金曜日の深夜ミイラが燃えたこと。

 夜9時。誰もいない台所で冷めかけた紅茶を飲み干そうとしていたミルドレッドの耳が、奇妙な音を捉えた。

 何か唸るような音だ、と思った次の瞬間、緊張が背筋を駆け上った。

 ——空襲警報!

 しなくてはならないことは決まっていた。大慌てで 台所内の火の元を確認し、玄関近くのガスマスクをつかむ。

 廊下へ続くドアを開けると、すでにアパートの住人たちはバタバタと移動を始めていた。外からの騒音と張り合うような騒音は、慌てて物を落としたり、子供を起こしたりする人々が立てているものだった。

「空襲だね?」

「あの音はまだ警告ですね」

「防空壕へ」

「ガスマスクを忘れないで」

「子供と老人を先に連れて行きましょう」

 緊迫した声が飛び交う。リーズの中心にあるこのアパートに住んでいるのはほとんどが女と老人、そしてごくわずか、何らかの事情で疎開先から帰ってきている子供たちだ。 

 公務員や重工業に携わる壮年の男性も数人いないわけではなかったが、金曜日の夜だというのに見あたらなかった。夜間シフトで働いているのかもしれない。何らかの事情で戦場に行っていない男たちは全員例外なく、ひどく忙しかった。

 老人と子供たちの多くはすでに寝間着で、その上からガウンや外套をひっかけている。湯たんぽを抱きしめている者もいた。

 3月のヨークシャーは寒い。雪が降ってもおかしくない。

「明かりが漏れないように一人ずつ、カーテンを出て行って!」

 アパートの入り口にある分厚い黒いカーテンを一人ずつくぐり抜け、建物から退避していく。灯火管制は絶対だ。実際に空襲警報が鳴っている今、狙われるような光は一筋だって漏らしたくない。

「車に気をつけてね!」

 誰かが声をかけている。当然のことながら街灯はついていないし、車のヘッドライトは灯りが最低限になるようにカバーが付けられている。交通事故は深刻な危険性だった。

「母さん!」

 上の階のエルシーが母親のスカートの裾をつかんでいる。まだ6歳かそこらだ。周囲の緊迫した空気に怯えている。

「あたしも母さんと行く」

「エルシー。愛する娘スィートハート。母さんは救急車を運転しに行かなきゃいけないの。きっと必要になるわ。持ち場を離れるわけにはいかないのよ。ジョーンズさんのおじいちゃんとおばあちゃんと防空壕へ行きなさい」

 両頬へのキス。老夫妻が「行っておいで」と声をかける。エルシーちゃんの面倒はあたしたちがちゃあんと、見るから。心配するな。We're all in this togetherみんないっしょだ.

「すぐ帰ってくるから。いい子にしていてね」

 身を切られるような思いだろう、と、横目で母娘を見ながら、ミルドレッドも先を急ぐ。空襲が始まり、それがもしも大規模なものであれば──調剤室は忙しくなる。

 持ち場を離れるわけにはいかないのは、ミルドレッドも同じだ。

 誰もが誰か他の人間の命を預かっている。



 1941年3月14日金曜日、451機のドイツの爆撃機がブリテン諸島を目指した。そのうち40機の目標はイギリス北部の工業都市、リーズだった。中世からの歴史を持つ街であり、繊維産業だけでなく金融業の要ともなる街であり、ミルドレッドの小さなフラットがある場所であり、ミルドレッドとレナードが、ごく短い新婚の数ヶ月を過ごした街——だ。(*1)

 産業革命を支えた北部の大都市の一つ、リーズ。それ自体がこの地域の経済活動に大きな影響を持つだけでなく、周辺に軍需工場も多く、空襲の危険性はかねてから指摘されていた。むしろ今まで大規模な空襲がなかった方がおかしいのだ。産業都市の上空を覆い尽くす分厚いスモッグが、ドイツ空軍を追い払っているのだと、人々は笑い飛ばしてはいたが、誰一人としてそれを本気で信じているわけではなかった。

 恐れていた地方都市への空襲。何度となく訓練はされていた人々の行動は迅速だったが、一体どの規模の攻撃が行われるのか、この時点ではまだ想像もつかなかった。



「……明るい」

 薄暗いアパートのカーテンをくぐり、路上に出たミルドレッドは呆然と呟いた。灯火管制このかた夜には真っ暗になっていた大都市リーズが、明るい。19世紀の繁栄の中で建築された大きな建物のギリシャ風の装飾が、くっきりと見えるほど明るい。

 サーチライトが、暗い夜空を照らし出しているが、それだけではない。不自然に明るい。近くの建物の前に焼夷弾が落ちたのだ、と気づいたのは、砂袋を抱えた17歳前後の少年たちが隣の建物から駆け出してきたからだ。

「俺、こっちに行くから!」

 仲間たちと声をかけ、火を砂袋で叩いて消していく。

「……行かなきゃ」

 ミルドレッドは走り始める。行き先はリーズ総合病院。都市の中心部、大学や市庁舎にも近い。危険を顧みずに火を消そうとする人間たちがいるのであれば、けが人も絶対に出る。彼らが命を賭して火を消し、街を守るのであれば、病院で働くものは下働きの一人に至るまで、彼らの生命を守らなくてはならない。

 サイレンはなり続く。人々の怒号があちらこちらから上がる。夜だというのに多くの人間が制服のボタンを締めながらドアから飛び出して持ち場についていく。消火補助隊。セントジョンズ救急車。そして国防義勇軍テリトリアル・アーミー。(*2)

 絶対に標的になることはわかっている市庁舎とリーズ総合病院はすぐそばだ。博物館の横を駆け抜け、路線電車のルートを走って病院へたどり着く。まだ寒い季節だというのに、じきに外套の下の体は汗だくになった。

「ミルドレッド・グレイ到着いたしました。何でもご命令を!」

 誰もが動き回っている調剤室へ荒いままの息で声をかけると、すかさずずっしりと重い箱が手渡される。

「ありがとう。それを今すぐ救急病棟へ」

「了解」

 部屋を出るのと入れ違いに同僚が駆け込んでくる。慌てていたのだろう、口紅が少しはみ出している。

「マーガレット・サムズ、ただいま到着いたしました!」



 焼夷弾から始まった空襲は、夜がふけるにつれ、榴弾へと変わった。病院の外から聞こえてくる爆発音は苛烈を極め、灯火管制で閉じられているカーテンを開け、窓の外を見てみたい誘惑に、ミルドレッドは何度も駆られた。

「市庁舎の近くに爆弾が落ちた」

「駅がやられたって話よ」

 次々と運び込まれる負傷者と一緒にニュースが入ってくる。しかし、ミルドレッドを含め、病院の人間たちが一瞬手を止めたのは、一人の青年がひどい火傷とともに運び込まれた時だった。

「博物館が」

 博物館が。前面がごっそりやられた。展示物が。歴史と文化が。

「展示してあったミイラも多分……」

 そのニュースは、ひそひそと、速やかに、病院中を広がった。


 なぜ、それがそんなにショックだったのかはその時はわからなかった。ただ、火傷用の軟膏をつめていたミルドレッドは、ほんの一瞬意識を目前の仕事からそらした。

 そして、気づく。

 下腹部が、ひどく、痛かった。



「ミルドレッド!」

 焦ったような叫び声を同僚があげた。

 ミルドレッドの足元に、滴った血が、溜まっていた。







 =============

(*1)「フラット」

 イギリス英語で、アパートなどの生活用一居住区のこと。昔の大きなお屋敷などが小さなフラットに分けられてバラバラに売られていることもあるので、必ずしも日本やアメリカで想像する「アパートの一室」とはイメージが同じではないかも。


(*2)「国防義勇軍」

 Territorial army 正規の兵ではなく、志願した非常勤の兵からなる。第31対航空団(31st North Midland Anti-Aircraft Brigade) がリーズの空襲対策を担っていた。

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