金曜日の夕食は魚と決まっていること。
懐かしい夢を見た。
何か、最後の方に変なものも混じっていたような気がするけれど、夢の中のレナードは、今までになく鮮明だった。そうだ、たしかにあんな感じのトウモロコシの毛のような頭だった。相当ポマードをつけないとふわふわしてしまう髪の毛だった。そして、あんな風に、急にミルドレッドの至近距離に入ってきたのだった。全く警戒もさせずに。
家の中から古いものがどんどん出てくるせいだろうか。今週は、古い記憶が掘り起こされていくような感覚がある。右頬が冷たいな、と思って手を当てると濡れていた。泣いていたらしい。全く気づかなかった。
目をこすり、起き上がると、柔らかな複数人の笑い声が台所からこぼれてくるのが耳に入った。
頭がくらっとしたのはソファから体を急に起こしたせいなのか、それとも、自分の家の中では聞こえるはずのない他人の声にびっくりしたせいなのかはわからなかった。
「あ、目がさめたんですね」
蛍光灯の光に溢れたキッチンのドアを開けると、マキカが目を細めた。
「よかった。ちょうどお茶を入れたところなんです」
ベージュのリノリウムの床は水拭きの跡があり、つん、と消毒薬のような匂いがした。何もかもが綺麗に拭き清められ、目が痛くなるほど明るい。電灯を替えたのかもしれない。あまりにも現実味のない光景にミルドレッドは顔をしかめる。これは——なんだ?
小さな木製のテーブルには、今日来たばかりのピンクの髪の毛のトリシャと、ちょっと疲れた顔をしたサンディが座って、紙コップから紅茶を飲んでいた。トリシャの前にはポテトチップスの袋があったが、他には目につくビニール袋は一枚もない。流しのステンレスはピカピカに磨かれ、新しい白い電気ケトルが、カウンターの隅に置いてある。自分の目前にあるものが信じられず、ミルドレッドは、無表情なまま数回瞬いた。
確かに今朝、この部屋には誰も足を踏み入れることができなかったはずだ。テーブルの面あたりの高さまで色々なものが積み上がっていた。
「きれいになったでしょう」
サンディが同意を求めて笑いかける。
しかし、ミルドレッドは笑い返すどころではなかった。急速に何かが自分の中に湧き上がってきて、何を言っていいのかわからなかったのだ。
綺麗に片付いた台所を見たときの、ミルドレッドの最初の反応は、なによりもまず、困惑だった。
それから、怒り。裏切られたという思い。そして、どこからともなくこみ上げてくる、とてつもない不安。次に気づいたのは自分の体がガクガク震えていることだった。
「……あたしの物を、どうしたんだい? ここにあった物はどこへやったんだい?」
困惑したまま両手を動かすと、くしゃくしゃになった水玉のスカーフが頭から落ちた。
確かに今朝まで、キッチンにはうずたかく物が積まれていたはずだった。そして、あれは、確かに誰にも見られたくない惨状だった。羞恥心と怒りがないまぜになり、何を言っていいのかわからないまま、ミルドレッドは、日本人の小娘を睨みつけた。
「あんた、私のものを、どこへやっちまったんだい?」
よほどひどい形相だったらしい。部屋に最初からいた3人が、まるで銃でも向けられたかのように動きをとめた。マキカが、目を大きく見開いて、ミルドレッドを見つめている。
サンディが、がたっと音を立てて立ち上がった。
「ミルドレッド、さすがにそれは……」
何か言いかけるサンディを、マキカが片手で制した。
「心配させちゃったんですね、ごめんなさい。まずは、落ち着いてください。私以外は誰も、部屋が片付くまでは中に入っていないし、許可を得ていないものは捨てていません。私が捨てたのは、全国紙の古新聞と賞味期限が切れた食品とダイレクトメールだけです」
全国紙の古新聞と、賞味期限が切れた食品と、ダイレクトメール。
たしかに、すべて自分が許可を与えたものだった。自分が目を通さなかったのは事実で、台所があまりにもがらんとしていることに不安にはなったが、マキカは厳密には約束を破っていないのだ、とミルドレッドは気づく。
気づくと、ようやく息が吐けた。
「……他のものは」
「確認できるように地下室に運んであります」
だから、まずは座って、とマキカはミルドレッドを椅子へと導く。
気がつきませんでしたか、もう夜の9時なんですよ。
「マキカ。あんたにはわかってると思っていた。ここは、あたしの家なんだよ」
ミルドレッドはマキカに言われるままに、差し出された椅子に座った。急に肌寒く思えてブルッと震える。
「こんなに様子が変わってしまったので、心配させてしまったのですね……」
小さな声で言うマキカの目には真剣な後悔の表情があった。それではこの小娘は自分が何をしたのかわかっているのだ。ミルドレッドは歯ぎしりをしたいような気分になる。わかっていて、やったのだ。ひどい。
どこからともなく一つのセリフが頭の中に浮かんでくる。
<——私は一体いつまで失い続けるのだろう>
馴染みのあるセリフだった。ミルドレッドは必死にそのセリフを頭から追い出そうとする。この声に耳を貸してはいけない、と、かつての経験からわかっている。
言葉を無くして黙りこくるミルドレッドにマキカは頭を下げた。
「おっしゃる通り、ここはあなたの家なのに、こんなに急に見た目が変わるような片付け方をしてしまって、ごめんなさい。私のミスです」
「マキカは何も悪いことをしていないでしょう?」
サンディが後ろからとりなすように言った。
「いいえ、これは私のミスです」
ミルドレッドが口を開くより早くマキカが声を返した。
「この家はミルドレッドの家で、ミルドレッドは、今までも、とても真剣にお片づけに取り組んでいました。ですから、これは私が先走っちゃったんです。綺麗になった台所でミルドレッドとお茶が飲みたくて」
マキカは、つっと立ち上がるとティーバッグをマグカップに入れ、お湯を注いだ。
「寒いでしょう。お茶、ミルクとお砂糖入れますか?」
「ミルクだけ……」
ミルドレッドは頷く。確かにひどく喉が乾いてもいた。午後から夜までずっと眠り通しだったのだ。喉も乾く。
イギリス人は紅茶にレモンは入れない。アイスティーにすることも基本ない。手渡された何の変哲もないマグカップを、老女はまじまじと見つめた。
「……こんなカップが、出てきたのかい」
「ええ。『せんせいありがとう』だとか『大好きな先生』だとか、そんなのがついたマグカップが50個ほど。サイズや色は全部まちまちですけど」
マキカの返事には、なぜか嬉しそうな響きがあった。
「生徒さんたち、よほどミルドレッドが好きだったんですね。手書きの絵がついてるのもいっぱいありました。全部箱に入れて地下室に置いてあります。週末にゆっくり見ていただくといいかも」
「毎学期末に誰かしらからプレゼントをもらってたものねえ、先生は」
サンディが懐かしそうな顔をする。それから探るように、ミルドレッドを見た。
ミルドレッドは一口お茶を飲む。熱い。窓の外が真っ暗だということに今更ながら気づいた。
彼らがやったことは気に入らなかったが、こんな時間まで、自分のために働いてくれたのは事実だった。
綺麗になった台所は、よそよそしいような、懐かしいような、奇妙な空間だ。自宅のテーブルで、自分の家でお茶を飲むのは不思議な経験だった。本当に当たり前のことで、しかし、とても難しかったこと。
「……で、どうすんだい?」
この3人に悪気は全然ないのだと思ってしまうと、なぜだかイライラとした口調になった。
「え、どうするって……」
マキカが首をかしげる。
「あんたたち、夕飯は食べたのかい?」
3人は顔を見合わせた。
「私は軽くつまんだけど……」と、サンディがいえば、「そういえば、食べてなかった」と、マキカとトリシャは目をパチパチさせた。
「じゃあ、夕ご飯だ。マキカ、ちょっと悪いけど買いに行ってくれるかい?」
「はい……でも、何を?」
「金曜日だよ? 決まってるじゃないか」
ミルドレッドは大げさにため息をついてみせた。あまり守る人も今ではいないが、金曜日は、キリスト教では魚料理を食べる日だ。いい口実だった。
「スキプトンロードにあるフィッシュアンドチップスで魚を買ってきてくれ。みんなの分だ。あんた、私とお茶を飲みたかったんだろう?」
ぱあああっ!
マキカの表情が400ルクスぐらいは明るくなった。 (*1)
「今すぐ行ってきます!」
——私は、一体、いつまで失い続けるのだろう?
走り去るマキカの後ろ姿を見送るミルドレッドの頭の中に、さっきからの疑問がしつこく響き続けていた。
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(*1)「マキカの表情が400ルクスぐらいは明るくなった」
個人の感想です。
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