シンデレラたちは暁に夢を見る

平坂 静音

第1話 五月の空

「いいか、今度はうまくやるんだぞ」

「わかってる」

 久原夏枝ひさばらなつえは、ボストンバッグを肩にかけ、先に車をおりていく鹿島修三かしましゅうぞうの黒スーツの背中を思いっきりにらみつけた。

 ついさっきぶたれた頬がまだひりひりする。この保護司とは一目会ったときからなんとなく相性の悪さを感じたが、ますます嫌いになった。怒鳴ることも、なぐることも指導、教育、愛情だと、本気で思いこんでいるのだ、今の時代に。

「うわー、でっかい家!」

 それでも目の前の屋敷を見たとたん、恨みもわすれて感嘆の声をあげた。

 このあたりは豪華な屋敷がならぶ県でも一番の高級住宅地だが、なかでもその灰色の石造りの洋館はずばぬけて広大で、まるで役所か図書館なみに大きく、団地育ちの夏枝には文字どおりお城のように見える。

 堂々とした石の門には「伊塚」と大理石の表札がはめこまれている。

「おい、こっちだ」

 黒い鉄柵のまえで、当然、インターホンで家人を呼ぶのかと待っていたら、鹿島は裏口から入るんだ、とぶっきらぼうに告げた。 

「使用人が正門から入れるわけないだろう。勝手口からだ」

 蔦のからまる石壁づたいに、二人は――夏枝にとってはひじょうに不本意だが――親子のようにならんで歩いた。

「すっげー、でかい家。これ、本当に個人の家なの?」

伊塚豪蔵いづかごうぞうといえばかつては県会議員もつとめた大物だからな。おい、ちゃんとした言葉づかいをしろよ」

「それだけで、こんなでっかい家持てるもんなの?」

「もともとこの辺り一帯の地主だったそうだ。先祖代々からの金持ちなんだよ。たしか幕末までは藩の御典医ごてんい、つまり、お殿様の主治医をつとめていた家柄で、今の御主人は製薬会社を経営している。名家なんだよ」

「へー、正真正銘の金持ちなんだ」

 鹿島は足をとめ一瞬沈黙した。

「いいか、言葉づかいにはくれぐれも気をつけるんだぞ。もう、ここしくじったら俺はしらんからな。あとはホームレスにでもなれ」

 鹿島はゴリラのように大きな四角の顔をさらにいかつくゆがめて夏枝をにらんだ。

「まえのとこ、しくじったのはあたしのせいじゃないよ」

 夏枝も言ってやった。

「禁煙席だっていうのにあの女子大生たちが平気で煙草吸ってさぁ、ちょっと注意したらウェイトレスのくせに生意気だ、って怒鳴りつけてきたんだ」

 夏枝は口紅も、リップすらぬっていない桜色の唇をとがらせた。

「だからって、お前まで怒鳴りかえしてどうするんだ? お客さまは神さまなんだぞ。そのまえに紹介してやったうどん屋では客をぶんなぐりやがって」

 憎々しげににらまれたが、夏枝は不満を吐きつづけた。

「だって、あの助平ジジイ、人のお尻さわってくんだもん」

「ていねいに注意すればいいだろう」

 鹿島は目を空にそらせて低い声でたしなめる。

 雲ひとつない空。太陽がおだやかな光をふたりの頭上にそそいでくる。長袖のシャツ一枚でもじゅうぶんだ。

 空をながめているうちに、夏枝はうんざりしてきた。こんな天気のいい日に、保護司のオッサンとならんで新しい仕事先にむかっている自分が、たまらなく惨めに思えてきたのだ。ゴールデンウィークのこの時期、同じ年ごろの子は旅行や買い物、遊びで青春を謳歌しているというのに、自分はいったいなにをやっているのだろう? 

「世はすべてこともなし、だな」

 ひばりだろうか。鳥の舞う真っ青の空をながめながら、鹿島がぽつりとつぶやいた。

「なに?」

「詩だよ。ロバート・ブラウニングっていう人のな。知らんだろう」

「知るわけないじゃん。詩なんか読むわけないじゃん、あたしが」

「そりゃそうだな。たまには本も読んだ方がいいぞ」

 夏枝はうんざりして空の鳥をにらんだ。

 保護司のあつくるしげな黒いスーツの背中、広大な洋館、青い空を気楽に飛ぶ鳥。すべてがうとましくて、憎らしい。

「あーあ、なんか、かったるいな。このままふけちゃいたい」

 言うだけ無駄だとは思っていても、ついそんなぼやきが出る。

「みんなこんな日は遊びに出かけているのにさぁ」

「ガキはな。働いている大人はごまんといる。俺だってそうだ。しかも俺の場合、無給だぞ」

「え! そうなの?」

 保護司というのは官職になると聞いたので、てっきり国からお金が出ているのだと思いこんでいた。

「それでも、おまえのためにゴールデンウィークをつぶして、こうやってつきそってやってるんじゃないか。第一、おまえの場合は、自業自得だろう」

 鹿島は前をむいたまま声をひそめた。

「盗みなんぞするからだ」

「だって……」

 お金が欲しかったんだもん……。

 内心でつづけた言葉は、外に出ることなくむなしく夏枝の胸底におちていく。なにをしてもいいからお金が欲しかったのだ。あのときは。

「いいか、とにかく今度は絶対しくじるんじゃないぞ」

「へいへい。……でも、あたしにお手伝いの仕事なんか出来るかなぁ……。料理なんかろくにしたことないんだよ。掃除はあそこで毎朝させられていたけどさぁ」

 ファーストフード店や料理屋のアルバイトなら経験はあるが、まったく見知らぬ家に泊まりこんで家事をするというのが、十六の夏枝には気がおもく、心細くもある。

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