日曜日にヨークシャーテリアが戦ったこと。
「……ごめんなさい」
小さなサンディは頭を下げた。先生に叱られて何と言っていいのかわからなかったのだ。
ミルドレッド・グレイ先生は、栗色の、つややかな髪の毛を後ろで一つに束ねていて、とても厳しく見えた。
「謝ってほしいわけじゃないのよ」
かちこちに固まった小さなサンディの肩に手をおいてグレイ先生はため息をついた。
「どうして学校を休んでいるのか教えてちょうだいと言ったの」
ここ1週間、サンディはほとんど小学校に来ていない。何か言われるかとびくびくしていたら、案の定、授業を終えて帰り際に先生に捕まった。
1947年1月。歴史的な寒波がヨーロッパを襲った。
戦争でごっそりと国力を奪われたヨーロッパ各地に追い打ちをかけるような寒波だったが、おそらくこの寒波で最も被害を被ったのはイギリスだっただろう。労働党政権の下にあったイギリスでは、基幹産業の国営化が始まったばかりだった。
石炭の供給量を政府が読み間違えたのは、国営炭鉱の運営に慣れないがゆえのわかりやすいミスだったが、結果として極端な石炭不足がおきた。暖を取ることはおろか煮炊きにすら困窮する人々が出たのである。(*1)
大雪によって交通網が麻痺し、経済は混乱した。その上地面が凍りつくことでジャガイモを含む根菜が掘り出せなくなり、食糧不足が深刻な危険性として浮上した。この冬、収穫できずに破棄されたジャガイモは7万トンに登る。戦争以来初めて、ジャガイモの流通が配給で規制された。そもそもが北部の荒れた土地であるヨークシャーでは、家畜が凍死し、農民たちが頭を抱えた。
大雪で道が閉ざされ、アディントンのような小さな街でも学校にまでたどり着けない子供もいたのだが、その中でもさすがにサンディの休みっぷりは目立ったらしい。何せサンディの家から学校までは普通だったら10分程度だ。確かに大雪で道はふさがっていたが、大人たちが雪かきもしていたし、歩いてこれない距離ではなかった。
「あ……あの、くつが……」
サンディは真っ赤になって俯いた。教師の視線が、誘われるように7歳のサンディの足元へ走る。少女の2倍は年をとっていそうなお古の靴には穴が空いていた。雪の中を歩いて来れるような靴ではない。学校に来たくて、今日は無理をおして走ってきたけれど、たかだか10分前後の道も、雪のせいで倍近い時間がかかる。真っ赤になった足の指先はちぎれるように痛くて、今でもじんじんしている。
「靴に穴が空いているのね」
特に感情を見せない声で教師は言った。こくりと、少女は頷く。学校は嫌いではなかった。それは先生にはわかってもらいたかった。怠け者だと思われてしまったのではないかと思うと、胸が苦しいくらい哀しい。
グレイ先生は厳しいことで有名だ。その怖い先生が、しゃがみこんで靴に触れたので、サンディは体を硬くした。女教師は少女の靴を触り、まだ濡れていることを確かめると、小さく頷いて、言った。
「とにかく学校にはいらっしゃい。靴に穴が空いているなんて、学校を休むための理由にはなりません」
「……はい」
涙を飲み込んで少女は答えた。
再び授業の後残るように、と言われたのは翌日のことだった。
その日は、出がけに母親から用事を言いつけられて学校にたどり着くのが30分以上も遅れた。休んでしまおうか、という思いも頭をよぎったのだが、先生の厳しい顔つきを思い出し、家を出たのだった。
また怒られる。
気が重い。
他の子供達が帰ったがらんどうの教室で、寒さに震えて待っているサンディの小さな手には、しかし、大きな茶色の紙袋が乗せられた。
「学校にはちゃんと来なさい」
グレイ先生がそう言った。
紙袋の中には新品の革靴が一足。小さな足には、ぶかぶかだったが、厚手の靴下を重ねれば育ち盛りのサンディでも2年は履けるだろう。生まれて初めて手にする新品の靴だった。
帰り道、足は濡れなかった。
「冬なのに足があったかいって、ありなの?」
サンディはびっくりして目をぱちぱちさせた。
父親は激怒した。
「他人様に子供の靴を恵んでもらわなけりゃならないほど落ちぶれてはいない」と、その夜エールを飲みながら真っ赤になって怒鳴った父親は、日曜日の教会で女教師をみるなり詰め寄った。
がっしりとした体躯の父親の側では、ミルドレッド・グレイはヨークシャーテリアのように小さく見えた。本当は背が高い人ではないのだと、7歳のサンディはその時初めて気づく。
「これは返させてくれ」
父親が紙袋をつきかえすと、グレイ先生は顔色も変えずに「それはあなたが決めることではありません」と言った。
「私は、これを、サンディにあげたのです。その靴は、あなたのものではありません。サンディのものです」
「屁理屈を言わないでくれ。これが施しじゃなかったらなんだっていうんだ」
「投資です」
グレイ先生は、自分よりもずっと体の大きい男性相手に一歩も引かなかった。艶やかな栗色の髪の毛がふわふわで、まるでヨークシャーテリアがブルドッグの前に立ちふさがっているみたいだった。
「ミスタ・ソーズビー。あなたは気がついていないかもしれないですが、ここにいるこの子供はとても聡明な子供です。この子供はやがて11歳の選抜試験を受け、グラマースクールに行くでしょう。そして、職にもつくでしょう。そうしたら返してもらいます。あなたのお嬢さんから」
思っても見ない返答だったらしく、父親は「そんな、いつになるかわからない話をしても」と言い募る。
「それではこうしましょう。ミスタ・ソーズビー。それであなたの気がすむのであれば——サンディ?」
教師はここで、少女の顔を見た。しっかりと目を離さずに言う。
「借用書を書いてもらいましょう。サンディ、いいですか。あなたはきちんと学校へいらっしゃい。グラマースクールまで上がり、大学へ行きなさい。そして、弁護士にでも医者にでもなればいい。あなたが大人になった時に、この靴の代金は利子をつけて払ってもらいましょう」
「そういうわけにはいきませんよ、先生」
父親はサンディの手をぐいと引くと、自分の背後に立たせた。体の小さな子供は転びそうになるが、気づいていないようだった。
「あんたから、こんなものをもらう筋合いはないと言っているんです」
「ジョン・ソーズビー」
ミルドレッド・グレイはため息をつくと、父親を真っ向から見据えた。
「あなたが兵士として命をかけて守った国は今、この国の歴史で初めて子供達が階級を超えて伸びることのできる教育システムを作り上げたんですよ。(*2) 11歳でグラマースクールに入れれば、この子供はオックスフォードにだって、ケンブリッジにだって、いける。この子の世代の女の子はきっと、初めての女性首相を生み出すでしょう。私はあなたの娘を信じています。父親であるあなたが彼女を信じなくてどうするのですか?」
その日の会話がどう終わったのかをサンディは覚えていない。
ただ、大人になってから気づいたのは、あの日の教師と父親の会話において、ミルドレッドが首尾一貫して、子供であった自分に聞かせるために話していたのだ、ということだった。
ヨークシャーテリアとブルドッグくらいの体格差があったのに、先生は少しもたじろがなかった。まるで小さな娘を守るかのように父親のがっしりとした腕は、サンディを抱きしめていたが、その日、確かに、サンディは、自分の父親にではなく、ミルドレッドに守られているように感じていた。
靴の代金はまだ払っていない。
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(*1)「暖を取ることはおろか煮炊きにすら困窮する人々が出た」
1930年ごろからガスによる調理機器が普及し始めていたが、この時点でもまだ石炭や木材を熱源とするストーブ(総合調理機器)を用いている家庭はあった。ガス調理器具を持っている家庭でも、ボイラーは石炭を熱源としていることが多かったため、石炭の不足は深刻な事態だった。
(*2)「階級を超えて伸びることのできる教育システム」
全ての者に中等教育を与えることを目指した1944年教育法の制定により、成績上位20から25%は出自、階級の区別なく、グラマースクールで大学進学を視野に入れた教育を受ける機会が与えられるようになった。これにより貧困層から飛躍的な階級上昇を遂げるものも出た。
11歳という選別の年齢の幼さから問題もある制度であり、後に総合制中等教育にほぼ取って代わられたが、現代でもイギリスの随所に残っている。大きな問題としては、11歳で将来の成長を制限されてしまう子供ができること、自分で勉学の環境をコントロールできない年齢で試験が行われるため、しばしば親の収入や教育程度を反映してしまうことなどがあげられる。
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