第11話 午後の喫茶店
それでも二週間もすぎると、あたらしい環境にも仕事にもすっかり慣れてきた。ときどき言われたことをまちがえたり、うまくできないこともあるけれど、たいした失態もなく、まずは無難にやりこなせている。なにより、ここには、ささやかながら自由がある。
トイレに行くのにいちいち許可をとらなくていい、安物でも自分の服を着れる。規則、規律に追われることもない。生理のときに、いちいち教官にナプキンをもらいに行かなければならなかったあのころの生活にくらべたら、ここはつつましい天国だとすら思える。なにより毎晩お風呂に入れるのだ。これは本当にありがたい。
ほうきで庭掃除をしながら、晴れた朝の空をながめて夏枝は自分をなぐさめるようにそう思ってみた。相変わらず達也からはなんの連絡もない。
鹿島からはたびたびメールがきている。保護司とは連絡をとりあうことになっているため、また会わなければならない。親からの連絡は待つだけ無意味だと思っているので、まったく当てにはしていない。西明寺は週に二回ほどの割合で伊塚邸に来るが、あれから特にもめごともなく夏枝はふつうにお茶を出して挨拶している。
二日ほどまえ来たときには、「この本を読んでみるといいよ」と例のADHDという症状に関する本を貸してくれた。それまで夏枝にはマンガ以外に読むという習慣がなかったので、正直かなりうっとうしく思ったが、それでも夜寝るまえにすこしずつ目をとおすようにしてみたところ、目から鱗が落ちるような衝撃を受けた。
ADHDの症例が、びっくりするほど自分に当てはまるのだ。
(やっぱり、わたしって病気なわけ?)
それはひどく不安でいて、納得できて、そしてすこし救いにもなった。自分が学校でうまくやっていけなかったのには、事情があったのだ、という奇妙な安心感。自分が悪いのではない、というひとつの救済を発見したような安堵だった。自分のまわりにからみついていた灰色の煙がすこし消えたような気分だ。
「それがどうしたっていうんだよ?」
西明寺が貸してくれた本の表紙を見ただけで、鹿島はそうそっけなく言い、思わず夏枝はひいてしまった。
「だから、それがどうしたっていうんだ?」
無言の夏枝にさらに鹿島が問う。暑いのか、めんどくさそうにネクタイを引っ張って、おしぼりで顎のあたりを拭いている。
「えー、だからって……。つまり、あたしは病気だったわけで……っていうか、もしかしたら病気だったかもしれなくて」
伊塚邸からすこしはなれて道をくだったところにぽつんとある喫茶店。心地良い程度に冷房の効いたコーヒーの香る空間で、ゴリラに似た保護司をまえにして夏枝は強烈な後悔におそわれた。ジーンズの膝のうえで
(どうしてこいつに話したんだろう?)
それでも、すこしでもいいからわかってほしくて夏枝は口をひらいてなんとか言葉をひねりだそうとしてみた。今の夏枝の境遇で、こういうことを報告し、相談し、なにかしらの共感や同情をあたえてくれそうな相手というのは、なさけないことに鹿島しかいなかったのだ。
「だから、あの……、わたしが勉強できなかったり、学校でうまく他の子とやっていけなかったのは、もしかしたら、あたしがADHDか、PDDかもしれないわけで」
「そんなこと、まえから知ってたさ」
「え?」
思いもよらないことを言われて夏枝はつぎの言葉がつづかなかった。
「いや、ADHDか、PDDか、厳密な判定まではしてないけどな、院に来るようなおまえらみたいなガキはみんなそういう病気持ち――って言ったら悪いが、とにかく、そういう症状があるんだよ」
言葉は悪いが野太い声は不思議とやわらかくひびく。平日の午後、住宅街のはずれのちいさな喫茶店には、客は夏枝たちと若い男ひとりだけだ。鹿島は大きな顔をひろい肩に落とすようにして声をひくめてつづけた。
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