第6話 質問

 一時間もない授業が、とにかくつらくてたまらなかった。当てられてもさっぱりわからないし、クラスの全員が理解し、こつこつと知識と知恵を積みあげていくなか、自分一人が置き去りにされていく心細さとさびしさを噛みしめながら、ただひたすら泣きだしたいのを必死にこらえながら、時計の針がすすむのを待っていたあのころに比べたら、まだ仕事をしている今の方がずっと幸せな気がする。

「それは、いつごろからそうだったのかな?」

 西明寺の理知的な切れ長の目が光る。

「えー? いつごろって」

 そういえばいつごろだろう? 

 小学生のころからけっして利巧な方ではなかったが、それでもまだ小学生のときはそれほどひどくはなかった。思えば、徹底的に勉強嫌いになったのは中学にあがったころだった気がする。

「中学になったころ……だったと思います」

 言葉づかいに注意しながら夏枝は記憶をさぐってみた。

 こんなふうにあれこれ詮索されるのは大嫌いなはずなのに、西明寺の甘いマスクと、おだやかな口調についゆさぶられるように自分の心をすこしひらけてみた。

「あたし……いえ、わたし、駄目なんです」

「駄目って、なにが?」

「えー……話がわからないんです。理解できなくて。先生が説明してくれても、ちっとも頭に入らないんです。右から左へたれながしって感じで」

 おまえには、なに言っても無駄だな――。

 あきらめたように口の悪い担任に嘆かれたこともあった。自分では聞いているつもりでも、言葉がまったく耳に入らないのだ。いや、耳には入ってきても脳にしみこむことなく、本当に耳から耳へと洪水のように言葉の渦が素通りしていく感じなのだ。数学の公式や英語の文法などすべていたずらに夏枝の耳をわずらわせるだけわずらわせて、ただ過ぎさっていき、後にはなにひとつのこらなかった。

「ふうん」

 西明寺の知的な目がするどそうに光るが、須賀のようにつめたい光ではなく、奥底に理解をひそめた、あたたかな輝きだった。

 すこし迷ってから西明寺は慎重そうに唇をひきしめてからしゃべった。

「もしかしたら、君には一種の学習障害があるのかもしれないね」

「え?」

 聞き慣れない言葉に夏枝の目がまるくなる。

「たんに勉強嫌いというのではなく、もしかしたら神経や脳に軽い障害があるのかもしれない」

「しょっ、障害ですか?」

 思いもよらないことを言われて絶句してしまった。

 ちゃんと目が見えているつもりなのに、メガネをかけろと言われたようなものだ。そんな夏枝の気持ちを読みとったのか、あわてて西明寺が説明した。

「いや、障害といってもそれほど深刻なものじゃなく、本人が意識して努力することと、周囲のケアによって充分治せるものだよ」

 つづいた言葉はさらに夏枝を困惑せた。  

「ほら、聞いたことないかな? ADHD、注意欠陥多動性障害とか、PDD、広汎性発達障害とか」

「な、なんですか? それ?」

 テレビで聞いた記憶もあるが、意味はよくわからなかった。

「ドーパミンやセロトニンの脳内神経伝達物質の分泌に問題があり、前頭葉の前頭前野と呼ばれる部分の機能が低下しているために起こる障害のことだよ」

「はあ……?」

 自分の頭はそんなややこしい状態になっているのだろうか? 

 ますます理解できなくなってきて夏枝は青ざめた。

「わかりやすく言うと、頭のなかの司令塔がうまくはたらいてないんだね」

 西明寺は出来の悪い生徒に根気よく教える教師の口調で説明した。

「たとえば、学校で先生が教科書を読みなさいと言うだろう。たいていの子はちゃんと教科書を机のうえに置いて読む。ところがADHDの子はそれができないんだな。教科書を出さないといけないのに、他のことをしたり、意識がまったくべつのところへとんでいってしまったりしている。集中力がない、人の話を聞いてないと思われるが、わざとそうしているわけじゃない。当人は、やらなきゃ、やらなきゃ、と思うのだけれど、行動ができない、もしくは動くのに時間がかかる。当人でもどうにもしようがないんだね」

 そんなことは夏枝の小、中学生時代には山ほどあった。そして教師から注意されたり叱られたりしていた。

「べつに先生に反抗してわざとそうしているわけじゃない。出来ないんだよ。脳がうまく機能できないんだ。ただ、それもいつもそうというわけじゃない。出来るときは出来る。だからあきらかな精神障害や知的障害とちがって周囲に認知されにくいんだ」

「……なんか、テレビで聞いたような気がします」

 ニュース番組か、なにかの特集で耳にした記憶がある。

 子どもが言うことを聞かないので、ついカッとなって暴力をふるって子どもを殺してしまった母親の話だったが、実はその子どもには障害があり、それがたしか、そんなややこしい病名だったような気がする。 

「あたしって、それなんですか?」

 自分で自分を指さしたずねてみた。自分は病気なのだろうか? 

「うーん。僕も専門家ではないので断言できないけれど、あまりにも注意力散漫な場合、こういう症状にあたいするケースもあるんだよ。もしかしたら君もADHDかPDDだったのかもしれない」

 西明寺は思案気に首をひねった。

「むかしは注意力のない子どもや落ち着きのない子どもは、たんにその子がだらしなくて、不真面目で、我がままなだけだと思われていたけれど、やっと最近それらが一種の病気だと認知されてきたんだ。もしくは、なんらかのトラウマが原因している場合もあるけれどね。本人が治そうと思い、周囲の大人が協力すればなおせるものだよ。もしかしたら、君の場合はそれだったのかもね。君はご家族といっしょに住んでいるのかな?」

「え……、ここに住み込みではたらいているんですけれど」

 いきなり訊ねられて、夏枝は自分の顔がこわばったのを自覚した。

「ふうん。ご家族はどちらに?」

「なんで、そんなこと訊くんですか?」

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