第15話 かすかな絶望
「おそかったわね」
勝手口から屋敷にもどったとたん須賀のつめたい視線が夏枝をむかえた。
「すいません」
今日も白のブラウスと黒のロングスカートの須賀は腕をくんで、なにかをさぐるように夏枝を睨みつけてくる。
「鹿島さんと会っているだけにしては、時間がかかりすぎじゃない?」
「すいません」
以前の夏枝ならくってかかったかもしれないけれど、さすがに六ヶ月間ふつうの女の子が過ごさない場所で過ごしてきたことは、多少の忍耐力と処世術を夏枝にあたえた。こういう場合けっして反論しない。とにかく相手の怒りや不満が過ぎさるのを待つのみだ。それに、和之と会っていた夏枝は、たしかに須賀にたいしては疚しさもある。
「すぐにお嬢さまのお部屋にお茶とお薬をはこんでちょうだい。お嬢さまはあなたを気に入っているようだから」
好きというのではなく、気に入っている。飼い主が猫や犬を可愛がるようなものだ。
「はい」
よけいなことを考えるのはやめよう。夏枝はとにかく言われたことをするためエプロンをつけ、すでに台所のテーブルのうえに用意されていたお茶のトレイをはこんだ。
赤い絨毯と緑の壁の迷路にも似たながい廊下をすすみ秋奈の部屋にむかった。部屋のドアはすこしひらいていた。
「お嬢さま、お茶とお薬をお持ちしました」
長椅子のうえで秋奈は昼寝をしている。
本を読みかけていてまどろんでしまったのだろう、右手に本を持ったまま眠っていた。夏枝はそばのガラステーブルにしずかにトレイをおいた。起こすべきか、そのままにしておくべきかすこしまよった。
「お嬢さま」
もう一度小声で呼んでみた。すこやかな寝息がかすかに聞こえる。白い肌、つややかな黒髪。ピンク色のフリルのついたブラウスに黒のスカート。乙女ティックそのものだ。あわいピンク色の壁紙をはりめぐらした部屋、
夏枝の人生には、世界には、まったくなかった甘い香が、この部屋にはむせるほどにつまっている。吐き気がした。
贅沢につつまれ幸せそうにまどろむ眠り姫。おなじ歳、おなじ女の子でありながら、天と地ほどにちがう境遇に生まれついた相手をまえにして、憎しみをまったく感じない少女がいるとするなら、その子には感情というものがないのだろう。いっそ感じる心がなければ、幸せだったとすら思う。達也を好きになって失敗し、西明寺や和之にすこし魅力を感じていらだっている。だれかに好意をもてば苦しみ、人を憎んではさらに胸を痛めている自分がいやになってきた。
(あたし、なにやってるんだろう?)
不意に、自分でもたじろぐほど激しい想いが夏枝の胸につきあげてきた。
ここで、こうしている自分。学校へも行かず、過去をかくし、エプロンすがたでトレイをもってきて、ぼんやりつっ立って秋奈を見下ろしている自分。つきあげてきた感情の根っこにあるものは絶望だった。
(あたしには……未来がない)
たくさんある部屋に毎日はたきをかけ、掃除機をかけ、テーブルをふき、窓をみがき、庭の草むしりをして、そうして過ぎていく青春の日々。そうして一ヶ月が終わり、二ヶ月が終わり、半年、一年が過ぎ、夏枝の十六歳の夏は、秋は、冬は過ぎていくのだ。
人間は身勝手だ。ほんの
つつましい自由が手に入れば、今度はもうすこしの贅沢とさらなる自由がほしい。時間が欲ほしい。可愛い洋服やアクセサリーを買うお金もほしい。スマホだってもちたい。そしてなによりも、未来がほしい。恋がほしい。十六歳の今、すべてをかけて愛せる人がほしい。すくなくとも、院に入るまえには夢中になれる相手がいた。幼い情熱をささげられる人がいた。そしてその人のために道をあやまり、あわい恋も、わずかな夢も、若さゆえに最低限は約束されていたはずの平凡な未来すらうしなった。
新聞も、テレビも、ここへ来てからもほとんど見ることのなかった夏枝だって、今の世のなかがきびしいことはわかっている。大学を卒業した人間ですら職さがしに困っているのが現実だ。少年院に入れられていた高校中退の夏枝に、今の仕事だって得るためにどれだけ鹿島が奔走したか。そんな鹿島の必死の努力と期待をすでに二回も裏切っている。
(でも、でも……、あたしだって)
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