第13話 気弱な彼

 相手にすべきではないだろうけれど、困りはてたような顔を見ていると、警戒よりも同情を感じてしまう。

「僕、今野和之こんのかずゆきっていうんだ。このちかくのH大にかよっているんだけれど……。去年、伊塚家で家庭教師のアルバイトを募集していたんで、申し込んだんだ」

 和之は早口でまくしたてた。

「そ、それで、秋奈ちゃんと知り合って。びっくりするぐらい可愛い子で、一目見て好きになった。それは事実だよ。……ごめん、急ぐんだろう? あるきながら話そうか」

 道のわきにならぶ街路樹が緑の天幕をつくってくれるひろい坂道を、二人はならんであるいた。知らない人間が見れば似合いのカップルに見えるかもしれないが、あいにく夏枝は今ひとつ気の弱い男には興味がわかないのだ。

「秋奈ちゃんのこと好きになったけれど、それはあくまでも友人として、妹みたいに好きになったっていう意味だよ」

 おどおどと和之は説明した。

「それで?」

 本当に気の弱い大学生だ。顔立ちは今時のアイドルのようにけっこう整っているのだが、それがかえって女々しく思えて夏枝の言葉はきつくなる。苛々いらいらしながら、夏枝は話の先をうながした。

「週二回、二時間彼女の勉強を見ているうちに、僕はいろいろ秋奈ちゃんから相談を受けるようになったんだ」

「相談て?」

「学校の友だちのこととか、成績のこととか……そして、家庭のこととか」

 和之はそこでひどく言いづらそうにしたが、夏枝から目をそらしてつづけた。

「秋奈ちゃんから信じられない話を聞いたんだ」

「信じられない話って?」

 五月の陽光がアスファルトの道路を照らしている。すぐ近くの家の花壇では躑躅つつじが満開だ。あたりはひどく長閑のどかでおだやかな雰囲気にみちている。

「その……、その、大きな声では言えないけれど、秋奈ちゃんは、父親から、虐待を受けているというんだ」

「虐待!」

 びっくりして和之の顔を見た。冗談を言っているようには見えない。和之の気弱げな目は真剣そのものだ。

「君は伊塚氏と会ったことがある?」

 恰幅の良さそうな和服すがたの伊塚氏は、夏枝が挨拶にあがったときも読んでいた新聞から目をはなそうともしなかった。夏枝は緊張していたので、かえってホッとしたが。

「……二回ぐらいしか。旦那さまはお仕事でほとんで屋敷にはいないから」

「どう思う?」

「どう、って?」

「……つまり、娘を虐待するように見えるかい?」

 我が子を虐待する親の話なら、夏枝はくさるほど聞いた。

 親に殴られた、蹴られた、罵倒された、階段から蹴りおとされた、熱湯をかけられそうになった、なかにはレイプされたという子も、冗談ではなく本当にいたのだ、夏枝のまわりには。だが、伊塚氏がそういう我が子を虐待する親なのか、秋奈が親に虐待された子どもなのか判断することまではできない。それほどに深くあの屋敷や親子にかかわっているわけではない。自分はあくまでも使用人なのだからと、あえて冷めた目で彼らを見ていたからかもしれないが。

「そんなの、あたしにはわからない。本当にお嬢さまはあんたにそんなこと言ったの?」

「嘘じゃない! 警察でもさんざん、お前の妄想じゃないかって言われたけれど、僕は本当に秋奈ちゃん自身から聞いたんだ! お父さまが毎晩わたしの部屋にきていやらしい真似をする。こんなことだれにも言えない。いやで、いやで、たまらない。死んでしまいたい、って」

 秋奈が父親に汚されているなどと、とても想像できないが、夏枝はそれよりもべつの言葉が気になった。

「警察って?」

 和之は泣きそうな顔になった。男のくせに本当に気の弱いやつだと思ったが、つぎの言葉を聞いたとたん、夏枝は笑えなくなった。

「僕……、僕たち自殺しようとしたんだ」

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