木曜日の午前に遺跡が発掘されたこと。
その朝、ミルドレッドは、わざわざ玄関のドアの前でマキカが来るのを待っていた。そして、ドアを開けるなり、「どうだ」と言いたげな表情で黒いビニール袋を二つ指さした。
「古新聞だよ」
「……ご自分で片付けたんですか!」
マキカはかなりびっくりして声を上げた。
「リサイクルだって言うからね。他人のためになるんだったらちょっとはがんばろうかと思って」
老女は怒ったように言った。
「すごいです。昨日は疲れていたでしょうに……」
マキカのねぎらいは心の底から出た物だった。
「年寄り扱いはよしとくれ」
ぶっきらぼうに話を打ち切るミルドレッドは表情を緩めなかった。
「まずは、リサイクルと寄付を徹底的にしていきたいのですが、どうでしょうか」
マキカはミルドレッドにそう切り出した。昨夜、依頼人ファイルを書いていてマキカが気づいたのは「捨てる」ことよりも「リサイクル」あるいは「寄付」のほうが、ミルドレッドには抵抗が少ないようだ、ということだった。
「ここにある物で、まだ使える物は、よければチャリティに持って行きたいと思うんです。そうすれば古着も、古い食器も、すべて誰か本当に必要にしている人の手に渡りますし──」
「売り上げのお金は困っている人のところへ行くんだね」
チャリティやボランティアの根付いた国の人間であるだけあって話は早かった。少なくとも理解の段階までは。
途上国への支援をするオックスファム、高齢者への支援をするエイジUK、心臓病関連の研究資金を出しているブリティッシュ・ハート・ファンデーション、癌治療研究の支援をするキャンサーリサーチUK。
アディントンには数々のチャリティショップがあり、古着や古本を売っている。時には掘り出し物のアンティークが出ることもある。
「一定以上の物品の寄付をするんであれば、ブリティッシュハートファンデーションは車を出して取りに来てくれるそうです。他のところも現在古着や古本を受け付けています」
最終的に決めるのはあなたですが、どうですか、せっかく私がいる間に人助けをするのは?
そう問いかけると、ミルドレッドは考えるような表情を見せる。
「人助けなんだね」
「はい、人助けです」
マキカは力強く頷いた。(*1)
表の庭に新聞紙の入った黒ビニール袋を出す。
今日の目標はできるだけ多くの物をリビングルームから出すことだ。とにかくホールウェイと、リビングがきれいになれば、もしかしたらミルドレッドはサンディか——そうでなくても、誰か他の人間の手助けを受け入れてくれるかもしれない。
今のミルドレッドがかたくなに他人の助けを退けている理由は明らかだった。──恥ずかしいからだ。こんなところで暮らしている自分を見られたくないからだ。
けれど、もしも、一階の居間だけでも綺麗になり、片づけのプロセスを「人助け」として受け入れることができるようになれば、多少の手助けを受け入れてくれるかもしれない。
この家をミルドレッドと自分だけで期限内に片付けることは、明らかに無理だった。できれば早めにもう数人手助けが必要なのだ。一刻も早く。
けれど、その段階に行く前に、ミルドレッドが他人を呼んでも大丈夫だと思えるような空間を作らなくてはならない。そしてそのためにはミルドレッド自身が自分から片づけをしようと思わなければならなかった。
チャリティへの寄付をすることでとりあえず話はついたものの、居間の片づけはなかなか進まなかった。
「この服は着ますか? 捨てますか? それともチャリティに出しますか?」
「……着るかもしれない」
「しれない、ではなくて、着ると思いますか」
怒ってはいけない。マキカは頭の中で繰り返す。
ここで自分で不必要な物を選択して捨てられるようにならなければ、たとえ今回マキカがそれなりに環境を整えてあげても、ミルドレッドの家はあっという間に元に戻るだろう。それではいけない。80歳の女性が、暖房もない家で、友人を招くこともできずに生きていくなんて正しいことだとはとても思えない。
「わからないよ。あんただって、将来何を着るかはわからないだろう?」
「私にはわかってますよ。とりあえず、基本ズボンを4本と、スカートを3枚とワンピースを3着、それにTシャツとブラウスとセーターをそれぞれ3着ずつしか持たないと決めていますから」
マキカは丁寧に服を開いて汚れをチェックする。淡いピンクのカーディガンだった。
「マキカ、あんた……相当変な人だと人から言われないかい?」
あなたに言われたくはない、とマキカは思ったが口には出さなかった。
「……この服、虫が食っていますよ」
「ある物を繕って使え! って言うじゃないか」(*2)
「第二次大戦中の標語を出されても・・・・・・ミルドレッド、これ、あなたのトランクに入れますか?」
「まさか!」
老女はあきれ返ったような顔をして首を横に振った。今、着ている服のトランクに入れたいほど好きなのではないらしい。たしかにとてもミルドレッドが気に入りそうもないような色合いで、しかもサイズは小柄なミルドレッドにさえ小さいように見える。
「それじゃあ」
捨てましょう、と言おうとすると、老女は先回りした。
「でも繕ったらまだ着れるし、着るかもしれないよ」
マキカはため息を押し殺す。一体、誰がこれを繕うというのか。繕ったとしても本当に着るのか。もしかして、床に山のように積まれた服をすべて着るつもりか。一日一着身につけても、数年かかりそうな山なのだが、何年計画なのか。もしかして、カーディガンを数着重ねて着るというような解決策も検討しているのだろうか。人間マトリョーシカを目指しているのか。
突っ込みたいことは山ほどあるが、ここで押し問答をするよりは、先に進んだ方がいい。本当はこういう服を捨てる覚悟ができるようであって欲しいのだけれど、明らかにミルドレッドはその段階にはなかった。
「それでは、とりあえず、未定の山を作っておきましょう。そこに入れておきますね」
あきらめてマキカは次の服を手に取る。「未定」山がどんどん大きくなっていくのはすでに決定事項のようだ。せめてもの反抗として未決定の衣類を「破損ないしは汚損した衣類の山」と「チャリティに出してもおかしくない衣類の山」に分ける。前者の山の方が圧倒的に大きかった。
整理作業はカタツムリの歩みもかくやというペースで進む。
それでも、虫食いや汚れがひどくて絶対に着れない服や、いつからあるのかわからない菓子の箱、古い雑誌類をゴミ袋で15袋ほど庭へ持ち出すと、リビングにはわずかながらもスペースができた。何よりも大きかったのはソファが発掘されたことだった。
ビクトリア朝の風情を残す重厚な布張りのソファーは、古代ギリシャの遺跡のように、積み重なったビニール袋の底から立ち上がり、その全容を目にしたとき、あまりの荘厳さにマキカは息を飲んだ。
スプリングは、もうとうの昔に駄目になっていて、布は埃にまみれていたが、精緻な彫りの施されたマホガニーの木工部分はボロ布で軽く拭くだけで艶やかな表情を見せた。さぞかし往年は大切にされていたのだろう。うっすらと緑色の残る布は、はげているけれど、ベルベットか何か、そんな材質だったのだろう。
「……懐かしいねえ」
小さな声でミルドレッドが言った。マキカの目にうつるよりも、明らかに多くのものを、老女の目は見ているようで、その表情は恍惚としている。
「父の母、私の祖母から受け継いだソファなんだよ、これは」
そう言うと、ミルドレッドはソファに腰掛けた。
埃がもうもうと立ち上がり、ミルドレッドとマキカは盛大に咳込む。
それでもその光景は美しかった。そのまま油絵にして「ミス・マープルごみ屋敷にてくつろぐ」とでも名前を付けてナショナルポートレートギャラリーにかけておきたいくらいだ。(*3)
窓から差し込む光にきらきらと輝く埃すら銀河にまたたく星屑を思い起こさせる。
「これ、布を張り替えて貰えばきっと生き返りますね。綺麗だっただろうな」
マキカはうっとりと、マホガニーの曲線をなぞる。これが、あれだけのゴミの下に埋もれていたなんて。
「このソファは父のお気に入りだった」
ミルドレッドはぽつっと言った。「私が子供だった頃は、客間なんて子供が入っていい場所じゃなくてね。12の誕生日に初めてこのソファに座ることを許された時には、そりゃあ、嬉しかった」
「特別な部屋だったんですね、ここは」
「そりゃあ、客間だったからね。窓から母さんが大事にしていた薔薇の花が見えて……」
つい、と、ミルドレッドはマキカから顔を背けた。
「もしも、今のあたしが、こんな生活をしてるって知ったら、あの人たち、どう思うだろう……」
老女の途方にくれたような小さな声が、マキカの耳に届いた。
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(*1) 「人助けです」
一番助かるのはミルドレッドだと思います。ミルドレッドは人ですから間違いではありません。
ちなみにチャリティ団体の車での収集サービスは地域によります。
(*2) 「あるものを繕って使え」
Make do and mend. 第二次大戦中にイギリス情報省が出版したパンフレットの題名。「欲しがりません勝つまでは」ぐらいには広く知られているフレーズです。
(*3) ナショナルポートレートギャラリー
National Portrait Gallery ロンドンの美術館であるナショナルギャラリーの肖像画部門。約1300点の肖像画を所蔵する。入場無料。
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