいドキュメントファイルを作る。前回は必要なかったけれど、今回は情報を整理する必要があるかもしれない。
Mildred Gray
Address 4Acorn Place, Addington
Age 80
少し悩んでから、言語を基本日本語にすることにした。
ここには気づいたことをすべて書くことになる。もしも人の目に触れるようなことがあっても、すぐに情報が漏れないようになっていれば、安心して気づいたことを書いておける。
<結婚相手を第二次世界大戦で失う。戦後は教師として働いた。現在の家は両親の家であり、両親は家で看取った。両親は厳格だったが、愛されていたと思う。父親も教師だった>
思いつくままに今日の会話から学んだことを書いていく。
<戦争中は薬剤師の手伝いとして働いていた。リーズで暮らしていたが、戦後教師になった時に帰ってきた。両親が年をとったのも理由の一つだ。アディントンで長年小学校の教師をつとめる。兄弟はいたが、もう皆他界している……>
ふと、マキカは手を止めた。
一体、いつミルドレッドの家は、あんな状態になったのだろう。
見るからに几帳面な彼女が、ある日「今日はもう、洗い物はできない」と思った日があったはずだった。
床に脱ぎ捨てた服を拾うことすらおっくうなぐらい、何もかもがどうでもよく思える日が。
今日でさえ、新聞をより分けたあと、残った大量の地方紙をミルドレッドは丁寧に皺一つなくのばして、積み重ねようとしていた。散らかった環境が好きな人ではないのだ。
それでは、いつ、ミルドレッドの家は常軌を逸して行ったのだろう。
教師としての仕事を辞めた日か、両親を看取った日か。
夫が死んだ日、というのは考えにくかった。そのころのミルドレッドは20代の前半だったはずだ。まだ再婚を考えてもおかしくないくらいの年齢だ。
マキカは首を振ってファイルを保存すると、新聞をとりに立ち上がる。
明日の天気は晴れ。(*3)とりあえず明日は紅茶を水筒に入れて持って行こう、とマキカは決心する。
新聞紙を再生紙用の箱に入れ、自分の部屋をぐるりと見回して、マキカは苦笑した。
マキカの部屋は、あきれるほどがらんどうだった。引っ越してきた日から増えたものもわずかだった。観葉植物の一鉢もない、殺風景な部屋。
「私の部屋みたいに何も生きた物がないのも、問題か」
明日は長い一日になりそうだった。
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(*1)「マニアな情報」
その手のデータベースは、まだ大学等研究機関や報道機関で使われることの方が圧倒的に多かった。
(*2) 「インターネット」
まだ、電話線を使ってダイヤルアップをするのが主流でした。
(*3) 「明日の天気は晴れ」
イギリスの天気予報なので、「雨が降り、曇る時もあるが、1日の6割を超える時間帯において晴れであり、雹が降る可能性はゼロではない」と、正確には理解されるべき。
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