第20話 奇病


「大丈夫かい?」

 大丈夫ではない。頭がずきずきする。

「先生……?」

 心配そうに西明寺が形のよい眉をよせて夏枝を見下ろしている。秋奈が寝ていた長椅子のうえに横たえられていた。身を起こしたとたん、船酔いのような不快感がおそってきた。

「あ、あたし、いったい」

「これ、飲んでごらん。薬の副作用で脱水症状を起こしているのかもしれない。ゆっくりね」

 紅茶のなかには薬が入っていたのかもしれない。

 水のつがれたグラスを受けとり、言われたようにゆっくりと口にした。一口、一口、生命がこもっているような清水が夏枝の喉も身体もうるおしてくれる。意識がはっきりしてきて、気をうしなう直前に自分が見たものを思い出した。 

「あ、あれ、いったいなんだったんですか? お嬢さまが、ものすごいおばあさんみたいになって」

 老婆の秋奈を思い出したとたん、背すじが寒くなった。もしかしたら、夢でも見ていたのだろうか。

「プロジェリアという病名を聞いたことがないかい?」

 西明寺は壁際のちいさな椅子を持ってきて夏枝のまえに腰かけ、小学生の子どもに算数を教えるように説明してくれた。

「正式名称は、ハッチソン・ギルフォード・プロジェリア症候群。先天的遺伝子異常を原因とする早老症のひとつだよ」

「早老症?」

 聞きなれない言葉に夏枝の目がまるくなる。

「プロジェリアの語源はギリシャ語の〝早過ぎる老化〟という言葉からきているんだよ。新生時期ないし幼年期に発症し、全身の老化が異常に進行する早老症疾患をいうんだ。ウェルナー症候群とともに主要な早老症のひとつとされ、百万人に数人という割合で起こる非常にまれな病気だ。映画にもなったことがあるし、この病気のカナダ人の女の子のドキュメンタリーが日本でも報道されて注目されたことがある」

 言われてみれば、なにかで読んだか聞いたかしたおぼえがある。

 人の何倍ものスピードで歳をとる奇病をあつかった映画――たしかロビン・ウィリアムズという俳優の主演だった――を、むかしテレビかネットで見たことがあった。

 外見は四十代の中年男性に見える少年の話で、映画のラストで、彼はひどく老いてはいたけれども大学を卒業し、未来に希望をもっていた。カナダ人の女の子の話も書店でそれに関する本をちらっと見かけた記憶があるが、その少女のその後は聞いたことがない。

「この病気はとても残酷で過酷なものなんだよ。患者にとって一年間の老化が、ふつうの健康な人間の十年以上に相当するといわれている。わかるかい? 極端な話、十歳の子どもが百歳の老人の身体になってしまうんだ。薬によってはなんとか症状をゆるめることもできるが、根本的な治療法はいまだ開発されていない。不治の病と呼んでさしつかえないだろうね」

「な、なおらないんですか?」

 悲壮としかいいようのない老女――つまり老女のすがたの秋奈の表情を思い出して、夏枝は思わず身ぶるいした。西明寺はかすかにうなずいた。

「この病気の患者のおおくは身長、体重の発育がとぼしく、強皮症や頭がはげるなどの皮膚老化、頭髪形成の不良、脱毛、骨格、歯の形成不良をかかえている」

 そういえば、写真でちらっと見たカナダ人の女の子も髪の毛がほとんどなかったような気がする。西明寺は医者としての言葉でつづけた。 

「外形的には頭頂部大泉門とうちょうぶだいせんもんの閉鎖不全を起こしてそうじて小人症――異常に背がちいさい人のようになり、頭部がおおきく見え、頭ははげ、眉毛も睫毛も生えなくなり、皮膚はしわだらけでちぢみ、鼻は細いかぎ鼻のようになるんだ」

 まるで醜い妖精のようだ。そんなことを想像して夏枝は恥じ入った。

「けれど神経器、脳機能は正常に機能、成長するため認知症等の症状は出ない。つまり、外見はどんなに老いても、精神は、心はそのまんまんだ。しっかりとした健常な精神で、毎朝、毎晩、自分の急激な老化を否応なしに鏡で見て、運命と向かいあわなければならない。悲劇だよ」

「う……」

 秋奈がそんな業病に犯されていたなどと思いもしなかった。夏枝は両手で口をおさえて、こみあげてくる恐怖とも不快感ともつかないものを必死におさえた。

「症状がすすむと、皮膚の老化だけでなく、高コレステロール血症、動脈の軟化ははげしくなり、骨は弱くもろくなり、白内障、網膜の畏縮、白髪、脱毛などの早老変性はますますいちじるしくなる。想像できるかい?」 

 西明寺のもたらす難しい言葉を夏枝はひっしに理解しようとした。

「これから花ひらこうという十五、六の少女が、数百歳の老いた魔女のように醜悪になってしまうんだ。それが年頃の少女にとってどれほど残酷なことか、どれほど絶望的なことか……。僕は秋奈ちゃんがこの病気だとわかったとき、なんとしても救ってあげたいと思った。だが、現代の医学では、まだどうにもできないんだ。医者として、己の無力を思い知らされた。彼女のためなら、彼女ののぞむことならなんでもしてあげたかった。それで、すこしでも彼女が過酷な運命を忘れることができるなら、悪魔に魂を売っても悔いはなかった」

「先生……?」

 西明寺の目は夏枝を見ていなかった。

「彼女には、ひとつだけ救いがあった。それは、彼女の病状は今までの、通常のプロジェリアとちがって、新種だったんだ」

 一瞬うつろになった彼の目に、かすかな光がきらめく。

「新種……ですか?」

「そう。通常のプロジェリアは生後半年か二年以内に発症するが、彼女が早老症とわかったのは中学を卒業したころだった。ちょうど初潮をむかえたころから、しきりと体調不良をうったえるようになり、それまでは元気な子だったのに、やたらだるいとか、しんどいとか言うようになり、部屋にこもりがちになっていった。最初は思春期特有の体調の変化による一過性のものだと思っていた。だが、そのうち脱毛がひどくなり、肌荒れが目立つようになり、無理もないことだが、彼女は極端に人と会うのをいやがるようになり、部屋にひきこもって学校へも行かなくなった。主治医として屋敷にたびたび来ていた僕は仕事でいそがしい伊塚氏にかわって彼女の保護者がわりとなり、彼女を説得してさまざまな大学病院をまわって調べてもらったんだ。さっきも言ったようにこの病気は非常にまれなもので、しかも少女期に入ってからの発症ということで、判定がむずかしかったんだ。それでも、いろいろ検査するうちに、早老症の症状に当てはまることがわかった。本当にショックだったよ。彼女になんていってつたえればいいのか。まる一日悩んだ。……夏枝くん、君は朝を怖いと思ったことはあるかい?」

「朝が、ですか?」

「そうだ。朝日がのぼり、一日がはじまる一番すがすがしくて美しい時間を、恐ろしいと思ったことはあるかい?」

 学生時代は毎日思っていた。学校も勉強も大きらいだった。院に入ってからもそれは変わらない。毎日、毎日、規則づくめで管理された生活。なにひとつおもしろくも、楽しくもない一日。夏枝にとって朝日というものは、つねに憂鬱と絶望をはこんでくるものだった。朝を憎んでいたと言っても過言ではない。

「怖かったです。一日のなかで朝が一番きらいだったから」

 夕方になって、学校が終わり自由になった瞬間は、ほんのすこし好きだった。とくに達也と出会ってからは、夜こそが夏枝にとっての黄金の時間だった。院に入ってからも、日が暮れて世界が闇に染まれば布団のなかに逃げこみ、夢の世界へ飛びたつことができる。現実をすこしだけ忘れて、そこだけは心地良い布団のあたたかさのなかで、達也との蜜月の時間にもどることができる。

「朝は、つらかったです。きらいでした」

 西明寺はかすかにほほえんだ。

「秋奈ちゃんも言っていたよ。朝なんて大きらいだ。朝、鏡を見るのが一番いやだって。髪の毛はぬけていないか、しわはふえていないか、毎日それを調べるのが彼女のそのころの朝の儀式だった。十五の少女が、だよ」

 西明寺はもうほほえんでいなかった。代わりに知的な瞳には怒りが燃えている。秋奈にそんな残酷な運命をあたえた神への恨みと、医者でありながら、なにもできなかった自分自身に対するはげしい憎悪が燃えている。

「僕はなんとかして彼女を救う方法がないか、治癒は不可能でも進行をすこしでもおくらせる手段がないか、必死にさがした。そんなとき、アメリカで開発された新薬の情報にとびついたんだ。プロジェリアの原因はね」

 西明寺はうすい下唇をすこし噛んで、なんとかわかりやすく説明しようとしてか、言葉をゆっくりとつないだ。 

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