第30話 魔女

 空港までタクシーで十分とかからないだろう。信号がかわると須賀良江は足をはやめた。今ごろ屋敷には警察がかけつけているはずだ。もう二度ともどれないし、もどる気もない。指先がやはりすこしふるえている。花瓶をもったときの感触がよみがえる。裏口からこっそり屋敷にもどると、偶然しのびこんできた和之を見た。

 どうするのかと見ていると、和之は、若いすがたの貴代美にせまり事の真相を問いただそうとしていた。ふたりがもみあい、貴代美が彼をつきとばして逃げ出したあと、和之の不意をねらって、思いっきり花瓶で頭をなぐりつけてやった。あらかじめ用意していた当座の資金を持ちだして屋敷をぬけ、すぐに警察に密告し、豪蔵にその旨を電話で告げた。

(もう、すべて終わりにしたいの)

 豪蔵もうすうすは覚悟していたのだろう。自分たちのしていることに限界を感じてもいたのだ。あきらめた口調でつぶやくように、そうか、と言った。彼はまだあきらめることの出来る人間だったが、自分はちがう。

 須賀はとおりすがりの商店の窓ガラスに映った自分の顔を確認した。まだ若い。まだまだ人生をやりなおせる。海のむこうで。

(姉さんは馬鹿ね。やり過ぎたのよ)

 自分はもうすこし限度というものをわきまえている。製薬会社の幹部にも話をつけてあるし、渡米すればいろいろ力になると言ってくれている。もちろん手土産は忘れない。この顔と身体を見れば新薬がけっして失敗でないことを納得するだろうし、ほとぼりがさめればべつの製薬会社に話をもっていって売りこめる。その幹部自体も別会社にうつりたいようだ。須賀はそのためには格好の生き証人でありサンプルでもある。

 こういうときのために偽造パスポートもプロにたのんで用意しておいた。万事、手ぬかりはない。あの呪われたおぞましい屋敷や血筋とは縁を切って、アメリカで人生をやりなおすのだ。

 今までの人生はあるかないかわからないような虚しいものだった。

 妹のむごい死にざまを見て、いつ自分も発症するかとびくびくおびえながら生まれてきたことを恨み、身体にながれる血を呪い、親を憎んで、なんの楽しみもなく十代、二十代を不毛に過ごし、三十二のとき見合いで二十も年上の男のもとへ嫁がされた。

 愛情などまったく感じないまま男は結婚後わずか三年で病気でさきだち、のこされた良江は伊塚家へもどるしかなかった。出戻りという片身のせまい身の上で家政婦のような仕事をしながら、年々異常になっていく姉や、かつての妹のように十代で木乃伊のようにひからびていく不憫な孫姪の面倒を見ながら、人生の悲哀をただひたすらだまって噛みしめるしかない生活だった。

 おまけに哀れな孫姪の死後、異常をきわめた姉と、それにひきずられていくしかない甥がおこなう犯罪行為に加担させられ、その手を悪事に染めさせられた。早老症で死んだ妹と良江は妾あがりの後妻から生まれたため、先妻の娘である異母姉には子どものころから頭があがらず、姉妹というよりも主従関係でつながっていた。姉の命令は絶対であり、姉といるかぎり下僕として生きるしか道はなかったのだ。とうてい満足できる人生ではない。そのすべてを今捨てるのだ。

 須賀良江はもう一度、宝石店のガラスにうつった黒スーツすがたにシャネルのバッグを肩からさげた自分のすがたをながめた。働きざかりのキャリアウーマンのようだ。

(どう見ても、七十九には見えないわよね)  

 姉たちの犯罪に加担せざるを得なかったと思いながら、その結果得られる新薬の力に惹かれ、何人もの少女たちを犠牲にし、それを利用してきた現実を彼女は無視して、ひたすら足をはやめた。

 都会の雑踏は、じきに黒スーツすがたの魔女を飲みこんでいった。


                   終わり



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シンデレラたちは暁に夢を見る 平坂 静音 @kaorikaori1149

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