第7話 怒り

 まずいとは思うものの、つい喧嘩ごしになってしまった。西明寺はびっくりした顔をして組んでいた脚をなおした。

「いや、失礼。トラウマが原因で集中力や理解力が欠如する場合には、幼児期の家庭環境が原因のケースがほとんどなのでね。つい興味をもって」

 つい、興味をもって――。

 その言葉が夏枝の神経をひっかいた。怒りがふきこぼれる。

「ひ、人の家庭のこと、いきなり初対面でずけずけ訊くのは失礼だと思うんですけれど」

「あ、ああ、そうだね。僕が悪かった」

 あっさり謝られるとよけい腹が立ってくる。

 いけないとは思っていても、いったんあふれでた不機嫌の嵐はおさまらない。

 もっと自分を見つめて、怒りをコントロールできるようにならなければならないと院では何度も教えられたが、それができるようならこんな苦労をせず、もっと楽に生きていけていたろう。

 夏枝の胸に喫茶店やうどん屋での苦い経験がこみあげてきた。理性では落ちつけと必死に自分をなだめているのに、本能は胸のなかにひそむ怒りを爆発させてしまいたくて苦しい。また、ここもしくじってしまうのだろうか。

「どうかなさったの?」

 天の救いというべきか、広間に秋奈が入ってきた。険悪なムードを察して、いぶかしむような目でふたりを見ている。

「いや、僕が失礼なことを言ってしまって彼女を怒らせちゃったんだ」

「あら? もう喧嘩しちゃったの?」

 黒真珠色の瞳をいたずらっぽく光らせて秋奈が笑う。白いワンピースすがたのせいもあって、まるで部屋に純白の百合が咲いたようで、夏枝は奇妙な甘酸っぱさを感じた。

「もう自己紹介はすんでらっしゃるのかしら? 夏枝さん、こちらね、わたしの主治医の西明寺京介さん。わたしが小学生のころから家庭教師をしてくださっていて、その縁でお医者になられてからもずっと主治医としてお世話になっているの。もう、親戚のお兄さまみたいなものよ」

「よろしく。ほんとにご免。僕が悪かった」

「い、いえ。こちらこそすいません」

 夏枝はうつむいてあやまった。

 雇われている者同士としても主治医と家政婦では立場がまったくちがうのだ。夏枝が西明寺にむかってあんな態度をとっていいわけがない。

「さて、秋姫、ご機嫌はいかがかな?」

「上々よ。発熱もないし、きっと新しいお薬が効いたのね」

「油断は大敵だよ。なるべく身体を冷やさないように気をつけた方がいい」

「京介兄さまは、心配性なのよ」

 愛らしげに微笑む秋奈はまさしくお姫さまだった。楽しげに会話するふたりを前に、どうして自分はここにいるのだろう、と夏枝はわびしい疑問を感じた。すぐ目の前に別の世界がある。

「夏枝さん、お兄さまにコーヒーをお持ちして。わたしには紅茶。コーヒーはお砂糖なしでミルクを多めにね。わたしはレモンティーにして」

「あ、はい」

 しごく当然に命令されて、夏枝はようやく自分の立場を思い出し、この場によばれた理由を理解した。自分は使用人なのだ。

(でも、時間外労働なんだけどなぁ)

 内心の不満とつきでるぼやきをこらえて、夏枝は台所へむかった。

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