第29話 妖怪
「緑は、逃げようにも薬づけにされていて、まともな体力も気力もなかったらしい。学校も行ける状態じゃなかったし、よけいなことをしゃべるのを恐れてほとんど軟禁状態にしていたが、それでも勉強だけは続けたがっていたという。さすがに西明寺が仏心をだして、家庭教師をよんだんだが」
緑は苦しさと寂しさからのがれたかったのだろう。その家庭教師と心中さわぎを起こしてしまったのだ。二人で多量の睡眠薬を飲んだのだという。
「おもてむきは助かったことにして……なんでも、病院で若がえったすがたの貴代美といれかわったらしい。そこは伊塚氏の息がかかった病院なんで、診断証ぐらいどうにでもなるんだ。……西明寺によると死体は裏庭に埋められているらしい。気の毒に。今、捜査官たちが掘りだしているよ」
若い娘の身体が必要だと言っていた西明寺の言葉を思い出して夏枝は足がふるえそうになった。おそらく緑の死体からも西明寺は必要なものを得たはずだ。
十四歳で父親に強姦され、その父親を刺し殺すという過酷な運命のはて、一見金持ちの養女としてめぐまれた生活をあたえられたと思ったら、強姦よりもむごい目に合わされた大川緑という少女のみじかく悲しすぎる運命に、一瞬鹿島も夏枝も言葉をうしなった。
「あの死んでいた男の子、今野というのか? あの子も気の毒に秋奈、つまり緑に会いたくて屋敷にしのびこんだところ、ばあさんと出くわして、もめて、殴り殺されたんだろうな。そのときのばあさんは若い身体だから体力もあったんだろう」
和之は事の真相――すくなくともこの家の娘が、自分がいっしょに自殺未遂をした少女ではないことに気づいて、そのことを貴代美に追及したのかもしれない。
このことに唯一救いがあるとするなら、死んだ緑と和之のあいだに芽生えた淡い恋は、けっしてすべて嘘ではなかったということだ。緑が本当に苦しんでいたことは事実であり、和之との死にせめてもの慰めをのぞんだことも本当だったのだ。今となっては和之につたえてやれないことが残念だが。
「伊塚氏は緑が生きているようにして、そのときから御寮人さま、つまり薬で若返った伊塚貴代美が緑のようにふるまうようになったんだ。十代の娘のすがたで警察にも家庭教師との心中のてんまつを説明したりして世間の目をごまかして。なんとも狂った連中だよ」
緑は幸か不幸か十五歳で亡くなった秋奈とよく似た顔立ちだったらしく、もともと秋奈は祖母である貴代美に似ていたので、若返った貴代美を見ても、緑と貴代美は酷似していた。不幸なその偶然が、彼らの計画をいっそうつよく後押しする結果になってしまった。
「つ、つまり、最初の本物の秋奈お嬢さまは病気で亡くなっていて、つぎに緑さんが秋奈さんの身代わりみたいにされて、で、自殺して、またそのつぎにあのお婆さんが秋奈さんのふりしていたっていうことなんだね?」
頭のなかで、会ったことのない秋奈や緑、そして若い貴代美と老婆の貴代美がぐるぐるとまわる。それらの幻がまざりあって、〝お嬢さま〟になる。自分は結局、幽霊か幻に憧れ、妬んだのだ。
「八十近いばあさんが、学校へ行って高校生のふりしてたの?」
「いや、制服を着て車で外出したりしたのはカモフラージュみたいなもんで、実際には研究所に行っていたらしい」
「あ、そうだったんだ」
夏枝は気抜けした声をだしていた。
「そもそもあの妖怪ばあさんが異常に若さに執着していたのも、ばあさんの腹ちがいの末の妹が、やはり早老症で十代で八十ぐらいのすがたになって死んでしまったのが一番の原因だったという。俺も専門家じゃないからよくわからんが、早老症というのはこの家の血筋にまつわる遺伝病らしいんだな。昔はこの病気に関する知識も情報もなかったから、一族につたわる呪いのように言われて、そんな環境がいっそうあのばあさんの精神を狂わせてしまったのかもしれん」
鹿島はひどく言いづらそうにつづけた。
「この三年のあいだにこの屋敷にメイドとして雇われた娘――それぞれ問題があったんだが、その娘たちが全員消息不明となっていたこともわかってきて……」
夏枝は今度こそ本当に伊塚貴代美という女性の異常さとこの屋敷のもつ恐ろしさにふるえあがった。その娘たちは今もおそらく広い庭のどこかで眠っているはずだ。
窓をぼんやりながめていた貴代美の夢見るような目が夏枝の脳裏によぎった。少女たちの血肉を犠牲にして若さをたもち、その屍の眠る屋敷のなかで、八十の精神に十代の少女のにせものの皮をかぶったあの女はいったいなにを思って日々を過ごしていたのだろう。
「気味悪くなってな。電話をかけてみても須賀も西明寺もなかなかおまえにとりついでくれないし、おまえもあんまり俺と連絡をとろうとしないし。虫の知らせというのか……、今日、不意うちでたずねてみようと思って近くまで来たら、俺の携帯におまえの携帯から連絡がはいってきて――。若い男の声で今すぐ来てくれって言われて。あれ、おまえの友だちか?」
達也は逃げるまえに危険を察知して鹿島に連絡してくれたらしい。夏枝の胸に悲しさとうれしさが複雑にからみあってはじけた。
「あんたゴリラさんか? たのむからすぐナツのところに行ってやってくれ、って。それだけ言ってすぐ切れたぞ」
(達也ったら!)
最後によけいなことを言ってくれた。
「なぁ……友だちなら、まちがっていることをしていたら止めてやらないと」
それ以上は鹿島はなにも言わなかった。夏枝はうつむいて紅茶をすすった。自分はこの不器用なまでにまっすぐな保護司を裏切ったのだ。だが、それに関しては、うすうす気づいていながらなにも言おうとしない鹿島のやさしさが痛かった。
「それ飲んだらすぐこの屋敷を出よう。警察で話を聞かれるが、俺もついていくから。な」
返事をするかわりにうなずいた。すくなくとも自分には白馬の王子さまは来なかったが、不器用なゴリラがかけつけてきてくれたのだ。緑や他の少女たちよりは幸せだったのだ。
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