第25話 陥落
「そ、それって……。で、でも」
一瞬の驚愕のあとには、甘い蜜のようなときめきが天からふってきて頭から足もとまで夏枝の全身にしみとおり、身体の芯からとろかされていく気分になった。
達也といっしょに街を出る――。そして、見知らぬ土地で、ふたりで、ふたりだけで暮らす。それが出来たらどれほど素晴らしいだろう。
「な、ふたりで逃げよう」
両肩をつかまれ、ゆさぶられ、夏枝は思わずうなずいてしまった。
「そのためには金がいるんだよ。俺、なさけない話、全然金ねぇんだよ」
達也が心底なさけなさそうに男らしい濃い眉をよせた。泣き笑いのような顔が幼げで愛しく、夏枝は自分よりずっと背のたかい達也を抱きしめ、その頭を自分のちいさな胸もとにつつみこんでやりたくなった。
達也といると、ときどきそんな気分になるのだ。他人が聞けば笑うかもしれないが、縦も横も自分よりはるかに大きな身体つきの達也が、ときにちいさな子どものようにいじらしく思えてくることがある。そんなとき夏枝は貧弱な自分の身体全体で達也を抱きしめ、守ってやりたくなるのだ。
(だいじょうぶ、あたしがいるからね。あたしが守ってあげるからね)
愚にもつかぬことをささやき、本気でどうにかしてやりたくなるのだ。事件を起こしたときもそうだった。達也に押し切られるかたちだったが、夏枝自身が、とにかく達也のためになることならなんでもしてやりたかったのだ。最悪の手段で結局、ふたりともが不幸になってしまったが、それでも夏枝は、他人を傷つけてしまったことを後悔しても、達也のために道をふみはずしたことは後悔していなかったことに気づいた。気づいてしまったら、もうもどれない。
「これだけの屋敷なんだから、きっといくらかあると思うよ」
今までの必死の努力がすべてむなしくなってしまっても、今自分ができるすべてのことを達也のためにしてやりたい。たとえそのためにまたつかまって少年院送りになっても、それでもかまわないとすら思う。
「いいのか? 本当にいいのか?」
言いながらも、その目は嬉しそうだ。
「うん。いいよ。達也といっしょなら地獄の底まで行く」
ドラマのような台詞を言っている自分が信じられない。
「私の部屋で待ってて」
夏枝は達也を自分の部屋につれていった。
夏枝の部屋は勝手口に近いので、いざというときすぐ逃げだせる。西明寺は庭からもどらないし、秋奈は、今は彼女の方が追われるようにして身をひそめている。今しかない。今が絶好のチャンスなのだ。
「ひとりで大丈夫か? 俺も行こうか?」
「ひとりの方がやりやすいと思う。もし見つかったら、あたし大声出すから、たっくん、すぐ逃げて」
「馬鹿! おまえひとりおいて逃げれっか」
こんなことをしている夏枝を、世間一般のまともな人はみな愚かだと笑うだろう。けれど、そんな世のなかの常識人たちは、生涯知ることがないだろう。追いつめられた獣の子たちの情愛というものが、どれほどこまやかで甘いか。この想いのためなら死んでもかまわない。夏枝は本気でそう思っていた。
「待っていて」
夏枝はそう言いのこすと二階の東はしにある伊塚氏の書斎へ足をむけた。
今はいくら金持ちであっても、いや金持ちであればあるほど大金をそうそう手もとにはおかないものだが、それでも逃亡資金になるような金目のものがあるかもしれない。重たいドアには、幸か不幸か鍵はかかっていなかった。夏枝はおそるおそる部屋のカーペットをふんだ。心臓が今にも粉砕しそうだ。
(ごめんなさい)
痛みのあまり血をふきそうな胸を必死になだめ、重々しいディスクの引き出しを乱暴にあけて、なかをひっかきまわした。茶色いA4サイズの封筒がある。それをひっぱりだし、その下をさぐってみたが何もなく、いそいで封筒をもどそうとした瞬間、封がしていないのに気づき、つい気をひかれて中を見てみた。
夏枝は一瞬、息をのんだ。入っていたのは数枚の履歴書の束であり、一番上には自分のものがある。書きなぐったような赤のサインペンで、〝少年院、窃盗、傷害〟とあるのだ。赤色のインクがどぎつく禍々しく光っている。
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