木曜日の午後にはスパゲッティの栽培を検討したこと。

「えっと……これは、なんでしょうか?」

 ソファの後ろの暖炉を目前にして、マキカは思わずつぶやいた。

「それはね、スパゲッティって物だよ。もしかして中国にはないかね?」

 しれっと、ミルドレッドが答えた。

「中国はどうかはわかりませんが、日本には、ありますね」

 マキカはゆっくりと言葉を選びながら答えた。このしつこい出身地の呼び間違いは絶対わざとだな。くそう、これからこっそり心の中でミルデューと呼んでやる。口には出さないけど。(*1)

「というよりも、私が知りたいのは、なぜ、スパゲッティの袋が大量に居間の暖炉の中にあるのか、なのですが……」

 マキカはおそるおそる一番上の袋をつまむ。賞味期限1987年12月。

 下の方の袋は──考えたくはないがネズミか何かにかじられたのだろう──開いていて、スパゲッティが散乱していた。さらに考えたくないが、何かの糞も。

「──廃棄しましょう。いいですか?」

「いや」

 ミルドレッドは首を横に振った。「これだって、挿し木にすれば増えるかもしれない」

「はい?」

 マキカは思わず大声を出した。

 ──挿し木、ですか?



 午後の片付けの駆け出しは順調だった。

 イングランドには珍しい真っ青な空の下、ミルドレットとマキカはピクニックブランケットを庭に敷いて、簡単な昼食をとった。ウェットティッシュで手を拭き、スコーンとポークパイ、イチゴにクロテッド・クリームを並べれば、ミルドレッドの表情が和らいだ。水筒から熱い紅茶を注ぎ、ほんの一時くつろいだ後、ミルドレッドはゴミ捨ての手伝いにやってきたサンディに、昼間の大きな「未定」衣料の山を、チャリティに持って行ってくれと頼んだ。何か決心ができたのだろう。にっこり請け負ったサンディが自家用車で往復すること5回。少なくとも居間は半分すっきりしはじめた。

 快挙である。

 さらに窓洗い業者がやってきて、大きなポールにつけられたブラシで窓をすべて外側から洗浄した。家に近づきすぎない洗浄の仕方にミルドレッドはいたく感心して、毎月一度来てくれるよう、その場で契約した。

 窓洗い業者が立ち去るのと引き替えに業務用スキップが到着。

 サンディに頼めないような汚いゴミを放り込む場所がとりあえずできた。

 順調だった。何もかもが、午前中とは打って変わって順調だった。

 そして、今。

 スパゲッティである。

 賞味期限1987年のスパゲッティで挿し木をする、とミルドレッドは胸を張っている。




 マキカは不本意ながら(埃だけの部屋のまっただ中で)深呼吸をした。きっと今マキカの肺には、埃だの黴の胞子だのがどどっと入り込んでいるに違いない。しかし。とはいえ。ここは気持ちを落ち着けねばならない。

「ミルドレッド」

「なんだい?」

「あなた、まさか1957年からずっとスパゲッティは木になるって思っていたんじゃないでしょうね?」

 老女は目をきらりと光らせた。

「──だとしたら、どうするね?」



 1957年4月1日。

 BBC(英国放送協会)は時事ドキュメンタリー番組『パノラマ』に、のどかな南スイスの村の様子を放映した。(*2)

「ここ、南スイスでのスパゲッティ栽培は、イタリアのように大がかりなものではなく家族単位の農園で行われています。本日はその収穫の様子をご覧ください」

 権威あるBBCの、権威ある番組『パノラマ』を、その日見た800万人の視聴者うち、一体どのくらいの人数が、すっかりスパゲッティ農園の話を信じ込んだのかは定かではない。

 ただわかるのは、これが戦後のイギリス最大のエイプリル・フールのジョークとして、半世紀近く経った2000年の現在でもしっかりイギリス人たちに記憶されていること。そしてもう一つ、番組の放映後にBBCが大量の電話を受け取ったことである。

 その多くは園芸愛好家からだった。

「一体どうすれば我が家でスパゲッティの木を育てられますか?」(*3)

 返事に困った電話口の女性たちはこう答えたという。

「トマトソースの瓶の中にスパゲッティをさしてみて、うまくいくよう祈るのはどうでしょう?」(*4)

 1週間後、イギリス各地で腐ったトマトソース瓶を両手に悲嘆にくれるイギリス人たちの姿が散見された。BBCの指導通り挿し木をしてみたのに、スパゲッティは発芽しなかったのだ。




 イギリス人たちがスパゲッティ農場の存在を信じ込んでしまったのには、それなりに理由がある。まず、とにかく圧倒的にタイミングが悪かった(あるいは良かった−−エイプリルフール番組作成者たちの立場に立つならば)。

 第二次大戦後もかなりの期間、イギリス国内での食料品の配給は続き、肉を含むすべての食品の配給が解かれたのは、番組放映のほんの3年前、1954年のことだった。

 第二次大戦前はパンやベーコンなど、極めて限られた食品しか口にしていなかった労働者階級が、海外からの救援物資も含め、あるものはなんでも食べなくてはならなかった配給を経てその味覚の幅を広げ、新たな食品に興味を示し始めていた1957年。パスタはまだまだ缶詰に入ってどこかから送られてくる異国の食べ物だったし、それが小麦粉と卵などで自宅でも作れるものだという知識もなかった。

 食品に関する知識はなくてもガーデニングはお手の物であるのも、またイギリス人で、スパゲッティが木であるという情報を知ってしまったら、それはもう自宅で育ててみなくてはならないと意気込む人間は後をたたなかった。

 食品に対する知識の欠如と、ガーデニングに対する有り余る熱意。1957年のスパゲッティ収穫ジョークは、イギリスの戦後を象徴するようなエピソードだ。



 マキカはミルドレッドの右手をとった。

「親愛なるミルドレッド。——あなたはおどろくかもしれませんが……」(*5)

「あ、スパゲッティが小麦粉からできるってことなら知ってるよ」

 マキカの台詞を遮ってミルドレッドはあきれたような顔をした。

「だって、ジェイミー・オリバーが『裸のシェフ』でしょっちゅうやってるじゃないか。……かわいいよね、あの子」(*6)

 からかわれた。

 しかも、確信犯だ。

 こんちくしょう。と、思う感情を押し殺して、マキカは尋ねる。

「てことは、捨ててもかまいませんね、このスパゲッティ?」

「埋め立て地で芽が出るかもしれないしね!」

 二人はほんの数秒、埋め立て地を一面埋め尽くすスパゲッティの木を想像した。5月の銀の月の光に照らされ、たわわに実り、風に揺れるスパゲッティ。

「……埋め立て地ですしね」

「収穫できても食べたくはないね」

 依頼人と意見が一致したのは良いことである、と、マキカは思うことにした。




====================

(*1)「ミルデュー」 

 ミルドレッドの愛称ではなくmildew( カビ)。フランスの社会学者でもない。


(*2)「BBC」

 NHKのようなものだが、やることはNHKよりぶっ飛んでる。


    「パノラマ」

 まだやってます。


(*3)「相談の電話」

 実話である。


(*4) 「トマトソースの瓶の中にスパゲッティをさしてみて、うまくいくよう祈るのはどうでしょう?」

 実話である。


ちなみにスパゲッティ収穫のビデオは現在ではYouTubeで見ることができます。ナレーターの声がとてもポッシュ(上流階級)です。 

https://www.youtube.com/watch?v=tVo_wkxH9dU



(*5)「親愛なるミルドレッド」

 Mildred, my dear. マキカはあまりにも学習能力が低いと言わざるをえません。



(*6)「裸のシェフ」「かわいいよね、あの子」

"The Naked Chef"  1999年から2001年までBBC2で放映された30分の料理番組。当時はいかにも普通の男の子という感じだったジェイミー・オリバーがシンプルで美味しい料理の作り方を教えるという筋立て。料理をする男性を増やそうというBBCの意図は見事にあたったが、副作用として中年女性が釣れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る