金曜日にお仕事を振り返ったこと。

 2017年5月19日金曜日、午前9時。

 マキカは、エルムバンクの新しい部屋で、クローゼットを開けた。

 仕事が順調に軌道に乗り、同じ建物内にもう一つフラットを買ったのが先月のことだ。今まで住んでいた小さな屋根裏のフラットは、今では事務所として活用している。大きな部屋へ引越しをしたのは、この5月で5年の付き合いになる恋人との結婚をそろそろ考え始めたからだ。20代の頃のような急いだ恋愛ではなく、ゆっくりゆっくり慎重に、今度の恋は進んでいる。

 うまくいかないかもしれない、と思うこともあるけれど、そんな時はミルドレッドが引用した言葉が頭の中に浮かんで来る。

 ——愛して失った方が、最初から一度も誰も愛さないよりずっとまし。

 今日伺うお宅は、手もつけられなくなってしまった物置小屋がある。絶対に汚れる仕事だから、服装はジーンズと、一見かっちり見えるとけれど汚れの目立たない淡い茶のシャツがいいだろうか。

 クライアントには、絶対に、恥ずかしい思いをさせてはいけない。

 ——愛することを、恐れるな。


 ミルドレッド・グレイは、マキカの人生を変えた。


 とてつもなく汚れたゴミ屋敷の片付けが終わったあと、何度かミルドレッドはマキカのセッションを受けた。主に自分の年齢を織り込んで、使いやすい収納システムを作るためのセッションだった。ミルドレッドが両親から受け継いだ古い家は、ヴィクトリア朝から代々手渡されてきた家具をどんどん脱ぎ捨て、みるみる間に彼女らしい家に変わっていった。いっそ、気持ちがいいほどの思い切りの良さだ。そんなミルドレッドとのやりとりの中で、マキカは多くのものを学んだ。

 2015年、ミルドレッドが逝去するまでの15年間、その家は彼女の安らぎの場であり、近所の人々が集う場であり続けた。


 ミルドレッド・グレイ。享年95歳。

「全くねえ、こんなに歳をとっちゃったら天国でレナードに会ってもわかってもらえなさそうだねえ」

「まあ、旦那さんなら大丈夫じゃないですか? どうも困難に立ち向かうのが好きそうな人だったみたいですし」

「マキカ、あんたも口が悪いよね」

 最後に会った時の会話まで、ミルドレッドらしかった。



 2004年。アメリカに遅れること四半世紀にして、イギリスにプロフェッショナルオーガナイザーの職業団体ができる。APDOである。ミルドレッドにお尻を叩かれるように、マキカは参加し、数々のトレーニングを受けることになる。(*1)

 その頃、トリシャが同様にトレーニングに参加し、マキカのビジネスに加わった。もう髪の毛はピンクではなくなり、代わりに燃えるような赤毛になっていた。心境の変化があったのかもしれない。原因はよくわからなかった。

 何もかもが手探りだったミルドレッドのケースから17年。業界自体のノウハウも蓄積され始め、仕事に対するアプローチもずいぶん変わった。一回あたりのお片づけでいただく金額も飛躍的に増えた。

 今ではミルドレッドの時のように1日つきっきりで片付けを手伝うことなどほとんどない。1日に2時間ほどのセッションを週に一度、数回続けるのがもっともスタンダードなパターンだろうか。1日に100ポンドの収入だった頃から比べると嘘のようだが、現在の相場は2時間で100ポンドだ。


 けれど、マキカにとって最も大きな意味のある変化は2013年にやってきた。


 アメリカ精神医学会が出しているDSM-5、すなわち『精神障害の診断と統計マニュアル第5版』が溜め込み症を、独立した精神疾患として認めたのである。それまでは当人の「だらしなさ」や「意思の弱さ」が問題だとされていたゴミ屋敷が、当人には簡単に治すことのできない精神疾患の現れなのだと初めて一般に認識されるきっかけとなった。

 研究も飛躍的に進みつつある。

 典型的なケースは50代の男性。しばしば家族の死や離婚など大きな喪失体験を持つとされるが、一体何が溜め込み障害を引き起こすのかについては未だ解明されていない。遺伝的な原因がある可能性もあり、研究論文は、門外漢のマキカが目を回すようなスピードで出版され続けている。


「かつては本人の性格の問題だとされてきたアルコール依存症も、今ではそれなりのルートで助けを求めれば正しく支援を受けることができます。それなのに私たちはゴミ屋敷を見て笑うばかりです。溜め込みが病気であること、それは当人にとって恥ではないことを広く周知させる必要があります——恥だと思っていると、当事者たちが必要な支援を受けられません」


 2013年、幾つかのテレビ番組が溜め込み症を取り上げた。テレビの画面に映された数多くのゴミ屋敷の様子に、マキカは釘付けになった。多くのモノに埋もれて苦しむ、かつてのミルドレッドがそこにいた。

 テレビ番組が放映されてまもなく、溜め込み症の人々と、その家族を支援するチャリティーが設立された。誰かが困っていると、人が集まって組織を作り、助けようとする。そんなところはとてもイギリスらしかった。マキカも、わずかながら毎月寄付をしている。




 2013年の決定を受けて、地方行政の態度も変わった。カウンシルからマキカのところに依頼が来るようになったのだ。

 西暦2000年、初めてマキカが依頼を受けた時、ミルドレッドは5年間ほど片付けるよう勧告を受け続け、その後に強制片付けの通知を受けたばかりだった。現在では、勧告とほぼ同時にマキカを含むこの地域のプロフェッショナル・オーガナイザーに連絡が来る。医師が、溜め込み症と診断すれば、もちろん、マキカたちプロフェッショナルオーガナイザーはカウンセラーや医師と連携をとりながら、仕事を進めていく。認知行動療法の有効性が認められ、医師たちがサポートをするが、実際に建物に入って片付けのノウハウを伝授するのは、しばしばマキカのような、「片付け」のスペシャリストだ。

 時には障害を持った人たちが、行政の金銭的支援を受けて、マキカたちに仕事を依頼するケースもある。プロフェッショナル・オーガナイザーの顧客の多くは裕福な共働き家庭だったが、エルムバンクは比較的、そういった「低所得だけれど本当に片付けの手伝いを必要とする人」たちのサポートに適した会社として、認識されつつあるようだ。

 他の会社には美大卒のデザイナー的なオーガナイザーもいたりするので、住み分けもできつつあるのかもしれない。

 17年は、本当に長い時間だったのだ。


 マキカの携帯から、『リンゴの樹の下に座らないで』が流れる。

 仕事だ。

 マキカの弾んだ声が電話に答える。


「はい。エルムバンクです。お片づけの依頼でしょうか?」


 忙しい1日が、また始まる。






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(*1) APDO Association of Professional Declutterers and Organisers

 プロフェッショナルオーガナイザー及び片付け屋協会 とでも訳せば良いでしょうか。でも、変ですね。「片付け屋」って。


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