木曜日にみんなでお茶を飲んだこと。


「出来た。カウンシルの人間に文句なんか言わせない」


 ミルドレッドの手をとってトリシャが宣言したのが、木曜日の深夜だった。

 教え子たちが居間での選り分けを一通り終えた自分を囲んでいる。さすがに疲れた顔つきだった。見回すと全員、「絶対に大丈夫だ」という表情で頷く。ただ一人、実際に二階をまだ見ることができていないマキカだけが悔しそうな、そして幾分不安そうな顔をしていた。

 糸が切れたようにミルドレッドはソファに腰掛ける。

「本当に大丈夫だと思うかい?」

震える声で尋ねると、「大丈夫ですよ」と力強くみんなが答えた。



 地下室にはまだ捨てるべきかどうか決められないものの箱が積み上がっていたが、確かに住居スペースは驚くほど空っぽになった。

 昔、両親が使っていた古いベッドは——今では自分のベッドだったが——綺麗なシーツが敷かれ、皺一つなく、整えられた。何もかも埃が払われ、掃除機がかけられた。ベッドの上にものがないなんて何年ぶりだろう。真っ白な枕を持ち上げるとかすかにラベンダーの匂いがする。トリシャがポケットから小さなラベンダーオイルのスプレーを出して見せる。

「今日まで使うどころじゃなかったですからね。大盤振る舞いしちゃうよ!」

 あちらこちらでカビ落としに使った漂白剤の匂いがつぅんと鼻をついていたけれど、トリシャは心得たもので、徹底的に換気をしながら仕事をし、匂いが薄まった頃にはエッセンシャルオイルで部屋の匂いを整えていった。

「掃除するだけだったら洗剤の匂いでもいいけど、今日の夜はぐっすり眠って欲しいからねー」

 ぴょこぴょこ跳ねるピンクの髪。

 この子のジャケットは時々マリワナの匂いがする。掃除にせよ、売り子にせよ、あれだけ色々できるし、気もきくのに、多分何か落ち着かないところがあるんだろう。後で、誰もいないところを見計らってゆっくり話をしたいな。

 そんなことを頭のどこかで考えるミルドレッドは、退職して何年たっても、骨の髄まで教師だった。




「お茶を淹れましょう」

 サンディが、言う。

「いいねえ」

 誰もが頷く。紅茶とビスケットさえあれば、いくらだって働ける。




 教室。


 小さな町の、小さな小学校の小さな教室。

 子供達はそこにやってきて、育ち、学び、時にはミルドレッドに喧嘩を仕掛けた。どの子も面白かった。とてつもなく飲み込みの遅い子供も、とてつもなく小憎たらしい子供も、みんな例外なく面白かった。

 小さな町だから、小学校を卒業してもいくらでも街中で子供たちを見かけた。

 なんて幸運だったのだろう。

 文字を読んだり書いたりするのがとても苦手だったダンはテクニカルセカンダリーに行っても苦労していた。(*1) 飲み込みが悪いのではない。むしろ記憶力は人並み外れていい。手先も器用だ。ただ、文字に書かれたものがうまく読み取れないだけなのだ。卒業した後も時折ふらっと立ち寄ってはベーコンサンドイッチを食べて帰っていった。

 両親が共に酒癖が悪かったリチャード。親がアルコール依存症だとわかったら、引き離されてしまうんじゃないかと、子供ながら必死で親をかばっていた。馬鹿馬鹿しい喧嘩で相手に怪我をさせて、目をギラギラせさせてうちに相談に来たのだった——それが今では自分のビジネスを回している。

 たかだか10歳ぐらいのくせにいつも議論をふっかけてきたレベッカ。目の付け所が面白かった。やたら真面目なサンディ。あそこまで大きくなるとは思わなかった。いろいろな意味で。ちょっと大きくなりすぎだ。本当は色々できるのにひたすら内気だったオスカー。あれで弁護士ができるなんてびっくりだ。電気技師になったラファティはぶっきらぼうで誤解されがちだったけど、そりゃあ絵が上手だった。通学途中で見つけた鳥のひなを教室に持ってきて必死で面倒を見ていたマーガレット。死んでしまった時には教室のど真ん中で号泣した。今でも患者が死ぬたびに大泣きしていそうだ。そして、その他にも、そりゃあ、たくさんの子供たち。

 だから。

 だからきっと。

 仕事を辞めた日。

 母親の死後、ずっと後回しにしていた片付けに手をつけようとしたあの日。あの声が聞こえたのはきっと偶然ではなかったのだ。


 ——私はいつまで失い続けるんだろう?


 夫を。両親を。こよなく愛した仕事を。


 ——私は、一体いつまで失い続けなくてはならないんだろう。


 それほどに、失いたくないものだったのだ。物にすがってしまったのは、仕方がないことだった。悪いことではなかったのだ。でも、今だったら、別れることができる。サンディにもらったあのテディベアでさえ。綺麗にして、キスをして。ありがとうを言って——博物館でも、どこでもいい。手放せる。大切なものは、ちゃんと私の中にある。




「お茶をどうぞー」

 トリシャとサンディが色とりどりの「最高の先生」マグを持って居間に入ってきた。

「はい、どうぞ」

 隣に座っている東洋の小娘が紅茶を手渡す。


「——私の旦那は前の戦争で殺されたんだ」と紅茶を見つめてミルドレッドは言った。

「はい」と表情の読めない顔で小娘が頷く。

「殺したのはあんたの祖父かもしれないね」とミルドレッドは言ってみる。

「——戦争というのは残酷なものですね」小娘の表情はますます読めない。

「だけど」

 ミルドレッドは紅茶を一口飲む。

「そんな国からあんたがやってきて、失くしたと思ったものを全部見つけてくれるんだね」

 うふふ。

 両腕いっぱいに抱えた花束から、思わず花をこぼしてしまったような、そんな思いがけなさでプロフェッショナル・オーガナイザーは笑った。

「それは良かった」

「——悪くないね」

「悪くないですね」


 すべてが失われていて、すべてが失われていなかった。


 うん。悪くない。



 全く悪くない。





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(*1) テクニカルセカンダリー

 三分岐システムで、グラマースクールに行かなかった子供たちに実用的な技術を教える目的で作られた。

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