その火曜日に大英上品老婦人標本と打ち合わせをしたこと。

 依頼人は、ミルドレッド・グレイと名乗った。(*1)


 教会のホール脇にある小部屋にマキカが膝を揃えて座っていると、やがて、一人の老婦人がサンディにつれられてちょこちょことした足取りで入ってきた。

 彼女がミルドレッドだった。


「はじめまして。マキカ・ケイです」

 マキカが笑顔を浮かべ、挨拶の手を差し伸べると、老女は立ち止まり、にこりともせずに握手した。



「覚えにくい名前ですね。……ミルドレッドです。よろしく」



 しょっぱなから、さらっとマキカに喧嘩を得るミルドレッドに、サンディが困ったような表情を浮かべる。


 「そうですね。よく言われます」

 マキカは、肩をすくめる。どっちにせよこちらの人に名前を一度で覚えてもらえた試しなどない。腹を立てるようなことではなかった。


 ミルドレッドはグレイという名の通りグレーの髪を後ろで引っ詰めにして、紺の小花柄のワンピースを身にまとっていた。


 濃紺のカーディガンには模造パールのボタンがついている。きっとワンピースの下の胸元には銀色の十字架がかかっているに違いない。確認してはいないがストッキングが肌の色よりもやや白く、足首のところで一本皺になっているのは確実だ。(*2)


 1950年代のイングランドのそこそこ上品なグランマ標本なんてものがあったら、そのまま第一級のサンプルになって大英博物館におさまりそうだった。


 大柄なサンディの隣にいるせいか随分小さく見えるが、座ると背筋はぴん、とまっすぐ延び、そのせいで背が高く見えた。


 鋭くとがらせた2Hの鉛筆を金属製の定規にあてて、すっと引いた線のような人だ、とマキカは思った。どこまでも硬質で、かっちりとした印象の女性だ。



 ミルドレッド・グレイには、どこか、生まれたときからこんな風にかっちりしていたのではないかと思わせる何かがあった。きっとゆりかごの柵の隙間が正しい間隔であるかを手で計るような正しくかっちりした赤ん坊だったにちがいない。そして、今は正しくもかっちりとしたグランマとしてマキカの前に座っている。とりあえず、



 サンディに勧められるまま明るい木目の木の椅子に腰掛けたミルドレッドは、マキカとは目を合わせず、硬い表情で目を閉じ、低く深い息を吐き出した。


 80歳だという。アディントン生まれのアディントン育ちで、20代の頃に数年、近隣の大都市、リーズで働いていた期間を除けば、生まれたときからほぼずっとこの教会に通い続けてきた。


 アディントンはそういう町だ。大概のアディントン生まれの人間は、若い頃一度この町を離れ、そして大概帰ってくる。


 帰ってくるチャンスは2回。子供を産むためと、死ぬため。


 老人ホームと保育園ナーサリーがこの町の二大産業だ。そういう意味で、生粋のアディントンの人々は極めて鮭に似ている。きっと、人生のある時期でアディントン生まれの人間には本能のささやきが聞こえるのだ。「子供が産まれるからアディントンに帰りなさい」であるとか「もう老い先短いのだから財産を処分してアディントンに老人ホームの部屋を買いなさい」であるとか。


 埼玉県春日部市出身のマキカには、残念ながらその声は聞こえない。もしかしたら、今、アディントンはせっせとマキカの身体に帰巣プログラムを埋め込んでいる最中なのかもしれない。知る術はなかったが。


 マキカはミルドレッドと教会で会ったことはなかったが、9時からの家族礼拝に来ているのだとサンディが説明した。家族礼拝は小さな子供でも集中できるように30分で終わる。体のつらい年齢になってからそちらに代えたのだという。合理的な考え方だ。


 こんな合理的な考え方ができる人間に「お片づけ」の手助けが必要だというのは、並大抵なことではない。考えてみれば、この時点ですでにマキカの脳内警報は鳴りっぱなしだった。15年以上たった今だって、この系統は丹田に力を入れるべき案件だ。



「ミルドレッド。マキカはお片づけのプロなのよ。プロフェッショナル・オーガナイザーなの」


 サンディは心なしか「プロ」を強調した。というか、こっそりマキカの職業を詐称している。マキカは断じてプロフェッショナルなんちゃらなどではなく、正確には「時々頼まれてお片づけの手伝いもする英日通訳及び翻訳家」だ。やたら長い職業名なのは認めるが。


 しかし、当然、サンディにはマキカの内心の声など届くわけもない。


「うちのクレアの片付けも随分手伝ってくれたの。クレアのおすみつきよ」

「……プロってことはお金がかかるんだろう?」

 ミルドレッドの声はしゃがれていた。


 訂正。彼女は「正しいイングランドのグランマ」ではない。ちょっと──というか、かなり東欧の魔女が入っているに違いない。


「ミルドレッド、それはこの間も話したけれど、が出し合うから」

 サンディがあわてたように口を挟む。



「……いくらかかるんだい?」

 サンディの視線が素早くミルドレッドとマキカの間を行ったり来たりする。



「一日あたり、100ポンドを最低ラインとしています。経費は別途お願いすることになります」


 マキカはここ数日考えていた条件を提示する。翻訳の仕事がスムーズに行っている日であれば、だいたい一日あたり150ポンド前後の稼ぎだ。それに比べればずっと少ない金額ではあるが、サンディの口振りでは予算はきつそうだった。


「経費っていうのは?」


「必要かどうかは分かりませんが、スキップを借りる必要があるかもしれません。(*3)それに、どの程度の物を処分するかは分かりませんが、何度もゴミ処理場を行ったり来たりすることになるようでしたらガソリン代ですとか、ゴミ袋代ですとか」

 クレアの時も、実はそちらに思ったよりもお金がかかったのだった。


「あ、あの、ゴミ処理場への運転は私が手伝えると思うわ。毎日1回──ミルドレッドがよければだけれど、車を出せるわよ?」

 サンディが口を挟む。



「──あんたに私のゴミを見られるのはぞっとしないね」

 ミルドレッドは、サンディの言葉を斬って捨てた。


「見えることがないよう、しっかりとゴミ袋に包むことはできますよ。せっかくサンディがそう言ってくれているのですから」

 マキカは口を挟む。何となく、サンディが「他の人にはお願いできない」と言った意味が分かってきたのだ。 

「お仕事として請け負うのであれば守秘義務も発生します。プライバシーを守るために最大限の努力をしますから、とにかく、お話をきかせてください」


 勘違いでなければ、おそらくこのあたりが問題だったのだろう。

 果たして、「守秘義務」の言葉が出たとたん、嫌みなくらい大きなため息をつくと、ミルドレッドは話し始めた。




 サンディが時折補足したものの、ミルドレッドの説明は明晰だった。


 自分は「ため込み屋ホーダー」なのだ、とミルドレッドは言う。物を捨てることができないのだと。


 日常生活に支障をきたさないのであれば、それはそれで良いのだろうが、家中にあふれかえった物はすでに生活空間を圧迫している。過去5年の間には何度か、カウンシルからの指導も入っている。(*4)


 ただ、実際にミルドレッドが重い腰を上げたのは、先週カウンシルから届いた一通の手紙のせいだった。ミルドレッドはハンドバッグから小さな封筒を出すと、サンディに手渡した。


 サンディは、手紙を封筒から取り出し、マキカに手渡す。


 手紙は素っ気ない文面でミルドレッドの家がネズミ等害虫害獣の発生源となっていることを指摘し、文面の期日までに自力で片づけが終わらない場合、カウンシルが職員を派遣し、強制的に片づけを行うと記されていた。


 片付け、といえば、聞こえは良いが、実際は、かなり無差別に家の中のものを捨てることになる、と、隣でサンディが補足する。


「──行政にそんなことができるのですか」

 マキカはびっくりして尋ねた。


「家の状態が本人、及び近隣の住人の福祉を著しく害していると認められる場合には」

 サンディが頷いた。


 つまりこの「イングランドの上品なグランマ標本」になりそうな老女の家はそこまで汚いということだ。

 信じがたいことではあるが。


 マキカは感情が目にでないよう、淡々とノートにメモをしていった。(*5)

「よろしければ、明日下見をさせてください。時間的な制約があるので、本当は複数人数で作業した方が良いんでしょうけれど、とりあえず私とあなたでどこまで出来そうか見ておかないと」

 マキカがそう言うと、老女は、ふん、と鼻を鳴らした。


 どうやら東欧の魔女になることに決めたらしい。








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(*1) 「ミルドレッド」

   1920年代には急速に廃れた名前なので、聞くと「わー、おばあさんだ」と思います。


(*2) 「ストッキングが肌の色よりもやや白く」  

   年齢が行くと、なぜか地肌の色よりも白いストッキングやファウンデーションを使い始める女性が増える現象に、誰か名前をつけてください。


(*3) 「スキップ」

   片足でリズミカルに跳躍することではなく、廃棄物入れコンテナ。家の前の道路に改築時等に置き、どんどんゴミを入れていき、終了時にクレーンのついたトラックでコンテナごと処理場に持っていきます。

 

(*4)「カウンシルからの指導」

    Council ここでは地方議会です。


(*5) 「感情が目にでないよう〜淡々と」

   日本人のお家芸ですが、イギリス人も得意なので、日本人とイギリス人が話し合っていると時々何が起きているのか全くわからなくなります。

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