土曜日のお昼にはライオンの目を撫でたこと。

 3月15日の朝3時10分に、空襲の明らかな終了が宣言されるまでに、約25トンの爆弾がリーズ市街に降り注いだ。最初の焼夷弾を主に消防団を狙って落としたドイツ空軍の作戦は成功だった。消防団の建物自体の消火に手間取らせることで消防機能の足止めをし、市内の主要な建築物へと標的を移す時間を稼いだのだった。

 死亡者は65名。うち、8名が児童。約100軒の家が全壊し、何らかの損傷を受けた家屋は4,600軒にのぼる。水道や電気、ガスなどのインフラは、当然のことながらそれよりも広範囲でとまり、復旧には時間がかかった。

 リーズの空襲は決して大きいものではなかった。リーズと同様イングランド北部に位置し、鉄鋼で有名な産業都市シェフィールドには同じ夜に83トンの爆弾が落とされている。さらにスコットランドのグラスゴーは同夜231トンの爆弾に見舞われた。比較して位置づけるのであれば、1941年3月14日の一連の攻撃の中でも、リーズ空襲は中規模のものに過ぎない。しかし、逃げようもなく巻き込まれ、家族を失った人間にとっては空襲の規模はあまり意味をもたない——300人の被害者の一人であろうと、10人の被害者のうちの一人であろうと、失われた一人は、家族にとってかけがえのないただ一人でしかありえない。それはどの国でも、どの時代でも。


 リーズ総合病院の救急科は14日夜から15日未明にかけて3回場所を移した。入り口近くが爆破されたからだ。最初の2回はミルドレッドの記憶にあるが、最後の1回はない。ミルドレッドは出血もあいまって半ば気を失うかのように眠っていた。ベッドはもう空いておらず、病院のすみのソファでガタガタと震えるミルドレッドに年配の看護婦が毛布をかけにきてくれたところまでは記憶にある。一貫して微笑みを絶やさなかったその親切な看護婦が、空襲の日の朝、すなわち金曜日の朝に一人息子の戦死の報を受けたばかりだったと知ったのは、ずいぶん後のことだ。


 唇を引きしめろ。(*1)


 何かあると、イギリス人たちはそう言う。「しっかりしろ」「気を強く持て」「感情を外に出すな」——そういった意味の全てが入った表現だ。なんて昔気質な、そしてなんて非人間的な言葉だろう、と苦笑しながらも、人々は日々その言葉を使う。ミルドレッドの周辺もまた同じ。唇を引きしめでもしなければやっていけないことが多すぎたのだ。

「まだ、動かない方がいいわ」

 まさしく他人の気づかぬところで、ぎゅうぎゅうに唇を引きしめていそうなその看護婦も、また、静かな微笑みをたたえたまま、土曜日の朝ミルドレッドに熱い紅茶を手渡した。

「流産てね、小さな出産みたいなものだから。陣痛みたいなものもあったでしょう——生理痛のすごく重いものみたいな」

 途中で言葉を変えたのは、ミルドレッドが出産も陣痛も経験していないと気づいたからのようだった。

「私……妊娠していたんですか」

 ミルドレッドは呆れて尋ねる。

 悲しみの感情は、なかった。

 ただただ、呆れ返っていた。よくもまあ、気づかなかったものだ。

 聞くまでもなく、答えはわかりきっていた。言われてみればここしばらく生理がないな、とは思っていたのだ。あまりにも忙しく、レナードの出征の後の感情の揺れも激しく、遅れても当然だと思ってしまっていただけで。

「そう。気づいていなかったの……」

 年配の女性は、ほんの少しだけ痛ましいものを見るような、そして同時に、いくばくか戸惑ったような目で、ミルドレッドを眺め、何か言いたげに口を開けた。それから思い直したらしく、口を閉じ、空になったカップを受け取ると踵を返した。人手が足りなかったのだ。


 ありがたかった。

 何か言われたら、感情がひどく揺れてしまったかもしれない。




 昼頃に、ミルドレッドの同僚が、サンドイッチを持って走ってきた。

「あのね、今日の夜なんだけど、私の家に来て泊まっていって。まだ、誰かそばについていた方がいいと思うし」

 バターの塗られていないぱさぱさのサンドイッチをゆっくりと食べているミルドレッドを心配げに見下ろして、同僚は申し出る。

 大丈夫よ、自分の面倒くらい自分で見れるわ。

 ミルドレッドが笑ってみせると、女友達の顔は少し困ったように歪んだ。

「昨日、爆弾が落ちたでしょう——あなたのフラットは、多分今帰っても、生活できる状態じゃないと思う」

 川と線路に挟まれた自分のアパートは全壊こそ免れたものの、内部がひどい破損状態にあると知らされて、ミルドレッドは瞬きをした。

 あれだけの爆撃だ。確かに少し考えればわかることだった。

 むしろ、なぜ、今まで自分の家が被害にあう可能性に思い至らなかったのだろう。


 しかし、それでは、家の中にあったものはほとんど壊れたと考えるべきなのか。


 実家の母が持たせてくれた皿であるとか、レナードと二人で選んだランプであるとか。彼がスケッチブックに描いてくれた下手くそな似顔絵は残っているだろうか。彼が置いていった小さなガラスの置物の猫は? ——彼が私と一緒にあの時間をすごしていた証拠は、果たしてどこかに、残っているだろうか。

 私の体の中に残っていた証拠は消えた。では、外にあった彼との日々の証拠は?

 戦地にいるレナードが、これほど恋しかったことはなかった。まるで二人で過ごした数ヶ月さえ現実味がなくなっていくようで、ひどく抱きしめてもらいたかった。


「——ありがとう。甘えてもいいかしら」

 頭の中をぐるぐると渦巻く疑問はあったが、ミルドレッドは機械的に礼を言う。

「当たり前よ」 

 友人は笑うと、ぎゅっとミルドレッドの肩を抱いた。今日は調剤室にこなくて良いって。午後になったら、車を出してもらえるっていうから、一緒に乗せてもらおう。すごいよ、みんな。復旧作業も頑張ってるし、道路もなんとかうちの辺りまで通れそうよ。3時ぐらいに迎えに来るからね。配給のとっておきのジャムを出すよ。




 昼食を食べ終えてしばらくした頃、二人連れの男性がやってきて、申し訳なさそうにソファを動かして良いか、と尋ねた。けが人がまだ運び込まれてきていて、ベッドが全然足りないのだという。もしも、もう動けるのであれば、ソファを明け渡してくれないか。

 ミルドレッドは頷くと立ち上がる。

 頭がくらっとしたけれど、歩けないほどではなかった。ちらりと、時計に目をやって、少し歩いてみよう、と決めた。

 病院の外がどうなっているのか、とても気になっていたのだ。




 リーズはその起源こそ中世にあるが、19世紀に大きく発展した街である。織物業が盛んになるにつれ、豊かになり大きな建物がそびえ立っていった。その多くが豪華な飾りを施され、世界の工場であったイギリスの繁栄を寿ぎ、絢爛をこぞっている——はずだった。それがミルドレッドの知るリーズだった。

 しかし病院から一歩出たミルドレッドを待っていたのは、鼻をつくような煙の匂いと埃だった。市民たちの誇りだった壮麗な建造物があちらこちらで半壊しているのを目にし、ミルドレッドは深く息を吸った。なるほど。病院の中にずっといたけれど、外はこうなっていたのか。

 下腹部にはまだだるい痛みがあり、「散歩」の足取りは重かった。もっとも、足元にはまだ思いもかけぬものが落ちていることがあり、それも進みの遅い理由の一つだったのだが。

 瓦礫の山の中を12歳前後の少年たちが走り回って何かを探していた。何を探しているの、と聞くと薬莢だという。

 ——榴散弾の薬莢が転がってるんだよ、誰が一番たくさん見つけられるのか探してるんだ。お姉ちゃん、昨日の夜、見たかい? すごかったぜ、俺、パブが真っ二つになるの、見ちゃったよ。

 子供達の声には、奇妙に明るく、スパーンと突き抜けたものがあった。恐怖をあまり感じていないような、何一つとして失っていないような明るさ。子供とはこれほどに明るいものなのか。こんな瓦礫の中でも。

 ——俺なんかさ、こっちがやり返し始めたから「ガンバレ!」って応援したら母ちゃんにげんこつ食らったよ。

 ——そりゃあ、当たり前だよ。サッカーの試合じゃないんだからさ。

 ——そういえば、博物館、前の方やられちゃったね。ミイラ大丈夫だったかな。

 ——三体もいるんだから、一つぐらい大丈夫かもよ。

 ——エジプトから来て、こんなところで燃やされるの、やだろうね。

 ——バカいってら! もう何千年前に死んでるんだからいやだも何もあったもんじゃないよ!


 本当だ。もう死んでいるものだ。でも、もう二度と手に入れることのできないものでもあるなあ、とミルドレッドはぼんやり思う。せめて一体でも無事であってくれれば良いのだけれど。

 「不発弾があるかもしれないよ。危ないから薬莢探しもほどほどにしときなさい」

 老婆心ながら注意すると、子供達は「はーい」と素直に声を揃えた。あまりにもお行儀がいいので絶対こいつら私がいなくなったらもう一度探し始めるな、とミルドレッドは苦笑した。

 


 病院のすぐ脇の通りには、ライオンの石像がある。

「あ。」

 思わず声が出た。全く傷ついていないように見えたからだ。

無事だったんだ。

 早足に歩み寄って——肩を落とす。傷ついていないように見えたライオンは顔の部分をごっそり破損していた。

「ここに目があったのにね」

呟きながらライオンを撫でる。遠目には全然傷ついていないように見えたんだけど。

そう呟くと、突然涙がぽろぽろこぼれた。




与えられていたと知ったのが、失った後だなんて、あんまりです。


——あんまりです。かみさま。


 

 







 ================

(*1)「唇を引きしめろ」

 Keep a stiff upper lip.  直訳すると、「上唇を固くしろ」であるとか「上唇を動かすな」なのだけれど、やろうとすると非常に変な顔になる。

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