日曜日に師弟愛を目の当たりにしてしまったこと。

「そうそう。あの子はデイムになったんだよね」

 背後から聞き慣れた声がして、マキカは振り返った。

「ここ、座っていいかい?」

 茶色の服を着たミルドレッドが、紅茶を片手に立っていた。

「どうぞ——初めまして」

 メガネの博物館マネージャーが微笑んだ。

「研究上の貢献が認められて叙勲されたのは、5年ぐらい前かね。知らなかったのかい? マキカ」

「知りませんでした……」

 騎士称号を叙勲された男性は騎士であり「サー」と呼ばれるが、女性は「デイム」と呼ばれる。一代限りの称号だ。女性の社会進出が進んでいるとはいえ、傑出した成果を出さないともらえない称号であるがゆえに、サーになっている男性の数のほうが、デイムになった女性の数よりも多く、マキカが見たデイムはサンディが初めてだった。

 びっくりだ。そんな珍しい生き物と知り合いだったなんて、パンダが家のそばに住んでいたのを突然知らされたぐらいにはびっくりだ。隣の家の飼い犬がやたら大きくて黒いなあと思っていたら熊だった、みたいな感じか。

「ていうか、サンディ、研究者だったんですか」

「早期引退を考えているみたいだけどね」

「私は引っ越してきた時に、他の方からデイム・サンディに紹介されて」

 ヴィッキーは3ヶ月前に引っ越してきたばかりだという。マキカは、数年前ひとりでぽつねんと教会に座っている時に声をかけられたのだ。もちろん、サンディは自分のことをデイムだなんて言いはしなかった。

 「うわぁ……」

 何を言っていいのかわからずに、口を開けたり閉めたりしていると、部屋の向こうの方で、年配の人々の集団と話をしていた当のサンディが、大きな体をゆっさゆっさと揺らしながらやってきて、マキカの肩を叩いた。

 「マキカ、いいかしら? ちょっと紹介したい人たちがいるの」

 サンディが来た方向に目をやったミルドレッドが、ちょっと顔をしかめた。

 「あんたたち、またつるんでるのかい?」

 「仲良しなんですよ。仲間に入れて欲しいですか?」

 サンディは、ミルドレッドの不機嫌そうな顔を気にも留めない様子で言い返すと、マキカの手をとった。

 「せかしてごめんなさいね。本礼拝が始まっちゃう前に紹介したいのよ」

 ふん、とミルドレッドは鼻をならした。

 「先生、もう少し素直になっても良いんですよ?」と、サンディは言った。



 

 「はじめまして。マキカです」

 そういうと、集団は少しざわつく。

 「はじめまして。お名前を覚えるのに時間がかかるかもしれない」

 「ご心配なく。みなさん苦労なさいます。私も人の名前を覚えるのが苦手で……覚えるまでに何回かお尋ねするかもしれません」

 「お国はどちらかな? 中国?」

 「日本です」

 6人の年配の男女に引き合わされ、口々に自己紹介をされ、握手を求められて、マキカは目を白黒させた。彼らはマキカの名前を覚えれば良いだけだが、マキカは全員の名前を覚えなくてはならないのだ。

 「マキカが、私がお願いしたプロフェッショナル・オーガナイザーなのよ」

 ・サンディは真面目な顔で説明した。

 「マキカ、こちらは出資者のみんな。全員ミルドレッドの教え子よ。私も含めて」

 医師。配管工。オーブン掃除の会社経営。電気技師。弁護士。ファイナンシャル・アドヴァイザー。

 誰もが50歳はすぎているだろう。何人かはそろそろ引退を考え始めてもおかしくない年齢のように見えた。

「香港でもきっと先生への感謝は大事にするだろう? 俺たちもミルドレッドにはとても世話になってね」と、配管工が言った。

「香港でどうかはよくわかりませんが、きっとそうでしょうね。日本でもそうです」

 マキカはゆっくりと訂正する。

「日本と香港は違う国だぜ、バカだな」と、オーブン掃除会社経営者が言った。

「桜が咲いているのが香港で、新幹線があるのが日本だよ」と電気技師が付け加えた。

「『紅楼夢』が香港で、『源氏物語』が日本よ」と、医師が肩をすくめる。

 どれも微妙に突っ込みどころがあったが、今はそれを言う時間はない。この4人の教育は絶対にどこかおかしい。あんたはいったいどんな教育をしたんだと、あとでミルドレッドに文句を言おう、と決めてから、マキカは、ミルドレッドも始終日本と中国をまぜこぜにしていることに思い当たった。くう。諸悪の根源はあそこだったか。あの教師にしてこの大人ありだ。

「とにかく、私たちは、みんなミルドレッドにとてもお世話になったのよ」

 ファイナンシャル・アドヴァイザーがイヤミなくらいのRP(容認発音)で口を挟む。どこかサンディに似ている。なんだろう。ヨークシャー出身の高学歴の人間はみんなしてRPの特訓でも受けているのだろうか。

「今、僕がカウンシルに交渉の手紙を書いています」と、弁護士が物腰柔らかく言った。彼には母音にしっかりヨークシャー訛りが残っていた。男性は例外なのかもしれない。

 「実際には、来週の月曜日までに家は綺麗になりそうなのかしら?」

 医師が首をかしげる。

「難しいです」

 マキカは素直に答える。

「一階はとりあえずある程度片付きましたが、二階が手付かずですし、現在は私とミルドレッドの二人だけで作業をしていますから、彼女が疲れて捨てるべきものの判断がつかなくなったらそれで作業は大幅に遅れることになります」

「疲れてきていそうなのね?」

 医者は、少し眉をひそめた。

「もう80歳の方ですから。——先週は驚くほど根をつめて作業をしましたけれど」

 ——私が先走ってしまったから、多少は進んだけれど、もうああいう片付け方はできないし、と声に出さずにマキカは思う。

 ファイナンシャル・アドヴァイザーがため息をついた。

「私たちね、一人100ポンドずつ出して、先生を助けようという話だったのよ」

 なるほど、突然いろいろと腑に落ちた。このままでは予算を大幅に上回る、ということだ。

 スキップを借りたり、クリーナーのトリシャを雇ったり、すでにミルドレッドの家の片付けは一人頭100ポンドでカバーできるような状態ではなくなっている。

「あ、誤解しないでください」

 弁護士が、マキカの表情に素早く反応した。

「お金が困っているんじゃないんです。際限なく上がられちゃ困りますが……そうではなくて——ミルドレッド先生ご自身が、一人頭100ポンド以上の支援は何があっても受けないと言い張っているんです」

「あの人もたいがい意地っ張りだからな」

 配管工が頭をかいた。

「けれど、ミルドレッドの経済状態では、おそらくこれ以上の出費は賄えないはずです」

 ファイナンシャル・アドヴァイザーが説明する。

「ボイラーの点検ぐらいだったら俺だってタダでやるけどさ、家も相当あっちこっちガタがきてんだろ?」

 配管工は電気技師に目をむけた。二人はおそらく最初からミルドレッドの家でタダ働きをするつもりだったのだろう。ただし、あの状態でミルドレッドが二人を家に入れたとは思えなかった。二人が教え子だったのならなおさら。

「気になっているのは二点です。まず来週の月曜日までになんとか片付けを終わらせるために、私たちに何かできることはあるのか。そしてもう一点は、なんとかして、ミルドレッドに私たちの支援を受け入れてもらえるよう説得をすることができるかどうか」

 弁護士は、そうまとめた。

「結局のところ—— いい先生を忘れる人なんていないんですよ」 (*1)

 そうそう、と教え子達は頷きあう。

 マキカにはかなり意外だった。そうか、ミルドレッドは「いい先生」だったのか。いや、そうじゃないかと思ってはいたのだけれど、そうか。本当にそうだったのか。



 それにしてもミルドレッドは、一体何をしたんだろう。

 これだけいい年をした人間が集まって、あの可愛げのない老女を助けようとしているなんて。

 本当に、一体何をしたんだろう。






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(*1)「いい先生を忘れる人なんていない」

 No-one forgets a good teacher.

 1997年、数々の有名人が別に有名でもない人の名前を一人一人上げていくテレビ広告がイギリスで打たれた。誰も聞いたことがないような名前がすべて上がったあと、真っ黒な画面には一文が浮かび上がった。「いい先生を忘れる人なんていない」

 教師になる人間を増やそうとするキャンペーンの一環で打たれたこの広告は、大きなインパクトを持ち、20年経った2017年現在でも、教育に携わる人間の口の端に登る。

 https://www.youtube.com/watch?v=IzuUumVHL1I





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