第19話 異変

 たたきつけられた白手袋をたたきかえしてやるような気概をこめてカップを受けとった。いかにも高価そうな繊細な形のカップのなかでは、ぬるくなってしまった蜂蜜色の液体がゆれている。一口、飲んでみた。夏枝にはすこし苦い気がするが、ふつうの紅茶としか思えない。

「美味しい?」

 いたずらそうに秋奈が微笑む。おもしろがっているようだ。

「夏枝さん、いっしょに死んでくれる? 和之さんのときは失敗したけれど、夏枝さんがいっしょに死んでくれるなら、わたしさびしくないわ」

 またそれか。夏枝はすこしうんざりしながらカップをテーブルの上においた。

「どうして死にたいんですか?」

「言ったでしょ、わたしは生きていてはいけない人間なの。わたしが生まれてきたためにお母さまは亡くなったのよ。わたしはお母さまを殺して、お母さまの命とひきかえにこの世に出てきたの。おまけにこんな身体だから、いっそうお父さまには憎まれたわ」

 笑みのうせた表情に夏枝は態度をかえた。 

「そんな……、それはお嬢さまのせいじゃないですよ。それに、こんな身体って?」

 身体が弱いとは聞いていたが、とくにそれほど問題があるようには思えず、夏枝はいぶかしんだ。

「気づいていない? あのとき、見たじゃない? まったく気づいていなかったの?」

 秋奈はひどく悲しげな顔になった。やさしい姫君から高慢な魔女へとかわり、そして今度は悲劇のヒロインだ。夏枝はこんがらがってくる。いったい秋奈というのはどういう少女なのだろう?

「うっ……」

 きゅうに苦しげに秋奈が身をよじらせ、夏枝はおどろいて、うずくまる彼女のそばによった。

「ど、どうしたんですか? 須賀さんを呼んできましょうか?」

「さ、さわらないで」

「え?」

 

 夏枝は自分の目が信じられなかった。

 白い手。秋奈の細い白絹色の手がおりまげた膝のうえでふるえて、くずれていく。皮がかたくなり、色がくすみ、みるみるうちに醜くしおれていくのだ。

「お、お嬢さま?」

 手だけではない。黒髪がほそく白くなっていく。

「ああ……」

 しなびた両手で秋奈は顔をおおってうずくまった。背骨がまがっていき、もともと小柄だった身体がさらにちぢこまっていく。着ているものだけは若々しく可愛いもので、そのなかに百歳の老婆がうずくまっているのが異様だった。

(そんな……、そんなことって)

 夏枝の足がふるえる。

 やっと秋奈の言っていたことの意味がわかった。あのとき見た御寮人さまは、秋奈だったのだ。 

「み、見ないで」

 皴だらけの指がおなじく皴にうもれそうな顔を必死でかくそうとする。指のあいだに涙がしたたるのが見えた。十六歳の少女も、百歳の老女も、ながす涙は変わらないことが夏枝には不思議に思えた。

「お嬢さま……」

 と呼んでいいのだろうか。異常な状況に頭がくらくらしてきた。足もとがくずれていく錯覚におそわれ、夏枝もまた床に膝をついた。

(あれ……?) 

 錯覚ではなく、夏枝自身がくずれていっているのだ。頭がぐらぐらする。意識がぼんやりとおくなる直前、秋奈の老いさらばえた顔のなかに光る目が悲しげに夏枝を見ていた。


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