第22話 事件
声は男のもののように思えた。
「なんだ……?」
「下から聞こえてきたみたいだけれど」
ふたりは顔を見合わせていた。
「今は運転手もいないはずだし。……ちょっと見てくるよ。君はここにいて」
まだ身体がだるいので夏枝は素直にうなずいた。樫の木づくりのドアがしまり、しばらくしてから西明寺がこわばった表情で告げた。
「下の廊下で、人が死んでる」
まさかと思ったが、赤いカーペットのうえに横たわっていたのは和之だった。
「頭をなにか鈍器のようなもので殴られたんだな」
西明寺はさすがに医者らしく落ち着いていて、死体のそばによって外傷を確認した。
「武器は、これだね」
西明寺は廊下にころがっていた青銅の花瓶を持ちあげた。角のところの台にあったもので、造花をさしていたものだ。西明寺が片手で持てる程度の小さなものだが、それでもずっしりと重そうで、たしかにこれで思いっきり殴られたら命も危ないだろう。
夏枝は呆然と和之の死体を見下ろしていた。思えば、死体を見たのは初めてな気がする。幼いころ親戚の葬式に行ったことはあったが、死体を見ることはなかった。
「今日、会ったばかりだったのに」
「君はこの人を知っているのかい?」
西明寺が意外そうに訊いた。
「今野さん。今野和之さんていう人。以前、お嬢さまの家庭教師をしていて、それでお嬢さまのこと好きになっちゃって、いっしょに自殺未遂したって」
「ああ。僕も話は聞いていたけれど。でも、本人とは一度も会ったことがなかった。そうか、彼が今野くんか。気の毒に」
「どうして……。ひどいよ」
夏枝にとってかならずしも死は遠いものではない。自殺未遂をしたがる子の話はたくさん聞いたし、バイク事故で死んだ子の話や、あやうく命を落とすほどの事故に会った子の話もたびたび耳にした。だが、現実に目のまえに死を間近に見たのはこれがはじめてだろう。
死んだっていい、そんな投げやりなことを言う子はたくさんいたし、夏枝もそんなことを口にしたこともあったかもしれない。だが、こうして直面してみると死はやはり恐ろしい。
つい数時間前まで、いくら悩みや憂いをかかえていたとはいえ、和之は生きていた。若さゆえの生命力にあふれ、多難ではあっても、すすむ道があったはずだ。
目は苦しげに見開いていて、おそらく揉みあって殴りたおされたのだろう、横向きの不自然な体勢のまま石のようにそこにかたまってしまっているものは、すでに人間ではなく物体になってしまっているようで不気味だった。
「だれが……、こんな。ひどいよ」
かわいそうに……。涙があふれた。
「運転手は今日は休みのはずだし、伊塚氏は一昨日からニューヨークだ。今日は須賀さんは目医者に行くと言っていた。つまり、この館にいたのは君と僕と秋奈ちゃんということになるね」
「まさか!」
「もちろん、君と僕は論外だ。だが、そのことを他人に証明できない」
西明寺がいったいなにを言おうとしているのかわからず夏枝は目を見ひらいた。
「まぁ、僕らの犯行でないことは確かとして、そうなると犯人は秋奈ちゃんでしかありえないことになる」
いきなり犯行とか犯人などという言葉がごく自然に西明寺の口から出てきたので、ますます夏枝はこんがらがってしまう。
「西明寺さん、もしかしてお嬢さまが今野さんを殺したとか思ってるの?」
「可能性としては一番ありえるよ。今野くんは、ずっと秋奈ちゃんをつけまわしていたんだから」
「で、でも、それは、自殺しようって言ったのはお嬢さまなのに、今野さんのせいみたいにされたからで」
「もしそうなら、なおさら彼は秋奈ちゃんを憎んでいたはずだ。彼が屋敷へしのびこんできて、秋奈ちゃんと口論になり、もみあっているうちに、ついはずみで、ということはじゅうぶんにありえるよ」
「ち、ちがう、ちがう。今野さんはお嬢さまを憎んでいたんじゃなくて、心配していたんです」
「どういうことだい?」
口ごもりながら夏枝はそれでも必死に和之から聞いた虐待の話をした。
「伊塚氏が秋奈ちゃんを虐待していたって? 馬鹿な」
はきすてるように西明寺は否定した。
「僕は学生時代から伊塚氏を知っているからね。あの人はまちがっても自分の娘を虐待したりなんかしないよ」
一見、どうみても子どもを虐待しそうにない人が我が子を虐待する話など世間にはざらにあるのだが、夏枝はなにも言わなかった。
「それよりも、秋奈ちゃんをさがそう。部屋にいないんだ。あの状態で外へ出たとは思わないが、もし薬が効きだして外見がもとにもどっているなら、屋敷から逃げだしたのかもしれない」
西明寺はすでに秋奈が犯人だときめつけているようだ。たしかに状況や事情を考えればそれしかありえないが、夏枝には、たとえ十六歳の若い身体のときでも、あのかぼそげな秋奈が人を殺したなどと想像できない。
「あの……警察には?」
「それは後だよ。まず秋奈ちゃんをさがして事情を聞こう。それに、伊塚氏にも連絡しないといけないし」
それでいいのだろうか? こういう場合はすぐに警察に連絡すべきではないのだろうか。夏枝は奇妙に感じた。
「警察を呼べば、君だってこまるだろう?」
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