月曜日の配管工は2度ベルを鳴らすこと。
「もうやだよ。疲れた」
ミルドレッドの爆弾発言で月曜日は始まった。
そろそろそんな反応がきそうだなとは思っていた。金曜日には相当疲れていた様子だったし、土日は一人で、さらに何を捨てるのか考えなくてはならなかったはずだ。きっと何か言い出すんだったら今日だろうとは思っていた。思ってはいたのだが、それにしても困る。来週の月曜日にはカウンシルから人が来るのだ。
今日は朝から来てくれていた掃除人のトリシャが困ったような顔をしてマキカを見た。
「この週末は地下にあるものをいろいろ見ていたんだけど」
どれも捨てられない、とミルドレッドは言う。
「でも、チェックは来週の月曜です」
マキカはできるだけ静かに言う。月曜日までに片付かなければ、ミルドレッドが取捨選択する余地もない。そんなマキカの横で、どすん、と音を立ててミルドレッドがソファに座り込んだ。
「……マキカ」
「はい」
「あたしは、一体いつまで失い続けるんだろう?」
他の人にとっては薄汚いものかもしれない。古い衣服なんて、なんで捨てないんだろうって思うのかもしれない。でも、そんなものでも私にとっては価値のあるものがたくさんある。それをこんな短い期間に選べだなんてあんまりだ。
私はもう、十分にいろんなものをなくしたじゃないか。先週だって、あれだけたくさんのものを捨てた。もう、これ以上はいやだよ。
マキカは大慌てで頭の中をかきまわす。言うべき言葉がなかなか見つからない。
「ミルドレッド、まずは、リサイクルするものと寄付するものだけでも……」
「寄付なんて言っても、買った人が、私の寄付したものを大事に扱ってくれるとは限らない」
ミルドレッドはイライラとマキカの言葉を遮る。
「私にとってはとても大事だったものが、どこの誰にひどい扱いをされるか、わからない……」
「ですが……」
「だけど、ミルドレッド、あんたは今だってすでに自分の持ち物にひどい扱いをしてるじゃないですか!」
マキカが口を開けようとした時、まるで遮るようにトリシャが大声を出した。今日はツインテールに結んであるピンクの髪の毛がぴょんぴょんと揺れる。
「こんな山のように服を積み上げているのは服を大切にしているとは言いません。本当に大切なものは、きちんとよりわけて、丁寧に世話をしてあげましょうよ! 本当に大切なもの、二階にもあるんでしょう? 掘り出してあげましょうよ!」
口調にきついヨークシャー訛りが出た。こちらが普段の話し方なのだろうな、とマキカは思う。
「……あんたに何がわかるっていうんだい?!」
ミルドレッドがしわがれた声を張り上げた。
「わかりますよ! あたしがどんだけ、汚い家を見てきたんだと思ってるんですか。ミルドレッドの家なんて、汚いうちに入りません。葬儀社専門の掃除屋なめてもらっちゃ困ります! まだ生きていて、大切なものを大切にできるんだから、ちゃんと必要ないものは捨てましょうよ!」
いけない、とマキカは思った。これはミルドレッドを追い詰める。それにいくらなんでもミルドレッドの家が汚いうちに入らないというのは言い過ぎだ。嘘はいけない。
「トリシャ!」
マキカが割って入ろうとした時。
ピンポーン。
玄関のベルが鳴った。
3人は顔を見合わせる。
誰もしばらく動かなかった。
ピンポーン。
ベルは再び鳴る。
3人は同時に何かを言いそうに口を開け、しかし何も言うことができず、ただただ困ったような笑顔を浮かべた。
何かおかしいことがあったからではない。とにかく気まずかったのだ。
「——」
ミルドレッドはマキカとトリシャから目をそらすとソファから立ち上がり、ドアを開けに玄関へと歩いて行った。
「……トリシャ、あれは言い過ぎよ」
マキカはため息をつく。
トリシャは、小さな声で、ごめんなさい、と謝った。マキカに謝ったのかミルドレッドに謝りたかったのかはわからなかった。
「こんにちわ。なんか深刻そうな顔をしてるねー、グレイ先生」
ドアの前に立っていたのは人好きのする笑顔の配管工だった。
「あんたなの」
ミルドレッドは露骨に嫌な顔をする。
「そんな顔をしなくてもいいじゃないっすか。変わんないなー」
はははっと、男は笑った。50代も後半だろう、サンディよりは少し若い。笑い皺が両目の端にできている。
「ボイラーの点検をしようと思いましてね。そのくらい、やってもいいでしょう?」
屈託のない言い方に毒気を抜かれたようで、ミルドレッドは背後を振り返る。マキカは軽く頷く。大丈夫。地下室は綺麗ですよ。私が見ても綺麗だと思ったんだから大丈夫です。テレパシーが通じるかどうかはわからないが、そんなことを念じながら頷いて見せると、ミルドレッドはふっと息を吐いた。
「こっちだよ。地下室にあるんだ」
配管工はさして驚いた様子も見せず、老女の後をついていく。
「いやぁ、この家も変わんないなあ。しょっちゅうベーコンサンドイッチをもらいに来たもんだ」(*1)
男はわはは、と笑いながら道具箱を持ち上げる。「よっこらしょっと。……ちょっと失礼するよ、お嬢ちゃんたち」
「私も一緒に下に行くよ」
配管工の後をついていくミルドレッドは、つっと視線をトリシャに向けた。
「あんたも、マキカと一緒に二階に行くつもりかい?」
「あなたの家です、ミルドレッド。あなたの許可がない限り、私は誰もあなたの家の中を自由に歩かせたりしませんよ」
マキカは、トリシャを手で制した。
「……バスルームだ」
「え?」
「バスルームだけだったら入ってもいい」
さっきのトリシャに負けないくらい小さな声でミルドレッドは言うと、配管工の後を追った。
すでに一度見たことのあったマキカはバスルームの様子にも驚かなかったが、トリシャはちょっと眉毛をあげた。
「これは……なかなか」
バスルームと呼ばれるものは通常、幾つかの特徴を持っている。
その一つとして、水の供給機能を持つことをあげられるだろう。さらに言うと、ミルドレッドの家にうずたかく積まれたモノの多くは紙類だ。バスタブをいっぱいに満たしているモノも例外ではない。そして、少なくとも過去数年、このバスルームの小さなシンクがミルドレッドにとって唯一の水の供給源だった。当然跳ね返る水沫もあるわけで——つまるところ、バスルームは濡れて半ば発酵した紙との戦いになりそうだった。
「まあ、予想してなかったわけではないですけど」
ところどころ水に濡れた紙が年単位で堆積したバスタブにちらりと目をやるとトリシャは頷いた。
「これは、キノコ覚悟ですね」
「まさか!」
「あのあたりとか、開けてみるといいですよ」
マキカはビニール手袋をはめて、バスタブの中の新聞紙を持ち上げてみる。みっしりと、白いキノコが生えていた。
「……食べないほうがいいですよ」
トリシャが忠告した。
「食べません」
マキカは呆れて答えた。誰が他人のバスタブの中で栽培された得体のしれないキノコを食べようと考えるというのだ。
「普通は電話帳やトイレットペーパーで育てるんですが、新聞紙でも大丈夫ですね」
トリシャは何やら納得したように一人で頷いている。
「キノコを栽培しているの?」
マキカはびっくりして尋ねる。
「はい、まあ、ある種のキノコ限定ですが」
ショッキングピンクの口紅を塗った掃除人はきゅっと音を立ててピンクのゴム手袋をはめると、手際よく、新聞紙の日付と名前を確認し、ゴミ袋に詰め始めた。
「魔法のキノコ系だとか、言わないでくださいよ……」(*2)
マキカはげっそりとつぶやいた。
「世の中には知らなくてもいいこともありますよ」
涼しげな顔でトリシャは答えた。
新聞紙ばかりゴミ袋に詰めて階段を降りてくると、配管工の大きな笑い声がマキカの耳に入った。
「そりゃあそうですよ、でも、先生に教わったことは今でもちゃんと色々覚えてますよ。シェークスピアとか読まされたなあ」
「あんたと、読んだかねえ、シェイクスピアなんて……?」
「読みましたよ。難しくってねえ……。えっと、なんて題名だったかねえ……そうそう、思い出した。『テニスの商人』!」(*3)
「——『ヴェニスの商人』だよ……」
ミルドレッドはがっくりとうなだれた。全然ちゃんと覚えていない。
「ああ、そうだそうだ! そう言いたかったんだよ!」
配管工は悪びれずに笑い声を立てると、マキカに目を合わせた。
「ボイラー、一応は大丈夫。ちょっと調整をしておいた。ただ、もうそんなに長いことはもたないと思う。買い替えられればいいんだがね」
マキカは黙って頷いた。配管工も、マキカも、そしてミルドレッドもよくわかっていた。
新しいボイラーを買い換えるお金など、現在のミルドレッドにはなかった。
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(*1) ベーコンサンドイッチ
ベーコンをグリルで炙る。薄手のパンを用意する。このパンをトーストしておくかしておかないかで長年論争が続いている。ベーコンを乗せる。ケチャップないしはHPソースをかける。かけないほうがよいとするベーコンサンドイッチ原理主義者も一定人数いる。パンを乗せる。
アメリカ人ではないので、間違えてもレタスや、トマトをここに挟んではいけない。
(*2)魔法のキノコ
マジック・マッシュルーム。幻覚作用がある。Liberty capと呼ばれる種がイギリス国内に自生しているため新鮮なキノコは2017年現在でも合法。乾燥物は規制されている。
(*3)テニスの商人
シェークスピアの喜劇。
中世のウィンブルドンを舞台に、国際的テニスプレーヤーを目指すアントニオと、そのライバルでありユダヤ人のシャイロックがしのぎを削る。最初は悪役のように見えたシャイロックの内心の葛藤と人種差別に対する鋭い糾弾が特徴的。最後には金髪の乙女ポーシャの炎の魔サーブの前にアントニオが敗れる。コートに崩れ落ちたアントニオの「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」というセリフは、作品世界を離れて広く英語圏で親しまれている。
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