月曜日に雨の日ポットを思い出したこと。

 午後は洗濯機を回した。多くのものはチャリティショップに送るには汚れすぎていたが、「一度洗ってみたい」とミルドレッドは言い張ったのだ。ユーティリティールームの洗濯機は、どう考えても過去数年は使われていなかったが、恐る恐るボタンを押してみると、驚いたことにしっかりと動く。爆発もしなかった。見た目はボロボロなのに強靭なのはさすが持ち主に似ているのだ、とマキカは失礼なことを考えた。

 そして洗剤は山のようにあった。文字通り、山のように。洗剤だけで17箱が出てきた時には、さすがのミルドレッドも情けなさそうな顔をした。ほぼ同数の漂白剤と柔軟剤が出てきた後だったのだ。洗濯をして、家を綺麗にする。そのためのやる気だけはここ10年以上十分にあったことがうかがわれる量だった。

 オッケー。なんてこたぁない。大丈夫。

 マキカは思わず、ミルドレッドの両手を握って力づけてしまった。もしかすると、自分を勇気づけたかったのかもしれない。

 私はあなたのやる気を評価しますよ! でも……

「——1箱残して、残りは捨てていいですか?」

 色あせた箱を見せると、ミルドレッドはたじろぐ。

「もったいないよ」

 確かにミルドレッドのためらいは、わからないでもなかった。ありふれた家庭用洗剤も、色もサイズもまちまちな16箱にもなると相当な存在感がある。漂白剤と柔軟剤を合わせれば、ゴミ袋がまるまる埋まるくらいの存在感だ。ちょっとしたお店ができてしまいそうな感じの。

「でも無理やり使おうとすると今度は、水も電気代もかかりますよ」

 環境破壊ですよね、とやんわり伝えると、ミルドレッドは渋い顔になった。

「……2箱、残しといてくれ」

「明日はカーテンでも洗いましょう」

 マキカは笑った。

 ただし、今の所動いてはいるものの、洗濯機も買い換えた方が良いのだろうな、と頭の隅でマキカは考える。

 そもそも、片付けのあと、この家に住んでいたいのかどうかも考え直して良いのかもしれない。家がすっきりとしたら、最低限の手入れをして、売って、小さなアパートにでも引っ越した方が、ミルドレッドの生活には楽かもしれない。大体、いつまで階段の上り下りができるかも考えておかなくてはならないだろう。

 2階の片付けに手をつけ始め、そろそろ家の最終的な形を考えなくてはならない段階だった。ミルドレッドにはまだ単純にカウンシルからの強制的な片付けをやり過ごせれば良い、と思っている風があったが、マキカに言わせれば目的は「溜め込み」が始まった前の状態に戻すことではない。「溜め込み」以前に問題があったから、混乱が起きたのだから、何か新しい形、現在のミルドレッドに合った収納と生活の形を一緒に考えなければならなかった。

 「……何もかもずいぶん古くなっちゃったんだねえ」

 自分の家なのに、初めて見るような口調でミルドレッドが言った。100年の眠りからさめたばかりの、いばら姫が、変わり果てた宮殿の中を見回したみたいな、そんな口調だった。



 チャリティショップが2度、車でいろいろなものを引き取りに来た。履かれた様子のない綺麗な靴。比較的綺麗な服。書籍。そして様々な飾り物。

 車が2台一杯になったころ、マキカは昼食のためにトリシャを呼んだ。

 先週末、使えるようになったばかりの台所で、トリシャと、ミルドレッドと食事をする。熱い紅茶を淹れ、持ってきたクランペットをトーストしようとして、トースターがないことに気づいた。そういえば先週、発掘されたものの、あまりにも汚れがひどく、破棄することに決めたのだった。

 普通だったらかわりにグリルで炙ってもいいのだが、グリルの中はまだ綺麗に掃除ができていない。

 台所は大体の掃除こそ済んでいるが、オーブンとグリルだけはあまりにも汚れがひどく手をつけるのを後回しにしたのだった。何年前のものかわからない肉の脂がごっそりと内部についていて、さしものトリシャが、一目見た時点で「これは私には無理です」と宣言した。

 オーブン掃除のプロを頼んだ方がいいのかもしれない。彼らはオーブンを分解して綺麗にしてから組み立ててくれる。——先立つものがあれば、だが。


 クランペットをピクニックバスケットにしまい、代わりにお茶菓子のつもりだったスコーンと、きゅうりとスモークサーモンのサンドイッチを出してからマキカはぎゅっと伸びをした。やるべきことはいっぱいある。特に今日は、お金の話と、誰か他の人が家に入ってきても良いのかという話をするべきだった。2階の寝室と書斎、それに客用寝室がまだ手付かずだ。


 2階の部屋、というのが地味に問題なのだ。上り下りの回数も増えるし、狭い階段は一度に持って動けるものの量も違うので作業量も増える。

 お金があれば、トリシャに知り合いの掃除人を紹介してもらうこともできるだろうが、問題はミルドレッドにどのくらい金銭的な余裕があるのか、だった。教え子集団はおそらくもっとお金を出しても良いと思っているだろう。でも、それではミルドレッドの気が済まない。まずは自分で払えればそれがベストなのだ。

 流しの前の窓から、5月の明るい日差しが差し込んでくる。つる紫陽花が窓を半ば覆うほど育っていたけれど、今日の日差しは緑の葉を透けてちろちろとテーブルを照らしている。

 家がなんとかなったら庭の手入れもしないといけないだろうな。

 しかし、ミルドレッドには、庭の手入れはもう無理だろう。誰かに頼むとなると、やはりお金が必要だった。




 トリシャは漂白剤の匂いをプンプンさせて降りてきた。

「バスルーム、綺麗にしましたよ」

 そう言うと、頭の後ろに手を回してゴムを一つとる。明るいピンクのツインテールがぴょんと現れた。

「今日の夜は、お風呂に入れますよ、ミルドレッド。ぴっかぴかですよ。お昼が終わったら見てほしいな」

 背筋をぴんと伸ばしてテーブルについていたミルドレッドが目をわずかに見開いた。

「お風呂——?」

「バスタブにお湯を張ってつかることです。場合によっては入浴剤を入れる人もいます」

 マキカが親切に説明した。

「んなこたわかってるよ」

 さすがのミルドレッドも呆れたような口調になる。

 くふっとトリシャが笑った。

「見たらきっとびっくりしますよ。あたしの掃除の腕はヨークシャーでもトップクラスですから。ただ、今は漂白剤の匂いがきつくて気持ち悪くなるかもしれないから、食事が終わるくらいまではしっかり換気をしますね」

「そうね、それがいいと思うわ」

 マキカは紅茶をトリシャのマグに注ぐ。みんながみんな「最高の先生」マグだ。土日、地下室で食器の見直しをしたはずなのに、キッチンに運ばれていたのは古そうなウェッジウッドのナポレオンアイビーでも、高価そうな銀製のカトラリーでもなく、そんなマグと、ごくわずかな皿、それに地味な普段使いのナイフとフォークだけだった。

「売れるものは売ろうかと思うんだよ」

 トリシャとマキカが席に着くと、ミルドレッドは口を開いた。

「あんたたちの手伝いだって、そろそろ予算を超えそうなんじゃないかい? あの子達のことだから、こそこそ黙って払っちゃってそうだけど」

 マキカは黙って、スコーンを老女に差し出した。ミルドレッドは教師の顔をしたまま、小さく頷くとレーズン入りのものを一つ取り上げ、ナイフで丁寧に横半分に割った。

「それでは、サンディにオークションの手続きについて聞いておきましょう。もうすぐ来るでしょうから」

 マキカはクロテッドクリームを差し出す。ミルドレッドはたっぷりとナイフでクリームをすくい、スコーンにのばす。暗く赤い宝石のようにつやつやのラズベリーのジャムは、皿の端に取り分けてあった。

 アディントンにはオークションハウスがある。小さな街だけれど、老人が多いだけあって、アンティークがよく出てくるのだ。プロのアンティークショップが買い付けに来る。

「ただ、問題は、それでは時間がかかるということですね」

 マキカは指摘する。オークションは週に一回木曜日だ。水曜日に内覧があるが、そのまえに受付をしないといけない。来週の月曜日にはカウンシルからの検査官が来るこのタイミングではとても間に合わない。

「誰かに手数料を払って、作業を肩代わりしてもらえるかどうか、当たってみることはできますが、これはある程度ものが減ってからの話ですね。本当に価値があるもので売りたいものは、誰かがしばらく収納しておいてくれるか尋ねてみてもいいのかもしれません——受け入れてくれる人がいれば、ですが」

 そうマキカが言うと、ミルドレッドは困ったような顔になった。他人に頼りたくないのだ。

 そんな老女の表情を見ながら、マキカは言葉を続ける。

 今日はミルドレッドに、いろいろ受け入れてもらわなくてはならない。

今まで嫌だと思っていたことも。

 たとえば、他人が家の中に入ること。混沌とした家の様子を他人に見せて手伝いを請うこと。

「お金が心配なんだったら、あの教え子のみなさんに協力を頼むのが一番早いんですよ。お金ではなくてお手伝いを頼むことだってできるでしょう——きっとみんな同窓会代わりに片付けの手伝いに来てくれますよ」

 案の定、ミルドレッドの表情は険しくなった。

「二階に直接登らなくてもいいんです。私とトリシャが二階の寝室から物を下に運び出し、下の居間で選り分けるだけでもずいぶん仕事が楽になります。何回も重いものを持って階段を上り下りすることになりますから、私としては若い男性が何人か来てくれれば一番いいんですが」

 ——口にしてからしまったと思った。知らない若い男性をさらに家に入れろなんて言ってしまった。これではハードルが上がってしまう。

 ミルドレッドはマキカの言葉には答えずにじっと目前のスコーンを見つめていたが、やがて、がばっと顔をあげた。

「そうだ、雨の日ポットRainy Day Potがある!」


 雨の日ポット。


 雨の日、すなわち「レイニーデイ」とは突然不測の事態が起きた日のことを言う。そんな日に備えて小銭をちょこちょこ貯めておく貯金箱が「雨の日ポット」だ。緊急事態の時のみ、開ける。子供や主婦が家の中に転がっている小銭を見つけたときのしまい先としても有効で、マキカ的には大いに推奨したい習慣だ。


 ただし、大きな問題がある。マキカはため息をついた。

「それ——どこにあるんですか?」

「えっと……二階の寝室のどこか?」

 ミルドレッドの視線が泳ぐ。どうやらはっきりと覚えていないらしい。二階はまだまだ物が溢れていて、よじ登らなければ廊下の端までいけないような状態だ。普通の家で「二階のどこかに貯金箱がある」というのとはわけが違う。池の金魚とシロナガスクジラぐらい規模が違う。

「——それ、見つけるまでにすごい時間がかかりそうですね」

 おそるおそる、マキカは指摘するが、ミルドレッドは胸を張った。

「でも、見つかったらそれなりにお金になるはずだよ。子供の頃から一度も開けていないからね」

「すごい。本当ですか?」

 マキカは目をみはる。子供の頃からの貯金箱を一度も開けない人なんて本当にこの世にいるんだ。

 想像上の生き物を見ているみたいだ。絶命危惧種として国際自然保護連合に報告したい。

「でも、それって……」

 マキカが言葉を選んでいると、横で聴いていたトリシャが情け容赦のない一言を放った。

「それ、お金としては使えないですよね。シリングとか、昔のコインがどっちゃり入ってるだけってことですよね」(*1)

「あ……」

 ミルドレッドが、しまった、という顔をした。

 マキカも、しまった、という顔をした。

 トリシャも、二人を見て初めて、しまった、という顔をした。ちょっとばかり気づくのが遅い。

 古い貨幣は切り替えて数年もすれば銀行でも引き返してもらえなくなる。古銭は高く売れることもあるけれど、とにかく頻繁に貨幣がモデルチェンジする国だから、ぽいっと手渡してすぐに売れるものでもない。専門家に鑑定してもらうにはそれなりに手配の時間がかかるだろう。高く売れそうなのは高く売れそうだが……今すぐどうのこうのという話にはなりそうにない。



 あがががががー。

 マキカは天井を見上げる。

 この人たち二人共、しっかりしているようで、なんか抜けている気がするんですけど、神様、助けてください。




 ===============

(*1)シリングとか、昔のコイン

 1971年に十進法が導入され、かつてのコインが使えなくなった。1シリングは12ペンスだった。ちなみに、それ以降も何度かコインのデザイン変更は行われている。たとえば50ペンス硬貨は1997年に小さくなり、1ポンド硬貨は2017年3月に12角形に変更されている。

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