水曜日に魔法の舞台裏を売却したこと。

 水曜日は朝から混乱を極めた。まず、マキカが足を挫いた。階段からモノを下ろそうとして、足を滑らせたのだ。挫いたぐらいで終わったのは幸いだったが、ここまでタイミングの悪い事故もなかっただろう。約束したのは6日間の作業で、木曜日には家の片付けを終わらせなくてはならないのにこのタイミングで階段の上り下りができなくなった。歩くことはできるが、重い物を持つのも危なっかしい。車がなんとか運転できるのが不幸中の幸いだった。


 トリシャは相変わらず朝から入り浸って、ひたすらモノを一階へ運び続けた。マキカは椅子に座ったまま、選別作業に精を出した。ミルドレッドはしばらく唇を噛んでその様子を見ていたが、午後になると、やってきたサンディに耳打ちをした。


「ねえ、マキカ。ムーアに行こう」(*1)

 ミルドレッドが突然そういったのは、そのすぐ後のことだ。

「え? ムーアですか?」

ミルドレッドの家から、ムーアは歩いて15分ほど。それほど遠くはない。こんな晴れた日には、ただただスカッと広い荒地ムーアは確かに気持ちいだろう。今の時期だと羊歯しだがふさふさと茂り始めているはずだ。

「うん。天気があんまりにも良いから行きたくなってね」

「でも、私あまり歩けませんよ」

「歩かなくてもいいよ、車で上の方まで行って、ベンチに座って帰ってこよう。ついでに売店でアイスクリームも食べよう」

 素敵な考えだった。

「お仕事は?」

「お仕事の一部ということにしよう!やらなくちゃいけないことはサンディにお願いしたよ」

 どっちにしろ、あんた、その足じゃ、今日はあんまり仕事にならないだろう?

 お仕事の一部としてムーアでアイスクリームを食べる。

 ますます素敵な考えだった。車を運転しなくていいんだったら、キーンと冷えたラガービールも加えたいくらいだった。




 ムーアは、とにかく広く、大きく、どこまでも遠くが見える。土壌のせいと、強い風のせいで高い木が育たないのだという。空と、大地が重なり合う、その線が見えるのは、いい。イギリスであることが嘘のような真っ青な空だった。

 マキカが車を止めると、ミルドレッドは助手席からちょこちょこと降りてきた。片足をひきずった日本人の女と、どう見ても山登りの服装でない老女が二人で現れると、売店の売り子は満面の笑顔になった。平日の昼間だ。誰も来なくて飽きていたのかもしれない。

「ヴァニラアイスクリーム2つ。99フレークつきで」(*2)

「おまけしちゃうよ。2本ていうのはどうだい?」

「いいですねえ」

 ずいぶん暖かくなってきたけれど、ヨークシャーの5月、ムーアの上は風が強く、少し肌寒い。

「はいどうぞ」

 アイスクリームを手渡すと、ミルドレッドはマキカがベンチの横に座るのを待って遠くにある岩を指差した。

「あの岩、いっぱい名前が彫ってあるの、見たかい?」

「前に来た時に」

 あれはね、第一次大戦に行く前に兵士たちが自分の名前を彫ったんだよ、とミルドレッドが言う。はい。と、マキカは頷いた。当然知っている。有名な話だ。前に来た時には指でなぞった。

「とてもロマンチックな場所なんだ。恋人たちが語り合うような」

「レナードさんと来ましたか?」

「まさか」ミルドレッドは肩をすくめた。

「来たことはあるけれど、ほんの子供の時だよ。兄さんたちと弟と一緒にね。でもレナードは他の女の子とは来たことがあるかもね」

 ふふふっとミルドレッドは柔らかな表情になる。

「まあ、妻が思うほど夫っていうのはモテない生き物だけれどね」

「……」

 マキカの表情が複雑なのに気づいたらしい。ミルドレッドが顔を覗き込んだ。

「どうしたんだい?」

「いるんですよ、時々」

「何がだい?」

「つ……妻が思うよりモテちゃう夫ですよっ!」

「はぁ」

 何か理解したように、ミルドレッドが小さく頷いた。

「あんたの最初の旦那かい?」

「最初って……一人しかいませんよ。旦那になった人なんて」

 マキカは思わず立ち上がる。本当、不覚でしたよ。もう、信じられない。

「まあでも愛して失った方が、最初から誰も愛さないよりマシさね」

 ミルドレッドが誰かの言葉を引用した。

「あ! それ! A E ハウスマンですね」(*3)

 マキカが目を輝かせた。シュロプシャーの青年の美しさを描いた19世紀の詩人だ。同性愛者だった。

「アルフレッド・ロード・テニスンだよ」

 ミルドレッドが訂正する。自分を残して先だった友人のことを慕い、切々と残された悲しみを歌った詩で知られる19世紀の詩人だ。同性愛者ではなかった。

「いや、ハウスマンでしょう」

 あれ? 違うのかな?だけど、あの二人、女は蚊帳の外って感じが妙に似てるんですよね。

「誰が言ったかはいいよ。とりあえず、愛したことは無駄じゃなかったってことさね。死別にせよ、離婚にせよ」

 ミルドレッドがサバサバした顔で言った。アイスクリームのコーンを口に入れると立ち上がって、パタパタと手を叩く。

「——帰ろうか。そろそろ準備ができているはずだ」

 ——はい。でも、準備って、何の?

 マキカの質問には答えずに、ミルドレッドは言った。

「ありがとう。あんたがここまでやってくれたことには感謝してるんだよ。でも、今日であんたには仕事を辞めてもらわなきゃいけない。サンディたちが出し合ってくれた金額はとうに超えているし——私にはお金が払えないんだ」




 ミルドレッドの家の前には車が何台も止まっていた。老女は驚く様子もなくすたすたと家の中に入っていく。捻挫した足をかばいながらマキカが中に入ると、大きな笑い声が耳に入った。配管工だ。

 居間の中にはミルドレッドの教え子たちが勢ぞろいしていた。

「手伝いに来ましたよ。とうとう東の魔女が先生の考えを変えたって聞いてね」と配管工が言った。

「東の魔女なんて失礼だわ。あれは悪い魔女よ」とファイナンシャル・アドヴァイザーが言った。(*4)

「だけど日本は東にあるんだぜ」と電気技師が言った。「日本だったよな? 香港じゃなくて」

「それじゃあ、西の魔女って呼べばいいじゃないか。西の魔女はいい魔女なんだろう? どっちにせよ地球は丸いんだ。ずっと西に向かえば日本にもつくだろう。いつか」とオーブン掃除会社社長が重々しく結論付けた。

「あれ?」

 マキカは思わず素っ頓狂な声を上げた。

「ミルドレッド、みなさんにお手伝いを頼んだんですか?!」




 7人が仕事に取り掛かった後、「ゾンビのトーマス」の母親がドアベルを鳴らした。「こんにちわ。こちらに博物館が興味があるかもしれないものがあると伺って」

 じろ。

 ミルドレッドがマキカを睨んだ。

「あんた、あたしに内緒で手伝いを頼んだね?」

「はい!」

思いっきり大きな笑顔でマキカは答える。今のミルドレッドだったら、大丈夫だ。

「新しい博物館がアディントンにできるんです。昔の生活の仕方がわかるものを買い集めていらっしゃるということでしたから、お願いしたんです。——ミルドレッドの教材やおもちゃ、これからもずっとこの地域の子供達が歴史を学ぶために使ってくれるかもしれませんよ?」




 3時間後。ヴィッキー・ブリッグスは、ミルドレッド・グレイの手を握りしめていた。

「これだけ完全な形の子ども用品のコレクションはなかなか見つかりません。全く未使用のものも多いですし——予算ではこのくらいまで出せると思うのですが……」

 電卓を見せられたミルドレッドは、信じられないものを見たかのように瞬きをした。

「売却に興味はおありですか?」

 微笑みながらたずねるヴィッキーに、小さな声で「はい」とミルドレッドは答えた。「はい——よろしくお願いします」

「他にもまだいろいろあるんですよ。1930年代ぐらいからのコインだとか」

後ろからマキカが声をかける。「まだ発掘されてませんけど」

「発掘って——やな子だね」

ミルドレッドは苦笑した。それからふと真顔になる。

「——マキカ、あんたにちゃんとお金を払えそうだよ」

ミルドレッドのセリフにマキカは笑い声をあげた。

「ご愛顧ありがとうございます!」

「なんだ、先生はプロフェッショナル・オーガナイザーを解雇するつもりだったのかい?」

配管工が笑った。

「せっかちだなあ。まだまだ仕事があるじゃないか」

「ま、手始めに」

電気技師とオーブン清掃会社社長の声が重なった。

「電気系統のチェックをさせに若いのをよこすよ」

「オーブン清掃はうちに任せてくれ」







 =============

(*1) ムーア

 酸性土壌の上に、低木やヒースなどが茂る湿地の荒地。エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』の舞台として知られる。

 


(*2)99フレーク

 フレーク状のチョコレートが棒になったもの。アイスクリームを買うとつけますか、と聞かれることが多い。一本でお値段は相当あがるので絶対ぼってやがると思うのですが、これをつけないと、みょうに満足感がないので、見事アイスクリーム屋の術中にはまることになるのです。


(*3)A E ハウスマン

 A. E. Housman 19世紀イギリスの詩人。詩集『シュロプシャーの若者』が有名。



(*4)東の魔女 

 Witch of the East おそらく東洋の魔女(witch of the orient)と呼びたかったのだろうと思われる。東の魔女は『オズの魔法使い』に登場する悪役。

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