月曜日の呪いはテディベアのキスで解かれたということ。

 ——ごめんよ、ミルドレッド、あんたは仕事で忙しいのに。

 病床についた母は、ずっと謝り続けていた。

 そんなことは言わなくていいのよ、といつものようにミルドレッドは返す。教師としての仕事と母親の介護。両立は簡単ではなかったが、少なくとも国民保健サービス(NHS)が制度として整っており、医療費は無料だった。(※1)

 そしてそれを考えるたびに、ミルドレッドの心は、ふんわりと暖かくなる。高齢の母が医療費について、心配しなくていいなんて。周囲の人間に謝罪しなくていいなんて。なんてすばらしいんだろう。

 ミルドレッドは決して悲愴にはなっていなかったが、母親は納得しなかった。

 ——私はいいよ。あんたが面倒を見てくれる。でも、あんたの面倒は、誰がみてくれるんだろう。意地っ張りで、頑張り屋で、そして……子供のいないあんたの面倒は、誰が?



 20代の頭のほんのわずかの間、ミルドレッドを抱きしめた夫を、戦争は情け容赦なく奪っていったが、代わりに思いがけないものを遺産として残していった。

 ——「ゆりかごから墓場まで」全ての国民が面倒を見てもらえる国を。(※2)

 貴族も労働者も、誰もかも。壮年の男たちがただ一つしかない生命を差し出した戦争の代価として、社会の底辺にいる労働者たち一人ひとりに至るまで、階級に関係なくフェアに扱ってもらえる社会を打ち立てる——戦争の前だったらお伽噺のように聞こえた、そんな話が現実になりつつあった。

 とても奇妙なことが起きていた。

 まず、長く苦しい戦争を勝利に率いて圧倒的な人気を誇った国家の英雄ウィンストン・チャーチルが総選挙に負けた。

 かわりに、「未来に目を向けよう」と全ての人間にとってフェアな社会をスローガンに掲げた労働党が圧勝した。自分たちが一票を投じたにもかかわらず労働党に投票した人間の多くがあっけにとられた。(*3)

 ミルドレッドは、一人の教師として、そして、夫を戦争に奪われた一人の妻として、階級の差を乗り越えた社会の夢を、他の多くのイギリス人たちと分かち合っていた。

 レナードがもし今生きていたら、ずっとずっとマシな人生を過ごせたような、そんな社会を作ることが、生き残った人間の使命だ。

 そう、ミルドレッドは信じた。そしてミルドレッドと同様に、幾万もの夫を失った女たちが、同じ夢を抱いて、まだまだ厳しい戦後の生活を生き抜いていた。




「ミルドレッド、今でも遅くないわ。あなたはまだ若いの。もう一度結婚して、幸せな家庭を築くことだってできるのよ」

「かあさん、言ったでしょう。私は別にレナードに義理立てしているわけじゃないの。ただ、彼以上の男性が現れないだけよ」



 どれほど待とうが、探し回ろうが、これほど小柄な自分をエベレスト扱いしてよじ登ってこようとする男性が現れるとは思えなかった。というよりもエベレスト扱いされて嬉しい女などいるわけがない。いったいレナードのときは何を、自分はとちくるっていたのだろう? どう考えても舌先三寸で丸め込まれた。一生の不覚だ。

 母親との意志の疎通は難しかった。母にとってレナードはいつまでたっても小学校卒の労働者階級の男にすぎなかった。出征を理由に大事な一人娘と結婚し、その人生をめちゃくちゃにした自分勝手な男。

 翻って父は、レナードを高く評価していた。教師として子供の頃のレナードを教え、よく人間を知っていた。だから父親が先立つと、母との間でレナードの名前は禁句になった。

「レナードは馬鹿だ」

 父は言った。あれは、まれに見る頭の良い子供だったが、性格が良すぎる。貧しい家庭の状況がわかっていて、まだ10歳にもならない子供のくせに上の学校に行かずに働こうと決めちまった馬鹿だ。ああいうのは、こっちがどれだけあがいて奨学金を取ってきてやっても無駄だ。あれだけの頭を持っているのに、親に小銭を手渡したくて炭鉱に走っていくだろう。そして搾取されてすり減っていく。

「父さん。そんな言い方しないで。私は彼と結婚したいの」

 わかっている。

 父親は頷いた。

 だから、帰ってきたらお前が支えてやれ。お尻を叩いてWEAに通わせろ。(※4)父さんはお前が選んだ男を信じているよ。

 でも、レナードは帰ってこなかった。


 そしてミルドレッドは再婚しなかった。




「呪いって、どういう意味だい?」


 ミルドレッドは、マキカが持ってきた服の山をよりわけながら尋ねる。長いことバスルームにあった服はどれもシミがついていたり、カビが生えていたりした。けれど、ちゃんと洗ってやればまだ着れる服だ。ふらっと立ち寄ったバザーでかわいいな、と思って手に取ったセーターも、こうして手に取ると記憶よりずいぶん色あせていた。これは捨てた方が良いだろう。残念ながら。

 そう決めると胸がみしみしと痛む。無駄にしてしまったのが自分なのだということは嫌という程わかっていた。ふらっと立ち寄ったチャリティショップでいろいろ中古のものを買うのが好きだった時期があるのだ。

「言葉が悪かったですね」

 マキカは小さなジーンズのズボンを手に取っている。しばらく見ていたが、やがて、ぽん、と比較的綺麗な服の山に置いた。

「悪気があってかけるわけじゃないんですけど……心配の言葉を何度もかけられているうちに、かけられた言葉に縛られちゃうことがあるんです。別にそういうの、専門家ってわけじゃないけど、ぴったりする言葉は『呪い』だなって、思って。ごめんなさい。ミルドレッドがそうって言い切れるわけじゃないのに」

 なんだか、この子は怒っているようだ、とミルドレッドは怪訝に思う。一体、その怒りは誰に向けられているのだろう。私の母親ではあるまい。誰かが心配の言葉で、この若い女の子を縛ったのだろうか。

 ——私も呪いに縛られたのだろうか。

 年老いた母が心配してくれているのはわかっていた。——そこのどこに「呪い」があったのだろう。腹が立つよりもまえに、興味がわいた。

「面白いねえ、それ」

「面白いですか。——つらいですよ」

 マキカは首を横に振る。

「なんで再婚しないの、って言った人はきっと、ミルドレッドのことを心配していたんでしょう。それはわかるけど、ちゃんと本人なりに理由があって再婚しなかったのかもしれないでしょう。『だれがあんたの老後の面倒をみてくれるんだろう』って、言ったら、まるで、自分の子供以外の人間は誰も面倒を見てくれないような気分になって、心配になるけれど、現実には」

 マキカが、つい、と視線を自分に合わせた。

「ミルドレッドは自分で自分の面倒を見ているし、難しくなったらこうしてサンディが手を伸ばした。これだけ教え子に慕われていて、ちゃんと大丈夫なのに、そんな言葉は私には……あれ?」

 呪いのように思えます、と言おうとしていたのだろうに、マキカが急に訝しげな表情になり、ごそごそとビニール袋を探る。

「どうしたんだい?」

 興味を持って声をかけると、東洋の小娘はちょっとびっくりしたように顔をあげた。

「なんか、かたまりがあるな、と思ったら——くまちゃん、見つけちゃいました」

 薄汚れたカーキ色のテディベアがそこにはあった。

 息を飲んだ。

「おや、こんなところにあったのかい」

 ミルドレッドは思わず微笑む。

「どこに行ったのだろうと思っていたよ。洗おうとしてバスルームに持って行って、そのまままぎれちゃったのかな」

「……そうかもしれないですね」

 カビ汚れはないが、そもそもが擦り切れて薄汚い。ちょっとへんな匂いもするのはミルドレッドにもわかった。

「これは——」

「捨てるもんじゃないよ——捨てるにしても、綺麗にして、写真を撮ってからだ」

 きっぱりと、真面目な顔でミルドレッドは言った。それから、急に笑い出した。

「ふははは。こんなところにあったんだ。それで、ふふっ、よりにもよって、あんたが見つけるんだ。しかも、こんな話をしている時に! ははははは」

「あの——」

 何が起きているのかわからない様子で、マキカが目をぱちぱちさせる。

「それ、渡して」

「あ、はい」

 手渡されたテディベアは小さく、汚く、臭かった。そして、何よりも愛おしかった。

「これは、洗えば綺麗になるかな?」

 ミルドレッドはつぶやく。マキカに尋ねる、というよりは、独り言のようだ。

「やってみないとわからないですけど、とりあえず台所のシンクで石鹸水に浸してみましょうか?」

 マキカが立ち上がった。押し洗いをしてみて、外で干すことはできますよ。

「お願いするよ。これは大事なものだ」

「だんなさんからのプレゼントですか」

「いいや」

 ミルドレッドはまた、くっくっと笑う。

「サンディからのだよ。ありがとうマキカ。——なんで再婚しなかったのか、思い出したよ」





 ——グレイせんせい、これ。あたしが作ったの。あげます。

 学年の終わりにサンディが持ってきたのは小さなテディベアだった。他の子供達が、ビスケットや紅茶や花を持ってくる中、お金がないなりに頭を捻ったのだろう。あちらこちらの縫い目が不揃いだ。端切れを探して作ってくれたのだ、と気づくと胸を突かれた。

 ——いいのに、そんなこと! あなたが私にくれることのできる最良の贈り物は勉強をすることなのよ。

 ミルドレッドの声は震える。貧しい家の子が肩身の狭い思いをしないように、プレゼント禁止令を出したのに、なぜだか子供達は毎学年末にいろいろなものをミルドレッドの机の上に置いて帰っていくのだ。サンディにそんな心配をさせてしまったのかと思うと心苦しかった。

 ——あと、あの、詩をおぼえたの。テニスンの、「イン・メモリアム」。先生が良い詩は暗唱できるといいって言ったから。暗唱を、プレゼントしたかったの。

 親しい友人の死を悼んだ、随分と長い詩だ。残されてしまった者の苦しみが切々と訴えられた——子供には難しい内容でもある。 ミルドレッドは感心するより前に呆れる。まさか全部覚えようとしたんじゃないでしょうね? 100ページはゆうに越すでしょう。

 ——あ、あの、ぜんぶはおぼえられなかったの。ゆうめいなところだけ。

 教師の表情に焦ったように少女は口ごもる。ミルドレッドは微笑んだ。

 ——わかったわ。有名なところだけ、暗唱してみてくれる?

 励ますように言うと少女はこくりと頷いて、背筋を伸ばして立った。



 なにがおきても ほんとうだってしんじてる

 一番悲しいときにこそ わかっている

 人を愛して失った方が

 誰も愛さなかったよりずっと良いのだと (*5)



 精一杯、背伸びして暗唱ができたのだ。サンディの誇らしげな表情が、子供の頃のレナードに重なった。

 そうか。私は子供達の、あの表情が好きだったんだ。再婚しないって決めたわけじゃない。レナードがいなくなってから、あれ以上、私をわくわくさせるものに、出会わなかったのだ。それだけだ。






 =============

(*1)国民保険サービス(NHS)

 National Health Service

 1948年7月5日誕生。すべての国民が無料で医療を受けることができるように設立されたシステム。主に歳出に大きな負担をかけることから様々な問題を抱えてはいるものの、現在でもイギリス国民の多くに支持される。2012年ロンドンオリンピックの開幕では大々的に称揚された。ある意味イギリス政治の聖域とも言える。


(*2)ゆりかごから墓場まで

 From the cradle to the grave

 第二次大戦後イギリスが推し進めた社会保障政策のスローガン。


(*3) 未来に目を向けよう。 Let us face the future.

 戦争の指導者であったチャーチルが圧倒的に有利だとされていた総選挙で労働党が訴えた。これから先は、もうすでに終わった戦争のことではなく、国の再建を考えようというスローガンは広く国民に支持された。ちなみに選挙に敗れたチャーチルは、「なんて恩知らずな国民だ」と憤った知人に「みんな、辛い思いをしたんだよ。恩知らずだとは思わない」と答えたと言われている。



(*4)WEA

 Workers' Educational Association 労働者教育協会

 1903年に設立された労働者教育を推進する組織。労働者に教育を与え、階級上昇の機会を与えると同時に政治運動を組織する能力も向上させた。



(*5) 「イン・メモリアム」

 ビクトリア朝の詩人、アルフレッド・ロード・テニスンの有名な詩。 1849年に発表された。親しい友人、アーサー・ハラムの死を受け入れられず、苦しみ続ける筆者は、やがて死を受け入れていく。サンディが暗唱したのはもっとも有名な部分。原文は以下の通り。

 I hold it true, whate'er befall;

 I feel it when I sorrow most;

 'Tis better to have loved and lost

 Than never to have loved at all.

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