木曜日の夜に月を見たこと。


「……それで、あなたは心療内科案件だとおもっているの?」


 夜、安い赤ワインを片手にかけた電話の向こうで、友人の声は、いつものように落ち着いていた。マキカはその声にほっとする。


「うん。そうなんだけれど、相談の中身はそれではなくて」


 精神医学系で博士号を取得中のケイトとのつきあいは、これで5年程度だろうか。何度聞いても彼女の研究内容はよくわからないけれど、ケイトとの付き合いの中で学んだ事は多い。自分がそれまで思っていた以上に精神疾患はありふれたものだ、というのは、しっかりと叩き込まれた。


「とにかくものを溜め込んでしまう、ものを捨てる事に過剰なまでの恐怖心を覚える症状って、病名として確立されているか、ってことだけ、知りたかったの」


 ミルドレッド本人と顔を合わせた事もないケイトに、何かの判断ができるわけではない。ミルドレッドの承諾を得ずに詳細を話す事もできない。それでも、そうした病名があるかどうかを聞くぶんには、道義に反しはしないだろう。


「過剰なまでの恐怖心って、どんな感じで?」

「昨日も今日も、ゴミをそれなりに捨てたんだけど——でもゴミを出すときに顔が真っ青なんだよね。手もちょっと震えている。頭では、わかってるのよ、捨てなくちゃいけないって。でも、感情的には捨ててはいけないような気がしている……んだと思う」

 マキカは、ミルドレッドの様子を思い出しながら説明する。

「もうきれいになった手を何度も洗っちゃったりする症状、あるでしょう? あんな感じで、絶対に使わないっていうのはわかっているのに、捨てられないみたいな状態って言えば良いかしら。あの、手を何度も洗っちゃうのは何て言ったっけ」

「……手を洗うだけじゃないんだけど、そうね。強迫性障害ね。……ちょっと待ってくれる?」

 ケイトは電話線の向こうでなにやら物音を立てた。受話器を顎に挟んで歩いているようだ。ガサゴソと紙をめくるような音がする。

「あのね、今、DSM-IVを見ているんだけど」(*1)

「DSM-IV?」

「精神障害の診断と統計マニュアル、第4版。今年、文章の改定があるんでちょっと変わる予定——ていうか、もう改定あったのかな? ——ま、とにかく。えーとね、ここには精神疾患としての定義は、な。研究している大学や医療機関はどこかにありそうな気はするんだけど」

「そう……」

 マキカは肩を落とした。


 どんなに小さな扱いでも、精神疾患として認められているのであれば、GP医者から診断書をもらって、カウンシルと掛け合う事ができるのではないか、と昼間考えていたのだ。(*2)来週末までにあの家を綺麗にするというのは並大抵の仕事ではない。ミルドレッドも頑張ってはいるけれど、ゴミを捨てること自体がどれだけ精神的な負担なのかは、なんとなく感じとれた。現実的な片付けのタイムリミットも心配だが、ミルドレッドの精神状態も気になる。

 少しでも時間をもらって、カウンセリングでも治療でも受けながら、片付けていければいいのではないか、と思ったのだけれど、精神疾患として認知されていないのであれば、そのルートは断たれる。


「話を聞いた限りでは、マキカが強迫性障害に近いって言う理由はわかる。でも、なんとも言えないなあ。これはこれから研究が進む分野だと思う」


 すまなそうにケイトが言った。

 これから研究が進む、のでは、今80歳のミルドレッドには遅すぎる。考えたくはないが、彼女に残された時間はあまり多くない。それが10年であるのか、それより短いのか長いのかはわからないけれど、その最後の時間が、友人に囲まれた豊かなものになるのか、それとも孤独でつらいものになるのか、その分岐点にあの老女は立っている。


「あんまり私が言える事はないんだけど……」

 ケイトは静かに言う。

「でも、マキカ、あなたがそのひとの痛みに気づいてあげられたのはとても良いことなのよ。そして、そのひとが少しずつでもゴミが捨てていけているんだったら、本当に、もっと良い。あたし、あなたが、他人の面倒を見れるくらいまで回復したのが嬉しいわ」


 親友の言葉は胸にしみる。うふふ、とでも、うん、とでもない曖昧な声を出すと、遠くでケイトがくふふ、と笑った。


 離婚直後の私はひどかったもんな。ケイトは何度も夜通し話を聞いてくれた。


 マキカはワイングラスを手にしたまま窓の外を眺める。大きな満月がぽっかりと浮かんでいる。

 

 本当だろうか。

 

 本当にこれが、強迫性障害のようなものだったら、マキカがミルドレッドに日々迫っていることは、本当は、マキカが思うよりもずっと、ずっと、ひどいことなのではないだろうか。もしかしたら、マキカは、ミルドレッドを助けようと思うあまりに、かえって彼女を傷つけているのではないだろうか。

 精神疾患は、素人が簡単に見てわかるものではないし、診断をする気にもならなかったけれど、何かが心の奥に引っかかっていた。善意は時に相手を苦しめる。

 あの、ひどい離婚の直後、マキカを心配して食事をさせようとする人たちの善意の押し付けが、自分にとって、とてつもなく苦しかったように。





「ふう」

 古いグレン・ミラーのレコードをかけると、ミルドレッドは、スプリングのすっかりきいていないソファに、座り込んだ。

 昼間、綺麗に洗われた窓から、満月の光が差し込む。

 あの日本人の女の子が手伝って、この部屋は空っぽになった。

 壁紙は黄ばみ、ところどころ剥がれていたし、カーペットは埃を吸っている。ちょっと歩くだけで、もうもうと煙が立つくらいに。

 けれど、古いレコードプレーヤーとレコードが、今日の午後、もう何年も開けることのなかった戸棚の中から現れた。

  

 Don't sit under the apple tree

 With anyone else but me

 Anyone else but me

 Anyone else but me

 No! No! No!


 林檎の木の下には

 僕以外の誰とも座らないでね

 誰ともだよ

 誰ともだよ

 だめ!だめ!だめ!


 戦争に行く男が、国に残した恋人に書いた手紙、という体裁の歌だ。(*3)


「ああ、やんなっちゃうね」


 暗いせいで、月明かりに照らされた居間はまるで昔のようだった。


 ミルドレッドは、骨ばった手で顔を包み、泣いた。

 林檎の木の下には、僕以外の誰とも座らないでね。

 これと全く同じことを言った男がいた。もう二度と会うことのない夫だった。





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(*1)DSM-IV (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)

 アメリカ精神医学会が出している書籍。現在使われているDSM-5は、2013年に発表され、溜め込み症は精神疾患として定義づけられています。この作品に出てくるミルドレッドが溜め込み症に該当するかは作者にもわかりませんが、2017年現在だったらその可能性をまず調べられてしかるべきサポートを受けていたはずのケースです。

 もしも、家族やお友達が生活に支障をきたすようなレベルで「捨てられない」症状を示している場合、その可能性をご一考ください。単純に「掃除が下手」であるとか、「だらしない」以上の問題がある可能性があります。



(*2) GP

 General Practitioner 総合診療医。イギリスの医療では、何かあったらそれが外科でも内科でも、基本的にはGPに行く。GPは総合的な観点から薬を処方し、その手にあまるとみなした症状の場合のみ、専門医へと患者を送る。地域に密着した医療を行う事も特徴で、患者の心身の健康を総合的に把握できるという長所がある。とはいえ、イギリスの医療はすべて無料である事もあり、圧倒的にGPの数が足りず、なかなか予約が取れないなどの問題点もある。



(*3) Don't sit under the apple tree

 アメリカの歌手グレン・ミラーとアンドリューズシスターズが歌い第二次世界大戦中を通じてイギリス、アメリカの両方で愛された。

 https://www.youtube.com/watch?v=YcyiC79l910


 ちなみに元になった曲は、ピアノの練習曲として有名な民謡『ロングロングアゴー』です。

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