金曜日に隣人愛の難しさを再認識したこと。

「少し疲れた」

 土気色の顔でミルドレッドが言ったのは、サンディが清掃人を連れてきてくれた直後だった。

「横になりたいんだけど……」と、言ってから、ミルドレッドは困惑したような視線をマキカに投げる。

 寝室は二階だが、二階にはまだ手をつけていない。散らかったままの惨状を誰にも見られたくないのだ。

「しばらく私の車の後部座席に座っていますか? ソファの埃だけでもとってもらってから、ここのソファで横になるのはどうでしょう?」

「……掃除の邪魔にならないかね」

 清掃人は、ショッキングピンクの髪をした20代に入ったばかりぐらいの女性で、見た目はまるでナイトクラブに繰り出す直前といった風情だったが、大丈夫ですよ、と真面目な顔で請け負った。ちょっと埃っぽいかもしれませんが。



「私じゃダメだったの。無理やり片付けようとして、怒らせちゃったのよ。もっと早くにあなたに頼めば良かった」

 サンディがそう言ったのはミルドレッドが眠った後だ。

 綺麗になったソファに横たわるとミルドレッドは、すっと意識を手放した。

 眠ったというよりも、気絶したみたいに見える。喋ったり動いたりしていないと、ミルドレッドの体はずいぶん小さかった。

 サンディは、そんな老女を心配そうに見つめ、マキカに進捗状況について尋ねた。

「率直に言えば、このままでは間に合いません」

 マキカは、ゴミ袋を片手にサンディの車へと向かいながら、キビキビと答えた。今日もずいぶんのゴミを処分する必要がある。

「仕事の量からすると、私とミルドレッドだけでは絶対に無理です。特にミルドレッドが持ちません。年齢的にも、多分、これまでで相当疲れているはずです」

「私ももっと一緒に手伝えればいいんだけど」

 サンディはぽつりと言った。

 本当にそうだ。マキカとしても、もう少し人手があったらどれだけ楽か、と思う。

「とてもお世話になった人なのよ……それで……あら、ちょっと待って、マキカ」

 突然サンディが急に顔を厳しくする。

 庭の柵越しに50がらみの男が覗き込んでいた。隣の家の住人だ。薄い髪の毛をなでつけていて、大きなビール腹。茶色のフリースを着ている。

「何か用ですか?」

「グレイさん、亡くなったの?」

 ニヤニヤ笑いながら、茶色のフリースが嬉しそうに尋ねた。


 なんて言い方だろう!


 マキカがびっくりして口をパクパクさせていると、「違います」と、サンディが奇妙に柔らかい声を出した。

「ここにいるプロフェッショナル・オーガナイザーのマキカさんが、手伝ってくださることになったので片付けているんです」


「へええ」


 男は器用に片方の眉をあげた。


「なんだ、死んだんじゃないんだ。——死ぬまで片付かないだろうって半分覚悟はしてたけど。まあ、ネズミだのなんだのが来なくなるんだったらうちとしては同じことだけどね」

 ニヤニヤとした笑いが気に障った。ミルドレッドとの間に何があったのかはわからないが、これはあんまりだ。マキカは何か言おうと口をあけたが、声が出ない。喉の奥のほうがぎゅっと絞られるような感覚があった。

 とうとう声が出せた時、だから、それはマキカが意図していたよりもずっと鋭かった。

「……じゃ、ありません」

「え?」

 大きなサンディに気を取られて、後ろにいるマキカにはあまり注意を払っていなかったのだろう。男がたじろいだ。

「人がひとり、亡くなるのと、亡くならないのは、同じことじゃ、ありませんよね?」

 マキカは男をじっと見た。


 なんてこったい。


 壁を一枚隔てた隣で住んでいる人たちが、こんなにもミルドレッドに無関心なのか。心配するのではなく、邪魔者扱いするのか。

 ロンドンや東京のアパートではない。田舎の小さな都市だ。ここに住んで数年にしかならないマキカでさえ、道を歩いていれば知り合いに出会うくらいの。


「マキカ、落ち着いて。ビングリーさんたちだって、隣人の死を望むような方達じゃないでしょう。まさか」

 サンディがことさらにこやかに割って入った。

 そのアクセントが突然変わったことにマキカは気づく。

 RPだ。(*1)

 北部に特徴的なフラットな母音が消えて、イヤミなくらいに上流階級の英語で話すサンディがそこにいた。

 北部の普通のおばさんの英語ではなく、一昔前の政治家の、弁護士の、銀行家の、大学教授の、BBCのアナウンサーの——つまるところ、権力者の、声だった。サンディの声は——それが意図してなのかどうかはわからなかったが、突然権威を持った、マキカの知らない何かに変わっていた。


 しばしばイギリス人たちはどのようなアクセントで話すかで相手の社会的地位を瞬時に品定めする。かつて食料雑貨商の娘として生まれた英国初の女性首相マーガレット・サッチャーは、オックスフォードで上流階級の喋り方を身につけ、政治家になってからもさらに話し方のレッスンを受けたという。声を低くするよう指導された結果、初当選当時は若々しい主婦のようなだったサッチャーの声は、どっしりとした、そして調、政治家の声に変わった。(*2)


 「来週の末までにはだいたい片付けを終わらせるつもりなんです。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いしますね?」

 にこやかに微笑みかけるサンディの目は全く笑っていない。気圧されたように、ビングリー氏が、「ああ」とも「もちろん」ともつかない返事をごにょごにょとした。

 その姿をしばらく見つめ、軽く頭を下げると、サンディは、その大きな体からは想像もつかないほど優雅なターンで、未だにもごもご口ごもる男に背を向けた。一瞬、ここはヨークシャーのゴミ屋敷ではなくモスクワのボリショイ劇場の『白鳥の湖』の舞台なのではないかと思われるくらい神がかったターンだった。


 「じゃ、行ってくるわ。マキカ、ミルドレッドをおねがい」

 硬い表情のまま、マキカが頷くと、ふっとサンディは顔をマキカの耳に近づける。

 「忘れちゃダメよ。Love thy neighbour汝の隣人を愛せ」(*3)


 それは、私じゃなくてぜひともまだらハゲ茶色フリースゲス野郎に言ってください、とマキカは思った。




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(*1)RP (Received Pronounciation)

 容認発音。もともとはイギリス南部の上流階級の発音だったものだが、イギリスの標準発音として長く認められていた。標準的な発音であっただけでなく、話者の社会的地位や教育レベルを示すものでもある。これは、主に19世紀から20世紀の前半を通じて全国的に裕福な階層の男性が寄宿学校に送られたため、地域発音を身につけなかったこととも関係する。

 2000年代では若い世代にはすでにそれほど当てはまるわけではないけれど、ミルドレッドやサンディの世代にとっては、十分 威力のある武器といえるかもしれない。

 ちなみに、階級の差と発音をテーマにした有名な映画が『マイフェアレディ』。


(*2)「声を低くするよう指導された」

 声が高いとそれだけで「媚びている」と見られたりするので注意が必要ではあります。


(*3)「汝の隣人を愛せ」

 聖書から。本当のパッセージは「隣人だけではなく敵も愛せ」みたいなことを言っているので、結構無理ゲーです。

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