金曜日の隣人にはいい人だっていること。

 もちろん、マキカは育ちの良い日本人女性だったので、家の中に入ってすぐに内心で隣人を罵倒したことをとても深く反省した。さすがにマリワナ海溝よりは浅いが、干潮時のラスケンタイアビーチくらいには深く青く。(*1)


 よく考えてみれば、隣人の冷淡さは、当然といえば当然なのだった。壁一枚を隔てた隣の家が、害虫や害獣の住処となっていたら、通常の神経を持った人間にとっては、控えめに言っても気持ち悪いだろう。その上、イギリスの住宅事情を考えるのであれば、現実的にミルドレッドは、ビングリー氏に相当の金銭的被害を与えていると考えるのが妥当だった。


 日本人は、しばしば忘れてしまいがちだが、イギリスの家は、よほどのことがない限り、値下がりしない。

 買った家に、細々こまごまと手を入れて、美しく住めば、買った時と同じ値段か、それ以上で売ることができる。だからこそ、イギリス人たちはDIYに熱をあげるし、実際家の売却は大抵老後の資金計画に入っているはずだ。

 子供がいる時には大きめの家で暮らし、子供が大学に入って家を出たら、DIYで内装を美しく変えて高く売り、その資金で、こぢんまりした老後の家を買う。余りは退職資金だ。

 しかし、誰がビングリー氏の家を買うだろう。なにせ、壁を隔てて隣はゴミ屋敷だ。出火の可能性も高いし、ネズミも虫も団体様で遊びに来るだろう。自分は将来まで見据えて家を買ったのに、気づいたら隣がゴミ屋敷になっており、相当値引きをしなくては売ることも叶わない、となれば、それは確かに腹も立つだろう。納得のいく話だ。(*2)


 5年前から来ているカウンシルの指導は、どう考えても、ビングリー氏の要請によるものだった。今回の最後通牒も、おそらく。

 「……『亡くなったの?』か。」

 下手をしたら、彼らは本当にミルドレッドが老衰で死ぬかどこかへ連れて行かれるのを心待ちにしていたのかもしれない。非常に気が重くなる話だけれど。

 キッチンのゴミ袋を仕分けながら、マキカはなんだか泣きたいような、わめき散らしたいような、なんとも言えない気持ちでため息をついた。




 

 とはいえ、ありがたいことに、掃除人としてやってきたトリシャは、マキカの心を明るくするくらい優秀だった。(*3)

 どのくらい優秀だったのか、というと、様々な悪条件を乗り越えて、一人で居間を埃一つない状態にした上で、ホールウェイに軽く掃除機をかけ、その上でビニールシートを敷くくらいの優秀さだった。何も言わなくても自分の車に掃除機やスチームクリーナーを含めた用具一式を持ってきていた。ただし、その全てがショッキングピンクだった。

 メーキャップもバッチリで、ふっくらした唇はつややかなピンクに塗られている。鼻には小さなピアス。ちなみにポニーテールにしてある髪の毛もピンクで、そばに行くとぷうんとタバコの匂いがした。

 ビニールシートも(これは無色だった——ありがたいことに)彼女の小さなピンクの車から出てきた。

 「これから他の部屋の片付けをするんですよね?こうしておかないと、いろいろこぼれたりしてまた汚れますから」

 言葉少なく説明する彼女は、いかにも北部の労働者階級出身の若い子、といった風情だったが、とにかく手際がよかった。少なくともマキカよりはずっと慣れている様子だ。

「こういうお家、普通の人が思っているより、いっぱいあるんですよぉ。とくにお年寄りだとか、事故にあって、突然障害を持たれた方とか、気づいたら自分ではどうしようもないくらいに汚れちゃっているっていう——すぐに体の調子が悪いからって割り切って、お掃除を外注すればいいんですけど。——ここのお家のひとも、あたしを気にしないでくれると、一緒に作業ができるんですけどね」

 マキカは曖昧に頷いた。ミルドレッドが、綺麗になった居間を喜ぶだろうということはわかっていた。けれど、トリシャを台所や二階に入れることにどんな顔をするのかはわからない。

「生きているひとのお家の掃除をしたのは初めてです」

 普段は葬儀屋から仕事が回ってくる、とトリシャは肩をすくめた。老人が多いアディントンでは、時折、お年寄りが亡くなった後、初めて縁者がやってきてその光景に唖然とすることがあるのだという。

 「……いいですね。生きてるひとの家の掃除って。頑張った結果を楽しんでもらえるし」

 想定外の比較対象だったが、まあ、聞いてみれば確かに、生きている相手のために掃除をするほうがずっと幸せな気分になれそうな気はする。

 「ちょっと休んできますけど、台所、作業が進んだら後でもう一度顔を出しましょうか?もちろん、その分のお金は払ってもらいますけど」

 トリシャはエプロンを外しながら尋ねた。

「あ、ありがとう!」

 マキカの声は思わず上ずった。手伝ってもらえることが、とにかく嬉しい。この家のゴミの山はさすがに一人で立ち向かうには大きすぎる。

「ま、あたしもご近所さんですし。それにこの後またマキカには仕事をもらうことになるかもしれませんし」

 トリシャは、事務的にそう言うと、ピンクのゴム手袋をバケツに放り込んだ。それから、にやっと笑った。

「それに——台所の汚れって、居間とはレベルが違うことが多いんですよねー」


 ぞくっ。

 思わず体が震えた。

 こういうのを武者震いというのだ、とマキカは自分に言い聞かせることにした。

 


 




 ===========

(*1)「マリワナ海溝」

 存在しません。


「干潮時のラスケンタイアビーチ」

 Luskentyre beach スコットランド、ハリス島にあるビーチ。どこまでも青く美しい浅瀬がずっとずっと続きます。


 つまり、マキカは全然反省していません。


(*2)「納得のいく話だ」

 だが、許さん。


(*3) 「トリシャ」

 Trisha と綴り、パトリシアの愛称。しかし、作者とは似ても似つかない。なぜならば作者は掃除が大嫌いだからです。

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