その金曜日がコスプレと恋バナで始まったこと。
もらった合い鍵を使おうとすると内側からドアが開いた。ぶわっと古くさい音楽が結構な音量で響く。スウィング・ジャズだ。グレン・ミラーだろうか。
マキカは耳を傾ける。有名な曲しか知らないが、これは聞いたことがあった。1940年代に
林檎の下には誰とも座らないで。僕以外の誰ともね。
なんてこったい。ミルドレッドは自宅内だけ時間を巻き戻すつもりだろうか。
「おはよう。ちょっとこれを外に出してくれるかい。今日は朝早く目が醒めちまってね」
口をぽかんと開けているマキカに向かって、きびきびと老女が指示を出した。頭には水玉のスカーフを巻いていて、前髪がくるんとカールしている。
うん、懸念は当たっていたようだ。どうやら第二次大戦下のコスプレが本日のテーマらしい。
「捨てるんじゃないよ、リサイクルするものだからね、そこにあるのは全部」
「
おどけて敬礼をしてのぞき込むと、居間にはビニール袋が小さな山を形成していた。マキカの口が再度ぽかんと開く。この家の住居内地形は変化が激しくて困る。
「昨日、サンディに電話をしたよ」
ミルドレッドは、身動きもせずにビニール袋の山を見つめるマキカの後ろで報告する。
「今日の午後、居間に掃除機をかける人をつれてきてくれるそうだ」
居間にしか入らないと約束してくれた、と、ミルドレッドは付け加えた。
「掃除のプロですね」
マキカは頷く。
グッジョブ、サンディ!
さすが陽気なヴィクトリア女王。仕事が早い。
そうだよ、プロだ。とミルドレッドは満足げに頷く。
「だから、今日はホールウェイと、階段だけでも、その人が来る前に綺麗にしたい」
「わかりました」
異存のあるはずなどなかった。
不要な物を外に運び出すまではマキカとミルドレッドで何とかやっているけれど、過去3日間、それ以外は全く何もしていない。もちろん、被害が広がると困るので得体の知れない液体は見つけるたび拭き取っているが、埃もその他の汚れもそのままだ。掃除をするだけの余裕がないのだ。
片づけと掃除はよくセットで語られるが、厳密には別物である。
物を、ゴミ箱も含め、あるべき場所に戻すのが片づけであり、掃除はその上で家を清潔にすることだ。掃いたり、拭いたり、磨いたり。
誰かが来て、掃除をしてくれるというのはありがたかった。ぜひとも、この後も数回はきてほしい。
「でも……ミルドレッド、大丈夫ですか? 疲れていませんか?」
言うまでもなく他人を家にいれるというのは、ミルドレッドにとってはあまりにも大きなステップだ。過去10年以上、基本的にこの家にはミルドレッド以外の人間は足を踏み入れていないはずだから。ふと不安になって尋ねると、老女は唇を引き結んだまま首を横に振った。
「さっさと仕事にとっかかろう」
「あ、ちょっと待って、その前に」
マキカは、慌ててハンドバッグの中を探った。小さなリップパレットを出すと、一番赤い口紅をミルドレッドに見せる。
「勇気の赤いバッジが、1940年代コスプレの完成には必要です!」(*1)
「勇気の赤いバッジ!」
ミルドレッドが初めて破顔した。
「懐かしいねえ」
「『
「そうか。じゃあ、つけてもらおうかね。で……コスプレって何だい?」(*3)
「えっと……日本の伝統芸能——みたいなもの、です」
「そうなのかい?」
「はい。そんな感じのものです」
自信をもって、マキカは断言した。(*4)
「日本の女性は、かなりの割合で身につけている芸能です。他にはBLであるとか、同人誌といった伝統芸能もあります」
「……遠い文化から来たんだね、あんたは」
「文化の違いは、可愛いの前には無意味ですよ、ミルドレッド」
「美は義務だからね」
「そして可愛いは正義だからです」
真っ赤な口紅を塗った老女はマキカの見立て通りとても可愛らしかった。
ホールウェイに積みあがっている物の多くは、通常の家でも出入り口にたまりやすい物だった。靴。ダイレクトメール。コート。家に帰ってきて、ぽっとそこにおきそうな物だ。
ただし、量は尋常ではない。ビニール製のポンチョは少なくとも30枚あった。かかとのとれたハイヒールが5足。今のミルドレッドはもう、ハイヒールなど履いていないから、相当前のものだろう。穴のあいた長靴。大量のダイレクトメールと広告。イエローページ7冊。隙間に得体の知れない虫の死骸。ネズミの死骸も、数体。
あまり嬉しくないものも発掘された。まるまるそのまま手を着けられた様子のないスーパーの買い物袋がその筆頭だ。ヨーグルトや食パンがそのまま入っていた数年熟成物だ。食事をしようと持って帰り、そこに置き、何かの理由でそのままそこに置きっぱなしにしてしまったのだろう。
息を止め、手袋をしたままぐいっとゴミ袋につっこむ。「汚いゴミ処理女王選手権」があったら、マキカは2000年度ヨークシャーチャンピオンだ。口には出さないけれど。
とはいえ、それは大したことではないように思えた。
何年か前のある日、ミルドレッドは買ったばかりの食材を玄関に置きっぱなしにして、多分、ベッドに倒れ込んだ。
それを考えるとマキカの胸はぎゅうぎゅうと痛む。
大人としての義務感とアドレナリンだけで一日を乗り切らなければならないような季節が、誰にも時折巡ってくる。
そんなときには自分の体さえ、何かの機械のように思えてくる。
「何か食べなくては」と、スーパーで出来合いの総菜を買って帰り、それでも家のドアを閉めたとたん、糸が切れたように何もできなくなる、そんな日があることをマキカは知っていた。
確かに、知っていた。
ミルドレッドがその気になってくれたことで、作業は昨日までとは段違いにはかどった。ホールウェイの荷物はとりあえずすべてリサイクルとサンディの持って行くゴミにわかれ、家の前の道路においたスキップは、ほぼ満タンになった。
通常1回の改築で一杯になるものである。ミルドレッドの家から出た「乗用車に乗せるわけにいかないゴミ」は、それだけの量だった。袋の数をすべて記録しておいてギネスブックに送りたいようだなあ、とマキカがつぶやくと、ミルドレッドに「守秘義務!」と怒鳴られた。
老女は言葉少なく、真っ赤に塗った唇をきっと結んだまま、今までとはうって変わった様子でゴミの選別をしている。確かに有能な人なのだな、とマキカは横目で見ながら考える。選別の手がとてつもなく早かった。
「ミルドレッド?」
「なんだい?」
「ミルドレッドのだんなさんってどんな人でした?」
「──そうだねえ」
ミルドレッドはダイレクトメールをより分ける手を止めもせずに言った。
「結婚していた時期が短かったからね。どんな人だったんだろう」
自分の夫のことを「どんな人だったんだろう」というのもめちゃくちゃだ。マキカは思わず尋ねる。
「そんなに結婚期間が短かったんですか」
「戦争に行くことがわかってね。その前に結婚しようって言われたんだよ」
そうか。第二次大戦で戦死したと、確かに言っていた。出征前に思いを遂げたくて駆け込むように結婚したのだろう。日本にもあったと聞くけれど、イギリスにもあったのだ。
死を現実の可能性として目前にした人間の考えることなんて、どこの国でも似たようなものだ。
「何の冗談かと思ったんだけどね、プロポーズされたとき」
「冗談でそんなこと言わないでしょう」
「いや、レナードだったら言ったかもしれない」
マキカは若い日のミルドレッドを思い浮かべようとする。
かっちりとしたビクトリーロールに、木綿の糊がきいたワンピース。(*5)きっと真っ赤な口紅をしていたんだろうな。あの時代だもの。今は髪の毛も真っ白だけれど、多分、若い頃は豊かな栗色の髪だったんじゃないだろうか。
「結婚してくれ、って言われて、思わず、『は?何の冗談なの?』って聞き返したね」
「それ、レナードさん、結構かわいそうですね……」
思わずぽろっと言うとミルドレッドは、ちょっとびっくりした顔をした。
「──本当だ。でも年下だったしね。そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったんだよ。……考えてみれば、プロポーズって勇気のいることだよね」
考えなくても相当勇気のいることである。マキカは心底、見ず知らずのレナードさんに同情する。
その上、年下男性だったらしい。それなのに、これだけカチカチした弁の立つ女性にアタックしたのか。
「……結構なチャレンジャーですね、だんなさん。エベレストのそばに住んでたら、絶対頂上を目指すタイプですね」
「あんた、なにげに失礼だね」
ミルドレッドは、横目でマキカを睨みつけた。
「いやいや、恋はいつもチャレンジですよ」
マキカは軽く流して、出会いのきっかけは? と話を向けた。
「きっかけも何も」
老女は呆れたような声を出した。
「何を期待してるんだかわからんけど、あのころのアディントンは小さい町だったから、そりゃあもう小さい頃からお互い知っていてね」
相手が自分のことを異性として見てくれているんだと知ったらすぐ結婚して、すぐ出征で、そして戦死だよ。
「レナードはまだ18だった」
淡々と話を続けるミルドレッドの表情は、
「戦争がなかったら……」
マキカが口を開くと、老女はかぶせるように早口で言った。
「戦争がなかったら、そもそも結婚しなかったかもしれないね」
自分は慎重な方だから、出征が決まっていなかったら年下の男の子との結婚になんか踏み切れなかったかもしれない。
「それにしても何でこんなかわいげのない女に求婚したんだろうとは今でも思うけれど」
「あら、ミルドレッドは素敵ですよ」
マキカはいきおいこんだ。
「まあ、そりゃあ、ぶっきらぼうだし、頑固だし、意地の悪いことも言いますし、手の着けられないくらい完璧主義ですけど、基本、他人に寛容ですよね」
「……あんた、それ、全然誉める気がないだろう」
呆れたように言うミルドレッドの目は、ほんの少し柔らかかった。
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(*1) 「勇気の赤いバッジ」
The red badge of courage もともとはアメリカの小説家スティーブン・クレインの南北戦争を描いた小説のタイトル。(日本語題名は『赤い武功章』)それを転用して第二次世界大戦中はしばしば女性の赤い口紅をさして使われた言葉。
(*2)「美は義務」
Beauty is duty. ヒトラーが女性の化粧を嫌悪していたこともあり、イギリスの女性たちはことさら化粧をすることにこだわった。女性の美しさは国威発揚のため重要だとされていたが、戦争が厳しくなるにつれ、化粧品はほとんど手に入らなくなり、様々な代用品で試行錯誤しながら女性たちはいじましい努力を続けた。
(*3)「コスプレって何だい?」
コスプレ cosplayはすでに英語ですが、ミルドレッドの語彙にはありません。
この場で、よりふさわしいのは「仮装」fancy dress ではないかと思われます。
ちなみにfancy dressはイギリス固有の用語で、アメリカ人が聞くと単純に「ちょっときれいな服」のように聞こえるようです。
結果、アメリカ人がイギリスに来てfancy dress partyに招かれるとしばしば悲劇が起こります。逆もしかり。というか、逆の方が悲惨です。
(*4)「日本の伝統芸能」
嘘です。他人に誤解をされるのは嫌いなのに、誤解をさせるのは好きなマキカでした。
(*5)「ビクトリーロール」
大きなカールを多用した髪型です。もともとは飛行機の曲芸飛行の技の名前で、髪型でそれを再現しようという、スケールが大きいんだか小さいんだか、とりあえずお国のために頑張っているのはわかる、という感じのネーミングです。ちなみに、見た目は結構素敵。 https://en.wikipedia.org/wiki/Victory_rolls
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